【実体験から考察】幽霊は存在するのか?
日本には百物語といった怪談話で盛り上がろうってな伝統的な座談会なんかがあるように、昔から日本人は心霊現象だとか怪談話だとか都市伝説だとかUMAだとかそうした摩訶不思議な話が大好きなわけです。
私が子供の頃は心霊だとかUMAだとか、そういった類のテレビ番組が非常に多く放送されていて、そういった番組がテレビで流されるたびに教室では一番の話題になったりしていたわけです。
特に女子なんかは心霊現象なんかの話を好む傾向が強く、心霊番組だけでは満足できないのか、心霊写真が載った書籍なんかまで教室に持ち込んで嬉しそうにキャーキャーいっていたりしたモンです。
最近は心霊番組やスピリチュアル番組ってあまり地上波では放送しなくなったみたいですが、その理由の一つとしては おそらく『霊的現象やスピリチュアル的現象を視聴者が信じることにより霊感商法といった悪徳商法を助長させる可能性がある』みたいなのがあるんじゃないかと想像します。
ところで……
実際の話、幽霊っているんでしょうか?
例えば幽霊が出そうなトコって言えばお墓なんかがあります。
真夜中の人里離れた山中にあるお墓……
ロケーション的にはいかにも幽霊が出そうって雰囲気がします。
私の親戚の果樹園が、まさにそういったスポットにあったんですよ。
その親戚の果樹園に泥棒が来て収穫直前の果物をごっそりと盗られたんです。
私、その話を聞いて盗人に対して無性に腹が立ったんで、翌年の同時期に一週間ほど山中でパトロールしていたわけです。
パトロールって何をしていたかと言えば山を周回する山道を夜間ずっと1人で歩き続けていただけなんですけどね。
ちなみに真夜中の山道って静かそうに感じますが意外と騒々しいわけです。
例えばパトロールしている最中にしょっちゅう自分のすぐ目の前に山肌の茂みとかから急に何か飛び出して来たりするわけです。
「すわっ!?犯人か!!」
ってな風に思って咄嗟に懐中電灯で照らしながら身構えると数匹の野犬の群れだったり狸だったりイノシシだったりってな感じです。
盗人ってカンが良いっていうか、現場である果樹園なんかで張り込んでいても現れないワケなんです。
おそらく下見というか周辺から一定時間監視しており、大丈夫だと判断すれば犯行に及ぶって感じなんじゃないかと思うんですよ。
ですので周辺をパトロールして犯人を先に見つけて、こちらが逆に犯人の行動を監視するって感じに持っていき、犯行に及んだ瞬間に警察に通報するなり捕まえるなりしたかったわけなんです。
おっと、話が逸れて行ってますね。
何が言いたいかっていうとパトロールの際、山を周回する山道周辺には
お墓がいっぱいあったにもかかわらず、ましてや夜中に山中のお墓って
いかにも幽霊が出そうな場所を一週間もの間、日没から翌日の日の出までという時間帯に、夜間ずっと歩いていたにもかかわらず幽霊って一回も見なかったんです。
ですのでどれだけ人里離れた山中にあるようなお墓であっても、ましてやそこいらの寺院や霊園なんかにあるお墓に幽霊が出るってことは無いんじゃないかって思うわけなんですよ。
ちなみに「心霊体験をした」って人に話を聞いてみたことって何度もあるんですがね。しかし残念ながら、自分自身の実体験って人は全く居なかったわけです。例外なく「友達が体験した。友達は嘘を言うような人じゃないので間違いない」みたいな感じで友達や知人からの伝聞なんですよね。
それも「川面から白い手が何本も突き出ていた」「幽霊が車の前に飛び出て来た。帰って車をみると手の跡が無数についていた」「ドライブ中に峠道で首無しライダーに追いかけられた」みたいな ありきたりな怪談話だったりするわけです。
