人はなぜ、何者かになりたがるのか
人はなぜ何者かになろうとするのだろう。
特に30代後半あたりから。焦ったかのように特別な存在であろうとする人がいる。
なんだか無理して空回りしているようなその姿は、ときどき滑稽で、何者にもなりきれていない残念な姿にも見えてくる。
20代前半のころ、僕はダーツにハマったことがある。
プラスチックの針が付いた矢を投げる、いわゆるソフトダーツというやつで、それが楽しくて休日になるとダーツバーに通っていた。
投げたダーツが狙った的に当たったときに機械から流れる爽快な音と、全国の人と試合できるオンライン対戦と、そして何より同じお店に通う人たちと仲良くなって一緒にお酒を飲みながら試合をするのが楽しかった。
そしてたまには大会にも出て、トロフィーを目指して努力していた時期もある。まぁトロフィーをもらうことはなかったのだけれど。
そんなダーツバーに、たまにやってくるおじさんがいた。当時でも年齢は40代くらいだろうか。誰とも話さず隅っこで1人でお酒を飲んで、僕がダーツを始めるとじーーーーーっとこちらを見てくる。
まるで獲物を狙う虎のようだ。そんな虎おじは、僕がダーツを終えたと同時におもむろに席を立ち、僕の方にやってきては色々と指導を始める。
これがまた正直鬱陶しい。
僕はたまたま博多に旅行に行った際に偶然立ち寄ったお店の人がダーツのプロプレイヤーの人で、その人からダーツを教わったことがあり、その通りに練習を重ねていた。
つまりは僕のやり方はプロから指導されたもので、虎おじの指導は虎おじ自己流のアマチュアおじさんレベル。
どちらに従うかなんて考えるまでもない。だからこそ余計に鬱陶しい。
僕はダーツをそれから数年した後に辞めてしまい、虎おじはもしかするとそろそろ還暦間近なのかもしれない。
でも今になって思う。あのときの虎おじは、きっと誰かのダーツの師匠という立場になりたかったのだと。
ダーツの実力も今以上に伸びず、一緒にダーツをする友達もできず、ただ隅っこで1人で寂しくお酒を飲んでるおじさんで終わりたくなかった。何者かになりたかった。
だから僕という絡みやすい獲物を見つけて狙いを定めたのだ。知らんけど。
30代を越えたあたりから、世の中で活躍してる人と自分との間に差を感じることがある。
自分と同じ年齢の人がスポーツで億を稼いでいたり、映画祭でレッドカーペットの上を歩いていたり、そうでなくてもSNSを開けば自分とはまったく違う人生を歩んでいる同級生の姿が映し出されることもある。
人と比べても仕方がないのはわかっているから気にするだけ無駄なのだけれど、何者にもなることができていない自分に焦りを感じてしまうのも、この年齢になると少なからずあるのかもしれない。
だから人はどこかで何者かになろうとするのだろうか。
綺麗にまとめて終わるのも面白くないので、「自分軸で〜」なんてどこかで聞いたことのある話で着地はしたくない。
その何者かになりたい欲求はそんな言葉で丸く収めようとしたって、きっと無理なのだ。
そう言われても何者かにはなりたいはずだ。誰しも。少なからず。
ただそれならそれで、虎おじのような鬱陶しい存在になってまで何者かを模索してたら人に迷惑がかかる。
だから自分だけで何者かになるしかないのだ。
誰かにとっての何者かになりたかったら、僕はXやnoteでの発信をオススメしたい。
あと最近ではsubstackがアツいらしい。
誰でも発信できる内容と届く人は見つかるから。
メガネ屋らしく締めて終わるとするならば、例えばクラシックなデザインのメガネをかけるとか、個性的なデザインのメガネをかけるとか、それだけでも何者かになった気分にはなれるはず。
誰かに虎おじのように絡むより、その方がずっと簡単で面白い。
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路上にチップもらう用のシルクハットを置いてパントマイムするの、実はやってみたかったんです