【108歩目】『老子』第一章を読む - 分かれる世界 -
煩悩の数だよ!全員集合!ということで、前回までの続き。
前回は胡蝶の夢を「主体と客体」の観点から読み解いてみました。今回は久々に『老子』について。
1.老荘思想における主体と客体。
前回お話した「胡蝶の夢」を「主体と客体」の観点で読むという読み方は、特殊なように見えるかもしれませんが、これは老荘思想を読むうえで重要な観点だと思います。たとえば、日本の歴史上の人物の中でとびぬけて荘子愛の強い松尾芭蕉はこんな句を詠んでいます。

君や蝶 我や荘子が 夢ごころ 芭蕉

芭蕉がわざわざ「胡蝶の夢」の句を詠むときに、「君(客体)」と「蝶」、「我(主体)」と「荘子」の対比をしているのは、まさに「胡蝶の夢」のお話が「主体と客体」という大きなテーマを内包していると認識しているからに他なりません。
これは、「胡蝶の夢」が収録されている「斉物論篇」を読んでも、『荘子』という書物を読んでもその論点があるからなんですが、「老荘思想」という枠組みにおいても重要な論点となっています。つまり『老子』にも当然、「主体と客体」の論点から読める、というよりも『老子道徳経』の第一章がすでにそのテーマを扱っていると読むことができるのです。
2.『老子』の第一章を読む。
というわけで、『老子道徳経』の第一章を。

❝道可道,非常道。名可名,非常名。無名天地之始;有名萬物之母。故常無欲,以觀其妙;常有欲,以觀其徼。此兩者,同出而異名,同謂之玄。玄之又玄,衆妙之門。❞
➙ 言葉で説明できるような「道」は、永遠不変の(真実の)道ではない。文字や言葉で名付けられるような「名」は、永遠不変の(真実の)名ではない。
「無名(名もなき状態)」とは、天地が始まる前の根源の姿であり、「有名(名がある状態)」とは、万物を生み出す母親のようなものである。
したがって、常に「無欲(欲望や先入観のない状態)」でいれば、その(道の)奥深い本質を見ることができ、常に「有欲(意図や関心がある状態)」でいれば、その(道が万物として現れる)現れや境界を見ることになる。
これら二つ(無と有、本質と現象)は、同じ根源から出ていながら、異なる名前で呼ばれている。どちらも等しく「玄(奥深く計り知れないこと)」と呼ばれる。この「玄」のさらに奥にある「玄」こそが、あらゆる神秘的な真理へと通じる門なのである。

「道(TAO)」について書かれた『老子』の第一章。道から名の話になり、そこから「無名/有名」、「無欲/有欲」へと展開されています。
簡単に言うと、
道(TAO)
↓
無名(天地が始まる前の根源の姿)
↓
名(名づけるという行為)
↓
有名(万物を生み出す母親)
↓
無欲(奥深い本質である「妙(みょう)」を見る)
↓
有欲(物の現れや境界である「徼(きょう)」を見る)
こういう流れがあると読むことはできます。ただし、これでも十分わかりにくいので、今回はりんごを使って説明しようと思います。
3.名づけることから始まる知。
老子の第一章で、老子は事物を「名」という観点から、「無名」というものは「天地が始まる前の根源の姿」であり、「有名」とは「万物を生み出す母親」であるとしています。では、この「名(名づける)」とはどういうことでしょうか?
たとえば、「これはりんごです。」こういうのは、「名(名づける)」ですね。