あなたもきっと同じような怪談話を聞かされた経験があるんじゃないでしょうか?まさに『素人が話す心霊体験のバリエーション少なすぎ問題』は深刻だと言えます。
でもね……
幽霊自体は存在するのは間違いありません。
なぜそう言い切れるかっていうと、私が実際に見たことがあるので、絶対に居ると自信をもって言えるのです。
『幽霊の正体見たり枯れ尾花』
ってな言葉があります。
真夜中に人通りが絶えた寂しい暗い道なんか歩いていると、恐怖心なんかも相まってススキの穂といった何でもないモノでも幽霊に見えることがある
ってことなんですね。
あるいは夢か現(うつつ)か判断しづらい状態、例えば寝ボケていたり、酩酊状態にあったりといった、薄ぼんやりとした精神状態にある時なんかに
幽霊を見たって思い込むこともあるんじゃないか……と思うわけなんです。
そうしたボーっとした状態にあったにもかかわらず『私!幽霊を見たんです!!』なんて言われても「寝ぼけてただけでしょ」ってなモンで流石にちょっと信憑性に欠けるわけです。
ちなみに私が幽霊を目撃したのはそういった状況とは全く異なっていたわけなんですよ。
なんせ私が幽霊を見たのは昼間だったのです。
ここであなたに質問です。幽霊って聞いた時、どういったものをイメージしますか?実際に少し想像してもらえますか?
イメージして貰えたでしょうか?
大抵の人が幽霊に抱くイメージっていうと、『夜間に白っぽい服装で、動かず、語らず、ただただ木の傍なんかにじっと立っているだけ』ってな感じではないでしょうか?
そう、まさに実際の幽霊ってそういった感じなのです。ただ私が実際に幽霊を見たのは夜間ではなく、真っ昼間だったのですが……。
ところで……
当時住んで家のトイレって家の中ではなく屋外、庭にあったんですがね。庭を歩いてトイレに向かっていると、目の前に幽霊が立って居たのです。
気力が充実していた昼間の時間帯ってことで頭は最高にシャキッとした状態だったんで『幽霊の正体見たり枯れ尾花』『寝ぼけてただけでしょ』ってな感じで錯誤するなんて有り得ない状況だったのです。
ちなみにその幽霊……
つい最近、満てたばかりの曾祖母でした。
関連記事⇒ 【土佐弁】高知では人が死ぬ・亡くなることを『満てる(みてる)』と言う……、といった話。
その日は曾祖母が満ててから、ちょうど49日目、四十九日法要の当日だったのです。
まずは曾祖母のことを少し話したいと思います。
曾祖母は90歳過ぎだったにもかかわらず、足腰は非常にしっかりしており、
普通に畑仕事もこなし、全くの病気知らずで、ボケも全く無い、そういった感じ人でしたね。
人とのコミュニケーション大好き、非常に明るい性格で、全くの健康体ということで杖やシルバーカートといった歩行補助具に頼るようなこともなく、地域の皆から慕われていたことから友達も多く、毎日色んな友達の家を巡って歩き回っていたわけです。
そんなにも元気だった曾祖母の死因は心臓発作でした。
朝食を食べに起きて来ない曾祖母を家族が見に行ったところ、ベッドの中で冷たくなっていたわけです。
いわゆる『ピンピンコロリ状態』です。
前日までは非常に元気でアチコチの友達の家に遊びにいっていた曾祖母が急に満てたってんで地域中が驚きに包まれちょっとした騒ぎになりましたね。
なぜそんなに驚かれ騒がれたかっていうと、前日まで曾祖母は元気で地域中を歩き回っていたってこともあるんですが、新聞やテレビといったメディアでも何回も取材されたことがあるってくらいの県内においてはそこそこの有名人でもあったんです。
そういったこともあり新聞では訃報欄では無く、死を悼む記事が掲載されたほどです。
例えば家の電話が鳴るじゃないですか?
