令和の子どもたちは、外という選択肢がない
1年ぶりにお店にメガネを作り直しにきたお子さんの度数が進んでて、お母さんは「家でスマホばかりしてるから」と言葉を漏らした。
「もっと外で遊んだ方がいいですよ」と言いかけて、僕はハッとした。
「最近の子どもは外で遊ばない」
という話を時折り聞く。
「昔はもっと外に出て遊んでいた」
「でも今は家でゲームやスマホばかり」
僕はこの話、なんだか違和感がある。
まるで今の子どもたちが悪いかのように聞こえるから。
僕が子どものころはまだ平成の前半。当時だとスーファミもしていたけれど、同じくらいは外でも遊んでいた。
空き地に行って友達とその場でできる遊びを考えたり、思いつかなくても“鬼ごっこ”や“かくれんぼ”なら何とかできた。
こうやって自分たちで考えて遊ぶことは“能動的”で、良いことらしい。
それに比べて今の子どもたちはSwitch2やスマホで家にいながら友達と遊べるし、わざわざ外に出なくてもいい。
これは“受動的”で、自分たちで遊びを考えることをしていないと悲観されている。
ただその矛先、勝手に子どもたちの方に向けられている。そういう世の中を作り上げたのは大人たちなのに。
子どもたちが勝手にそれを選んだと、まるで責任逃れ。自分たちは外で遊ぶことも“選択”として取り入れていたかのように。
確かに昭和の時代の子どもたちは、もっと外で遊んでいたかもしれない。
平成の時代の僕はスーファミもやっていたけれど、半分は外で遊んでいた。
これって外を選んだんじゃない。外しか選択肢がなかった。
スーファミがあってもカセットは限られたほどしか持ってない。飽きる。だから外でも遊ぶ。
さらには遊べる場所もたくさんあった。
空き地に勝手に入れたし、隣の家の裏庭にさえも勝手に出入りしていた。まぁこれは当時でも良いとは言えないけれど。
でも令和の子どもたちは、そうやって自由に遊べる場所が減っている。
公園に行っても禁止事項が並べられてボールさえも使えない公園もある。
さらには「うるさい」と怒ってくる人もいる。
がんじがらめで、そこに家の中での楽しみも増えて、外という選択肢がなくなったのも当然のような気がしてくる。
もしも昭和の時代にすでにSwitch2やスマホがあったらどうだろう。家でやり込んでたんじゃないだろうか。
だから僕は言いかけた言葉を抑え込んだ。
その子が全て悪いと言ってしまうような気がしたから。そういう世の中を作ったのは大人なのに、何もしてない子どもに責任を押し付けるような気がしたから。
ある日の夕方、外から子どもたちが遊んでいる声が聞こえてきた。
住宅分譲地の中の共用道路、そこで近所の子どもたちが遊んでいた。
場所さえあれば、今の子どもたちも外で遊ぶ選択肢はあるのかもしれない。
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路上にチップもらう用のシルクハットを置いてパントマイムするの、実はやってみたかったんです