ではりんごが名づけられる前のりんごは何と呼ばれるか、というと「これ」「あれ」「それ」ですよね。

何かが名づけられる前というのは、どういった物なのかは分からないけども、とりあえず「これ」とか「あれ」と呼ばれます。おおよそ物であればほとんどの存在が「あれ」であり「これ」と呼ばれる可能性があります。
しかし「これはりんごです」と言うことによって「これ」がどんなものであるか特定されます。言い換えると「これはりんごです」と「名付ける」ことによって「この世界のあらゆるもの」から「りんご」が選り分けられたわけです。
そして、「これはりんごです」という名づける行為から始まって、「これは犬」「これは木」「これは川」「これは空」と名前をつけることで、人はあらゆるものを特定できるようになります。つまり、名づけられることによって、世界は無数の「もの」として立ち現れてくるのです。これが老子の言う「有名は萬物の母」ではないでしょうか?
4.有欲によって現れる境界。

では、もういちど「これはりんごです」に戻ります。この「これはりんごです」をさらに進めるとどうなるでしょう?老子はそれを「欲があるかどうか(無欲/有欲)」で見ます。そしてその欲があると「徼(きょう)」という境界線ができると。ということは、

「これは私のりんごです」と言っているようなものではないでしょうか?「おいしそうだから」だとか「きれいだから」だとか「高そうだから」とかいろいろな理由がありそうですが「これは私のりんごです」と言ってしまうとします。
すると、「他人に取られたらいやだ」と、りんごのことをより強く意識するようになります、それに、私と他人との間にも線が引かれますよね。「あいつは味方だ」「あいつは敵だ」「私は善だ」「あいつは悪だ」と言った線引きも始まります。
こうして読んでみると、紀元前に書かれていながら、『老子』という書物が、
「分節化(対象の切り分け)」➙
「概念化(りんごという共通点で物体をくくる)」➙
「価値づけ(私のもの、善と悪)」
といった現代用語でも使われる我々の認知の機能を丁寧にたどっていることに驚かされます。
5.主体と客体の分かれる前。
ではもう一度、「これはりんご」に戻って、老子のいう「無名」について考えてみましょう。

「りんご」と特定できるまえの状態、つまり「りんご」の前は「これ」であるとしました。いわば「りんご」となる前の仮の名前ですね。

しかし、「これ」はまだ仮とはいえ「これ」という名前です。老子が「無名」と言っているからには、名づけられる以前、言葉になる前の存在であるべきでしょう。

無名とは、「あれ」でも「これ」でも「それ」でもないもの。というよりも、「あれ」や「これ」や「それ」という概念が始まる前、もっと進めると、「主体」と「客体(りんご)」の境界すらない状態、すなわち、主体と客体が分かれる前の、混沌とした状態ともいえるのではないでしょうか?
東洋哲学では、このような状態を「主客未分」と表現することがありますが、『老子』のいう「天地が始まる前の根源の姿」としての「無名」は、この状態を指すと読むことができます。そしてその根源こそが「道(TAO)」であると。
6.何かを分けるということ。
老子はこの次に「この両者は同じきに出でて而も名を異にす」といいます。私には、これは本来一つであったものが、「名」によって区別されるようになったことを示しているようにも思えます。言い換えると言葉という道具には何かを「分ける」性質があるというわけです。たとえば、我々は何かを名づけることによって、対象物をおおもとの存在から「分けて」取り扱っているわけです。
そしてこれは「言葉のはたらき」というのと同時に「知のはたらき」と言っても差支えはないでしょう。まさに我々は何かを「分ける」ことで何かが「分かる」わけですから。
我々はさまざまな方法で効率的に自然からさまざまなものを切り分けて生活をしています。しかし、老子はこのはたらきに対して厳しい目を向けます。すなわち、分断される前の純然たる世界に帰れと。
ちなみに、『老子道徳経』における「無名」は、『古事記』の冒頭の上奏文、「天地開闢(てんちかいびゃく)」の神話にも出てきます。