それがメッチャ多くて一日に20回以上も鳴るんですよ。
それらの電話は99%が曾祖母への電話なんです。
同様に来客も多くて、一日に5人以上は来ていたんですが、99%が曾祖母を訪ねてくる人だったわけです。
そういった感じで、とにかく非常に人気者だったことは間違いないですね。
そういった感じの曾祖母だったので幽霊となって現れた姿を見た瞬間、『何か約束事でもあって思い残していることでもあるんかな?』なんて風にも思ったわけなんです。
『あるいは私に最後のお別れを言いに来たのかな?』
なんせ私、曾祖母に非常に可愛がられていたんです。私が生まれて小学校へ通い始めるまで、一時も曾祖母が私を離さずに友達の家に遊びに行く時ですら常に私を連れ回してたって程に、私にべったりだったのです。そういったことから最後に私の前に現れたってことなのかも知れません。
ちなみに曾祖母が満てていた寝室として使っていたのは母屋に隣接する離れ家だったんですが、その前にトイレがあったんです。
昼間、トイレの前まで行った瞬間、離れ家をフッと見ると入口の前に曾祖母が立って居たわけなんです。
もっとも立って居るように見えてはいましたが、実際は足元が膝より下はスーッと消えた状態っていうか、膝より下の部分は完全に背景が見えるばかりだったので、浮かんでいるような状態にも見えましたね。
頭部はキッチリと身長の高さに位置しており、フワフワと漂っているような状態でもなかったので、物質として捉えることができないだけで実際は存在する、すなわち仏教における『空(くう)』に近い概念というか……、状態だったのかもしれんですね。
とはいっても『空』という概念自体が、幽霊のようにフワフワとして、捉えどころが無いっていうか、ストンと腑に落ちる説明ってのを今まで聞いたことが無いっていうか、私自身が『空』についての概念ってモンを全く分かっていないのでなんとも言えんですけどね。
ちなみに、その時の曾祖母の服装はというと……、昔のシルバー世代がよく着ていた地味な柄のスモックというか割烹着みたいな感じの上っ張りがあるじゃないですか?
そういった普段よく着用していた服装で、私が一番見慣れた曾祖母の服装でした。
しかし本来は着色されている筈の服にもかかわらず、色がついていないっていうのか全般的に真っ白い感じだったんですよね。
昔の白黒写真が限界ギリギリまで色褪せたって感じの色っていうのか、服の模様部分にはちょっとした影のような感じでかろうじて色の濃淡はついているって感じなので完全に真っ白ってわけじゃないんですけどね。
生前の曾祖母は前述のように非常に行動的で明るい性格の笑顔が絶えない人だったわけですが、幽霊となった曾祖母の表情は完全に無表情でした。というか無表情にならざるを得ない状況だったんです。
普通、感情って目元とか口元なんかに現れるじゃないですか?
しかし曾祖母の顔は目と口の部分が、ポッカリとまるで穴が空いたかのように黒っぽかったんです。黒って言っても色あせた黒、グレーに近かったですがね。
服装を始めとして全体的に白っぽい印象にも関わらず、目と口の部分だけ影に覆われたかのように黒っぽいので、全体的には見慣れた曾祖母だったのにもかかわらず、かなりの違和感がありました。
お互いに1分ほどはジィーっと向かい合って居たので、100%曾祖母の幽霊が実際に目の前に存在して居たのだと断言できます。
私としては体が固まってしまった感じで曾祖母が何らかのアクションを起こすまで、ジィーっと待っているしかなかったわけです。
しかし曾祖母は今や黒っぽい穴みたいな状態となってしまった目で私のことを見ているのか見ていないのか、私の方を向いたままの状態で、ホントただそこにボーっと存在しているだけで微動だにしないんですよ。
まるで時間が止まったかのように曾祖母と向かい合っていたわけなんですが、そういった最後の対面にも終わりの時間ってのは訪れたわけです。
曾祖母が可愛がっていた猫が現れ曾祖母にむかってまっしぐらに走って来たんです。
私が猫に視線を移し猫の動きと共に曾祖母が立って居た場所に視線をやると既に曾祖母の姿は消えていました。
曾祖母にむかってまっしぐらに走って来た猫はっていうと、曾祖母が立っていた場所を通り過ぎると、そのまま走り抜けてどっかへいってしまいました。
私が目を逸らさなかったので曾祖母が消える瞬間に困ってしまい、あの世へと旅立つに旅立てなかった、そういったピンチを可愛がっていた猫が察して助けに来たんかな?ってな風にも思いましたね。
私が思うに……
幽霊ってのは故人が大切に思っていた肉親であったり、仲の良かった友人・知人、あるいは愛していた恋人だったりって感じの、故人と縁の深い関係性にあった人に限って見ることが出来るんじゃないかって感じるわけです。
つまり!!
