【109歩目】主体と客体の東洋思想
前回の続き。『老子』や『荘子』を「主体と客体」で読むという試みです。
1.十牛図を読む。

「十牛図」とは、北宋の廓庵(かくあん)というお坊さんが現在の形に整理した、禅仏教における修行者の心の在り方の推移を、十枚の絵によって説明したものです。
① 尋牛(じんぎゅう) 牛を探す旅を始める。
② 見跡(けんせき) 教えの中に牛の足跡を見つける。
③ 見牛(けんぎゅう) 微かな体験を通じて、牛を遠くに垣間見る。
④ 得牛(とくぎゅう) 牛を捕らえたものの牛の力に手こずる。
⑤ 牧牛(ぼくぎゅう) 牛を飼いならし、それを育むようになる。
⑥ 騎牛帰家(きぎゅうきか) 牛に乗って笛を吹きながら故郷へと帰る。
⑦ 忘牛存人(ぼうぎゅうそんじん) 乗ってきた牛の存在すら忘れる。
⑧ 人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう) 牛も自分も忘れ、すべてが空(無)となる。
⑨ 返本還源(へんぽんかんげん) 一切の執着がなくなり、ありのままの自然の姿が立ち現れる。
⑩ 入鄽垂手(にゅうてんすいしゅ) 街へ戻り、日常の中で人々に寄り添い手を差し伸べる。

このうち、牛を見つけて(③見牛)、その牛を捕らえ(④得牛)、その牛を飼いならし(⑤牧牛)、

その後に、牛を手なずけて牛の背に乗って共に故郷へ帰る(⑥騎牛帰家)という過程から、

ついには、故郷へ帰るときに乗ってきたはずの牛の存在を忘れ(⑦忘牛存人)、

さらに、自分自身の存在さえも忘れてしまい(⑧人牛倶忘)、主体と客体の境界がなくなったあとに、あるがままの自然が立ち現れる(⑨ 返本還源)。このプロセスは「主体と客体」に注目して読むと、荘子の「胡蝶の夢」の構造とも、とてもよく似ていることに気づかされます。
2.「十牛図」と老荘思想。
「十牛図」における 「⑦忘牛存人」や「⑧ 人牛倶忘」といった「忘れる境地」は『荘子』の中に多用される「忘」とほぼ同じ意味であると言っていいでしょう。老荘思想と禅仏教の近さは、この「十牛図」という禅仏教のビジュアル化されたテキストにおいてもはっきりと見て取れます。
この「十牛図」における「牛」は、「真我(本来の自分)」と読むことができます。道元禅師が言っている「本来の面目(本来面目)」ですね。

「須學囘光返照之退歩。身心自然脱落、本來面目現前。」
➙自らの光を内側へ向け、自己を振り返る「退歩(一歩退くこと)」を学びなさい。そうすれば、心身の執着は自然に脱落し、本来の自分(本来の面目)が目の前に現れるでしょう。)
これは老荘思想における「道と一つになる」境地と非常によく似ています。