❝臣安萬侶言。夫混元既凝。氣象未效。無名無爲。誰知其形。然乾坤初分。參神作造化之首。陰陽斯開。二靈爲群品之祖。❞
→臣、安万侶が申し上げます。混沌とした元素が固まり、氣のありさまが未だとらえられない頃、無名にして無為であり、誰もその形を知りませんでした。その後に乾坤(天地)が初めて分かたれ、三神が創造の魁となり、陰陽が開けて、イザナギ・イザナミの二霊が諸々の祖となりました。
この『古事記』の上奏文は、混沌とした何かから、無名無為、そして乾坤(天地)が分かたれる有様が書いてあり、これまで読んできた『老子』の第一章の影響が強いことが分かります。そして、古事記における「天地開闢」とは、外的な世界の事象を観察して世界の始まりを描いた、というよりは我々人間の意識や心の始まりとその変化の過程を言語化したものであると言えるでしょう。本来はぼんやりとした、単一の意識であったものが「言葉」や「知」によって次々に分断され、イザナギとイザナミという「陰と陽」に分かれたということですね。
7.りんごで読み解く老子の第一章。
ここまでのお話は、英語にしてしまうと分かりやすくなると思います。

道(TAO)(No border 何の区別もない状態)
↓
無名(This or That が成立していない状態)
↓
有名(This is an apple.)
↓
有欲(This is my apple.)
英語の教科書の一番最初には、よく
’This is an apple.(これはりんごです)’
という、現実にはほとんど使うことのない言葉が載っています。たしかに日常では使いませんが、これは言葉の構造を理解する点においては非常に重要なことでもあります。老子に言わせれば、「言葉」や「知」というものは、何らかの形で対象を「分けて」しまうはたらきがあります。「言葉」と「知」による最初の世界の分断を、もっとも端的に表す言葉が’This is an apple.(これはりんごです)’なのです。
8.知によって分かれるもの。

旧約聖書の『創世記』において、人類最初の人間アダムとイブは、神によってさまざまな食べ物を与えられますが、ただ「善悪を知る木の実」だけは食べるなと警告されていました。しかし、へびにそそのかれて、アダムとイブは禁じられた木の実を食べてしまいます。
すると二人はお互いが、「男と女」であることを自覚し、それまであたりまえだった裸の姿を恥ずかしいと感じ、イチジクの葉でお互いの身体を隠すようになりました。いわば「智慧の実」をかじることにより、お互いを意識することもなかったアダムとイブが、「自己」と「他者」、「男」と「女」に分かたれたのです。それにより二人は「あるがまま」でいられた楽園を追われるわけです。
もちろん『聖書』と『老子道徳経』の成立の背景は大きく異なりますが、『聖書』の創世記の有名な物語は、老子のいう知や言葉によってもたらされる分節の結果と、とてもよく似ています。
9.言葉の限界と、それを超えるもの。
今回は『老子』の第一章、特に中盤の部分に注目して読んだのですが、これにより、冒頭の「道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず。」という箇所が、「言葉の限界性」と指していることが理解しやすくなるのではないかと思います。すなわち、物事の根本的なものを説明するのに、延々と分けてばかりいる「言葉」やそれと同じような働きをする「知」では、本当の真実には到達しえないと。
そして、『老子道徳経』第一章のしめくくりに出てくるのが「玄」です。「玄」というのは「黒(くろ)」の意味です。「玄」は我々の意識の奥底の有様とも言えます。「玄のまた玄、衆妙の門」というのは心の奥の、さらにその奥の門を開けて、言葉では表せない不変の存在を知りなさいという意味に読めますね。
ちなみに、この『老子』の「玄」を語源として、禅仏教ではお寺や、お坊さんの住居、方丈などの入り口の事を「玄を探求する入り口」という意味で「玄関」と言っていました。我々が日常的に家の入口のことを「玄関」と呼ぶのはこの名残です。これは、禅仏教が、老荘思想の強い影響のもとに育まれ、老子や荘子の指摘した問題を超克する意思を受け継いでいるあらわれでもあるともいえますが、これまた長くなりそうなので、いずれ。
はい、今日はこれで限界。続きはまた次回、それでは「మళ్ళీ కలుద్దాము(マッリー カルンダーウム)」!!