『縁のある人の幽霊なら見える……可能性がある』
ってことが言えるんじゃないでしょうか?
逆にいえば『縁の無い人の幽霊は見えない』ってことなんで、心霊スポットなんかに行った所で幽霊なんか見えるわけが無いって思うんですよね。
そもそも人ってのは、そこいら中の屋内や屋外問わず、あらゆる場所で色んな理由で亡くなっているわけです。もし『縁の無い人の幽霊でも見える』なんてことになれば、わざわざ心霊スポットなんかに行くまでもなく、そこいらの住宅街を歩いているだけでも、あるいは道路を車で走っているだけでも、幽霊を見ることが可能な筈なんです。
被災地で幽霊の目撃情報が多発するって聞いたことがありますが、『縁のある人の幽霊なら見える……可能性がある』わけなので、肉親とか知人の幽霊を見るってのは普通に有り得ることだと思います。
つまり!!
被災地でタクシー運転手が「幽霊を乗せた」なんて言っても「ホンマかいな?」ってな風に疑問に感じたりはするってことです。
『人が亡くなると49日目に極楽浄土へと旅立つ』
ってな風に言われているわけです。
ってことは……、、、
故人が幽霊の形でこの世に出現することのできる限界ってのが49日なんじゃないかと思えるわけです。
というか曾祖母の霊体が49日目に現れたという実体験から、ほぼ間違いないと確信しています。
そういう風に考えれば、曾祖母が亡くなって49日目に いよいよ極楽浄土へと旅立たなければならないってなった瞬間に、最後のお別れをしたくて私の目の前に現れたってことに合点がいくし、納得できるってことなんですよね。
例えばお盆ってのは、ご先祖様を自宅に迎えて供養するって風習なわけです。
しかしながら……
『故人が幽霊の形でこの世に出現できる限界は49日』
ですので、たとえお盆の時期だったとしても、昔に亡くなった家族やご先祖様が幽霊となって目の前に現れるなんてことは、まず有り得ないことだと思いますね。
もしも……
49日目以降、例えば命日やお盆なんかにも幽霊として現世に現れることが可能だとするならば、そういう日に合わせて私の前に曾祖母の幽霊が絶対に現れると思うんですよね。
しかし曾祖母が亡くなって49日目に幽霊となって現れたあの日以降、数十年間ものあいだ、お盆にも命日にも一度たりとも幽霊となって現れてこない……。そうした現実から導き出される答えとしては『幽霊の形でこの世に現れることが出来るのは、亡くなってから49日間が限界』ってことで間違いないかと思います。
私のこうした推論および実体験からすれば、肉親や親しい友人なんかが亡くなって49日間は、いつでも幽霊となって現れる可能性があるってことが言えるわけです。
肉親なんかが亡くなると『喪に服する』ってことで一定期間は派手な行動なんかを自重したりするわけですが、「49日間は亡くなった肉親が霊体の状態となって自分のことを見ているかも?すぐ傍に居るかも?」ってな風に考えれば、最低でも49日間は『喪に服する』ってのは非常に重要なことだと思いますね。
とにかく……、49日間は幽霊みたいに目に見える形で現れなかったとしても、実体化未満みたいな存在となって故人が傍に居て、遺族や縁の深かった人のことを見ている可能性が高いと思うんで、故人を悲しませたり落胆させたりする言動は絶対に控えた方が良いと思います。
もっとも幽霊となって実体化できる本当に限られた49日という特別な期間内であっても、実際に幽霊として出て来るってことは、ほぼ無いと思いますが……。
なぜかっていうと……、、、
幽霊として出現できる確率ってのは、数百万に一つくらい成功するかどうかってな感じの奇跡的な確率なんじゃないかってことなんですよね。幽霊として現れることはシステム的にかなり困難なために、成功の可能性が非常に低いんじゃないかと想像できるってことなのです。
実際の話、例えば丹波哲郎さんなんかは
「自分が死んだら霊体となって現れて、幽霊の存在を証明する!!」
みたいなことを生前に豪語していたわけですが、丹波哲郎さんの霊体によって幽霊の存在が証明されたってな話は聞いたことがないじゃないですか?