❝「墮肢體,黜聰明,離形去知,同於大通,此謂坐忘。❞
➙「自分の身体の存在を忘れ、耳目の聡明さを退け、形体から離れ、知識を捨て去って、万物の根源たる大きな道(TAO)と一体になること。これを『坐忘』と呼びます。」
3.アートマンと道(TAO)。
❝स होवाचोषस्तश्चाक्रायणः यथा विब्रूयादसौ गौरसावश्व
इत्येवमेवैतद्व्यपदिष्टं भवति । यदेव साक्षादपरोक्षाद् ब्रह्म
य आत्मा सर्वान्तरः तं मे व्याचक्ष्वेति । एष त आत्मा सर्वान्तरः ।
कतमो याज्ञवल्क्य सर्वान्तरो । न दृष्टेर्द्रष्टारं पश्येर्न श्रुतेः
श्रोतारꣳ शृणुया न मतेर्मन्तारं मन्वीथा न विज्ञातेर्विज्ञातारं
विजानीया एष त आत्मा सर्वान्तरोऽतोऽन्यदार्तं ततो होषस्तस्चाक्रायण
उपरराम❞
➙ウシャスタ・チャークラーヤナは言った。
「あなたが説明されたのは、まるで『あそこに牛がいる、あそこに馬がいる』と目に見える外部のものを指示するようなものです。そうではなく、直観的であり、隠されることがなく、すべてものの内側にある「真我(アートマン)」である『ブラフマン』とは何であるかを、私に解き明かしてください。」
(ヤージュニャヴァルキヤは言った。) 「これこそが、すべての内側にあるあなたの真我(アートマン)なのだ。」
「ヤージュニャヴァルキヤよ、すべての内側にあるものとは一体何なのですか?」
「見るという行為(見られる対象)を通して、見る者(見ている主体)を見ることはできない。 聴くという行為を通して、聴く者(聴いている主体)を聴くことはできない。 考えるという行為を通して、考える者(思考している主体)を考えることはできない。 認識するという行為を通して、認識するもの(認識している主体)を知ることはできない。
これこそが、すべての内側にあるあなたの真我(アートマン)である。これ以外のものはすべて滅びゆくもの(不完全なもの)である。」
こうして、ウシャスタ・チャークラーヤナは黙した(質問をやめた)。
上記の文章はインド哲学の初期の「ウパニシャッド(奥義書)」、『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』の一節です。『 認識するという行為を通して、認識するもの(認識している主体)を知ることはできない。』と言っているように、これも「主体と客体」をとても重要な論点として語っています。

❝無始曰「道不可聞,聞而非也。道不可見,見而非也。道不可言,言而非也。知形形之不形乎。道不當名。」
無始曰「有問道而應之者,不知道也。雖問道者,亦未聞道。道無問,問無應。無問問之,是問窮也;無應應之,是無內也。以無內待問窮,若是者,外不觀乎宇宙,內不知乎太初,是以不過乎崑崙,不遊乎太虛。」❞
➙無始は言った。
「『道』は耳で聞くことはできない。聞こえるものは『道』ではない。 『道』は目で見ることはできない。見えるものは『道』ではない。 『道』は言葉で言い表すことはできない。言えるものは『道』ではない。 形あるものを形づくっている「根本」が、形のないものであることを知っているか? 『道』とは本来、名前をつけられるようなものではないのだ。」
さらに続けてこう言った。 「もし『道』について問われ、それに答える者がいたとしたら、その者は『道』を知らない者だ。たとえ『道』について問う者がいたとしても、その者もまだ『道』を聞いてはいない。『道』とは問うことができぬものであり、問いに対して答えることもできぬものだ。 問うことのできないものを無理に問えば、その問いは行き詰まる(空虚である)。 答えることのできないものに無理に答えれば、その答えは中身がない。
中身のない答えをもって、行き詰まった問いを待つ。そのような者は、外には宇宙の広大さを観ることもできず、内には万物の根源(太初)を知ることもできない。だから、崑崙(こんろん)山を越えることもできず、何もない自由な境地(太虚)に遊ぶこともかなわないのだ。」
そして、ウパニシャッドの説く「アートマン」が、老子や荘子の説く「道(TAO)」と驚くほど似ていることに気づきます。
4.梵我一如と老荘思想。

ウパニシャッド哲学において、外的な宇宙の根本原理のことを「梵(ブラフマン)」といい、個人の内的な宇宙、真我のことを「我(アートマン)」といいます。このブラフマンとアートマン、「外的な宇宙」と「内的な宇宙」の根本を感得し、両者が同じものであると覚知することを「梵我一如(ぼんがいちにょ)」といい、インド哲学の一つの到達点であると言えます。
この梵我一如の構図は、実は老荘思想をしっかり読んでいくとほぼそのまま書いてあると言えます。「道(TAO)」もそうですが、分かりやすいのは「氣」ですね。
我々は内心で気にかけたり、気づいたり、気が合ったりと内的な宇宙について「気」という漢字を使いますが、「天気」「気候」「二十四節気」などの外的な宇宙の表現にも、「気」という漢字を使います。また、「元気」などは、宇宙生成論における根源的な存在でありながら、日常会話における身心の健康のバロメーターとしても使われています。ドラゴンボールでいうところの、「元気玉(外気功)」と「かめはめ波(内気功)」の関係ですね。ブラフマンとアートマンが同一であると気づく以前に、我々はそもそも内的宇宙と外的宇宙の両方に「気」を使っているわけです。