あれだけ霊界だとか幽霊に強い興味があり、並外れた強靭な精神力を持っていたと思われる人ですら、幽霊となって現れることが無理だったのですから、霊体となって現世に現れるってことは本当に困難を極めることなんだと想像できるわけです。
そうした理由から「幽霊でもいいから会いたい……」みたいな故人に対する想いってのは、故人からすれば「おいおい、ムチャ振りするなよ……」みたいなことなのかもしれませんが、49日以内であれば幽霊となった故人に会える可能性もあるってことが言えます。逆に言えば49日以内に故人の幽霊に会えなければ、たとえ幽霊の姿であったとしても故人に会える機会は二度と巡って来ることは無いでしょう。
ところで……
ちょっと上のほうで、仏教における『空(くう)』についてちょこっとだけ触れました。
Wikipedia(ウィキペディア)で『空(くう)』を見てみると、以下のように書かれていました。
-----引用ここから-----
空 (仏教)
仏教における空(くう、梵: śūnyatā:シューニャター、巴: suññatā:スンニャター)とは、固定的実体、もしくはアートマン(我)のないことや、実体性を欠いていることを意味する。
空は時代や学派によっていくつかの概念にまとめられるが、その根本的な部分ではほぼ変わらず、いずれも「縁起を成立せしめるための基礎状態」を指している。
-----引用ここまで-----
Wikipediaによると『空(くう)』ってのは
『固定的実体、もしくはアートマン(我)のないことや、実体性を欠いていることを意味する』
ってことらしいんです。
『固体的実体がない』
『アートマン(我)がない』
『実体性を欠いている』
そういった状態ってのは、まさに幽霊そのものじゃないですか?
あと概念としては
『「縁起を成立せしめるための基礎状態」を指している』
ってことらしいです。
まぁ意味は良く分かりませんが……
概念なんてモンは
「理解しようとするな!!感じろ!!」
ってなモンなんで意味が分からなくても問題は無いんです。
というか仏教の概念って、それなりに仏教というものについて勉強している人ですら、というかむしろ勉強しているからこそ疑問に感じたりすることってのが多く出て来るんじゃないでしょうかね?
『縁起を成立せしめるための基礎状態』
ってのも、
『縁があれば見える』
『縁が無ければ見えない』
って私の推論する幽霊が見える条件に
合致するように思えます。
つまり!!
仏教における『空(くう)』の概念ってのは、非常に幽霊という事象に対する概念との相似点が多いってことなんですよ。
もっとも『空(くう)』もそうなんですが、仏教って概念みたいなんが多く出て来るので、哲学的っていうかイマイチ分かりづらいっていうか、ストンと腑に落ちない、考えるとモヤモヤする、そんな風に思っている方は私も含めて非常に多いと思いますけどね。
ところで……
そもそも何故49日なのか?
当然のこととして、そういった疑問が生じて来るわけです。
そういった疑問に関しては、私が考えた推論があるので、それをお話ししたいと思います。
ちなみにこの推論、この考え方で
「ほぼ間違いないんじゃないのか?」
ってな風にけっこう自信があったりします。
私の考えとして、その理由は原子にあると思います。
どういうことかっていうと……
人体1kgあたりを構成する平均的な細胞数は約1兆個だと言われています。
ということは体重が60kgの人間の場合、約60兆個の細胞があるということになります。
ひとつの細胞は約1000兆個の原子で構成されていると言われます。
つまり体重が60kgの人間を構成する原子の数は約60000000000000×約1000000000000000ということで約60000000000000000000000000000個ってことになります。
まぁ桁数が多すぎるんで、掛け算の九九を9の段まで暗記しているほど計算に関しては絶対的自信を誇る私の能力をもってしても、こういった計算とか答えが合っているかどうかってのは、自分でもかなり疑問に思う所なんですが、ここまでケタ数が多くなってくると数ケタ程度の間違いなんて誤差みたいなもんなんで気にしても意味がないってことです。
ちなみに原子ってのは、更に小さい素粒子が集まって出来ているわけです。
とにかく人間の体ってのは『いっぱいの原子』で構成されているってことは間違いないってことが言いたいわけなんです。
人間ってのは呼吸だとか新陳代謝なんかで常に原子を取り入れては放出しているってことが言えるわけです。
つまり!!
人間の体を構成する原子および人間一生分の新陳代謝による原子ってな風に考えると『想像すらできない程いっぱいの原子』によって人間ってのはそこに存在しうるワケです。
人間の体を構成していた原子ってのは、死亡したり、その後に火葬したからといって無くなるわけじゃありません。
まぁ当たり前の話です。
もし生命が活動停止したり、物質を燃やすことにより原子が消滅するとしたならば、地球上からは資源がドンドンと消失してしまい、最終的には原子によって構成される万物、つまり動物、植物、鉱物、固体、液体、気体……、ありとあらゆる物質が消失した状態、つまり『完全な無』になってしまうわけです。
ちなみに『完全な無』なんて状態は有り得ないってな風に言われます。
例えば……
火葬されれば、人間の体を構成していた原子ってのは気体の原子となって空気中へと拡散し、骨壺に入れられた骨といった固体も生前の原子とは性質が変わった物質の原子となっており、さらに長い年月を経れば固体すら原型を留めることなく消滅し、また別の物質を構成する原子へと変化したりもするわけです。
つまり!!
何百年も前に亡くなった有名な戦国武将だとか、千年以上前に亡くなった有名人、例えば聖徳太子といった偉人の体を構成していた原子、あるいは日本から見て地球の裏側に位置する国で大昔に生きていた人々の原子ですら、今まさに自分が呼吸している、今この瞬間の大気中にもそれなりの数が存在しているってことがいえます。
前述のように『想像すらできない程いっぱいの原子』によって人間ってのは成り立っており、死亡すれば大気中に含まれる原子となって地球全体へと広がっていくこともあり、古今東西、つまり昔から今まで様々な場所で暮らしていた人々の人体を構成していた原子が、今を生きる自分自身の回りにある大気中に存在していたとしても不思議でも何でもないってことです。
もちろん今生きている人々の呼吸や新陳代謝で発生した原子ってのも地球全体の大気中へと広がって行きますので、あなたが排出した原子が今まさに私の傍に存在し、私の排出した原子も今まさにあなたの傍に存在しているってことなので、今この瞬間呼吸する大気中にも、お互いの体内にあった原子が混じっていることは間違いありません。
つまり!!
あなたが今呼吸している大気中には、あなたが推している大好きなアイドルや芸能人なんかの原子も混じっているってことが言えるわけなのです!!!
ってな風に聞くと深呼吸なんかしがちですが……
それと同時に『不俱戴天の仇』ってほど大嫌いって人の原子も混じっているってことが言えるわけなんですがね……。
おっと、思いっきり深呼吸していたのが途中で止まっちゃいました?
この人体を構成していた原子というものが年月を経るほど地球全体へと満遍なく広がっていってしまうってことが幽霊として現世に現れることが出来るタイムリミット『49日間』に大きく関わっているんじゃないかと推測するわけです。
つまり!!