つまり、インド哲学では「外的宇宙の原理であるブラフマン(梵)」と「内的宇宙の原理であるアートマン(我)」が同一であると知ることが「梵我一如」なわけですが、老荘思想の場合には、最初から内と外に同じ文字をあてているわけです。

❝有物混成、先天地生。寂兮寞兮、獨立不改、周行而不殆。可以爲天下母。吾不知其名、字之曰道。強爲之名曰大。大曰逝、逝曰遠、遠曰反。故道大、天大、地大、王亦大。域中有四大、而王居其一。人法地、地法天、天法道、道法自然。 ❞
→ 混沌とした何かが、天地の誕生する前から存在していた。 音もなく、形もなく、何ものにも依存することなく独立していて、しかも変わることがない。 あらゆるところに行きわたり、循環してとどまることがない。 それは、天下の母だと言うことができよう。私はその本当の名前を知らないが、ここでは「道(TAO)」と呼ぶことにする。道はあえて形容するならば「大」とも言うことができる。
それはとどまることなく流れ去り、 遠くへどこまでも広がり、 極限まで遠ざかると、また手近な元へと戻ってくる。ゆえに、道は大いなるものである。 天も大であり、地も大であり、王(人間界の主)もまた大である。 この宇宙には四つの大きなものがあり、王はそのうちの一つに数えられる。
人は地のありようを手本とし、 地は天のありようを手本とし、 天は道のありようを手本とする。 そして、道は自然のありようを手本とするのである。
『老子道徳経』の第二十五章で、天も地も人も「道」に法っているとしているのも、梵我一如と同じ方向性であると言えます。

このような「主体と客体」「内的宇宙と外的宇宙」の関係について、最も端的に語っているのは、『荘子』の斉物論篇のにあるこれでしょう。

❝天地與我並生,而萬物與我為一。❞
➙ 天地自然は私と共に生まれ存在しており、世界のあらゆるもの(万物)は私と共に一つである。

この斉物論篇の荘子の言葉は、ウパニシャッド哲学における梵我一如と非常によく似た世界理解であると言えるでしょう。こう読むと、少なくともインド哲学やその影響の強いヒンドゥー教、仏教と老荘思想には、根源的な部分において一致が見えることがわかります。
5.観客でもあり演技者でもある私たち。
量子論の育ての親、現代物理学の父とも呼ばれるデンマークの理論物理学者、ニールス・ボーアが、1937年の講演の中で以下のような発言をしたそうです。

❝For a parallel to the lesson of atomic theory regarding the limited applicability of such customary idealizations, we must in fact turn to quite other branches of science, such as psychology, or even to that kind of epistemological problems with which already thinkers like Buddha and Lao Tzu have been confronted, when trying to harmonize our position as spectators and actors in the great drama of existence.❞
➙ 「原子論が教えてくれる『従来の理想化には適用範囲の限界がある』という教訓に対応するもの(類似点)を求めようとするなら、私たちはむしろ心理学のようなまったく別の科学分野や、さらには、存在という壮大なドラマにおいて『観客』であり『演技者』でもある私たちの立場を調和させようと試みたブッダや老子といった思想家たちがすでに向き合っていたような、認識論的な問題に目を向けなければならない。」
ニールス・ボーアがこのような発言をするのは、まさにこの「主体と客体」の文脈においてそのように語っているのですが、だれも説明しないので自分でやっています。量子論と東洋思想についてはいずれ。
はいもう限界、今日はここまで。続きはまた次回お会いしましょう。それでは、फिर मिलेंगे(フィル・ミレンゲー!)。