人が死亡した直後ってのは、その人が暮らしていたテリトリーにおいては、その人を構成していた原子だとか、呼吸や新陳代謝によって排出された原子なんかが『濃い密度』で存在しているってことが言えるわけです。
そういった『濃い密度』の原子は亡くなった人の『意思の残滓』みないなものを帯びており、そういった故人の原子が何らかの偶然や、この世への未練や強い意志といった残留思念なんかが作用し、『生前において縁があった人』からの新陳代謝なんかによって放出された原子と融合し、物質化したものが幽霊だと思われます。
そういう風に『故人の原子と故人と縁のあった人の原子が融合する』ってことも幽霊発生の必須条件の一つと考えれば、『なぜ幽霊は縁のある人にしか見えないのか?』ってことの説明も出来るわけです。
『亡くなった方の意思の残滓を帯びた原子が一定以上の濃度で大気中に残っている』ということが幽霊発生条件としての必須事項の一つだと考えるならば、大気中に残っている故人を構成していた原子が日を追うごとに拡散し薄まっていくという状況において、『49日間』という期間内が『原子の濃度』という点において幽霊という存在を構成しうる日数の限界なのだ!って答えがおのずと導き出されるってことなんです。
そういったことからも、命日やお盆なんかに昔に亡くなった肉親やご先祖様が幽霊になって現れるってことは有り得ないってことがお分かりいただけることと思います。
あと『49日間』という期間にはもう一つの重要な役割があるのです。
それに関しては下にリンクしている記事に書いてありますので、興味があれば読んでみて下さい。
関連記事 ⇒ 【実体験から考察】あの世とか来世(生まれ変わり・輪廻転生)は存在するのか?
ここからちょっと蛇足ですが……
『幽霊に足が無い』
ってことの説明も
『意思の残滓を纏った原子は有限のため幽体の全身を構成することは不可能である』
って風に考えれば腑に落ちるわけです。
昔からの言い伝えや物語や著述や、それにまつわる台詞なんかにも幽霊に足が存在しないことに関するものはたくさんあります。
〇〇〇「足はついて無い?」
●●●「あんなのは飾りです。偉い人にはそれが分からんのですよ」
つまり!!
幽体が頭部から順番に構成される過程において、最後のほうは意思の残滓を纏った原子が不足することから、膝から下くらいを構成することが出来なくなったために『幽霊には足が無い』ってことなのです。
もっとも幽霊としては『顔さえ認識されれば良い』ってことなんで、幽霊にとってはまさに『足は飾り』でしか無いわけです。
あとたまに『首無し幽霊』ってのも聞くんですが、もっとも首無しって言っても『首だけ無いって不自然だろ!!』ってな頓珍漢なツッコミを入れられても本人は面白いと思って言っているんかも知れんですが、傍からすると全く面白くなく、イラってするだけなんで一応言っておきますが、
『首無し幽霊=頭部が無い幽霊』
って意味なのは言うまでもありませんが、、、
実際の話、首無し幽霊ってのは足は存在しているってイメージが強いじゃないですか?
「頭部も足も無い、胴体だけの幽霊なんてモンがいたら、別の意味で怖い……」
つまり!!
首無し幽霊は生前ウッカリした性格の人が、頭頂部からじゃなく足先から幽体を構成してしまったがゆえに、頭部を構成する原子が足りなくなった……、、、
ってな原子不足が招いた結果が、首無し幽霊だと思われるわけです。
【関連記事】
⇒ 【土佐弁】高知では人が死ぬ・亡くなることを『満てる(みてる)』と言う……、といった話
⇒ 【2025年5月27日|命日】付き合っていた彼女の三回忌。
⇒ 【2024年5月27日|命日】付き合っていた彼女の一周忌。~あんなに一緒だったのに
⇒ 戒名・法名・法号
⇒ 【実体験から考察】あの世とか来世(生まれ変わり・輪廻転生)は存在するのか?
⇒ 【2024年10月19日|命日】BUCK-TICKボーカル櫻井敦司……、あっちゃんの一周忌。
また来てね。
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