【107歩目】胡蝶の夢を読む⑥ -主体と客体-
今回も「胡蝶の夢」について。前回までは「夢と現実」「意識と無意識」という観点で読んでみましたが、今回は荘子の思想の核心とも言うべき部分について、もう少し掘り下げて読んでみたいと思います。
1.それでも、胡蝶の夢を読む。

❝ 昔者莊周夢為胡蝶,栩栩然胡蝶也,自喻適志與。不知周也。俄然覺,則蘧蘧然周也。不知周之夢為胡蝶與,胡蝶之夢為周與。周與胡蝶,則必有分矣。此之謂物化。❞
➙ その昔、私こと荘周は夢の中で蝶になった。 夢の中で蝶としてひらひらと心地よく空を舞っていた。自分が荘周であることなんてまったく意識になかった。
やがて、ふと目が覚めると、現実の荘周にもどっていた。
その時、自分が夢を見て蝶になっていたのか、それとも、蝶が荘周を夢見ていたのか分からなくなった。
荘周と蝶との間には、形の上では確かに区別があるはずである。 このような変化のことを「物化(ぶっか)」と呼ぶのである。
この「胡蝶の夢」のお話の初回で、「夢とうつつ(現実)」ということで、「胡蝶の夢」のお話を3ステップで説明しました。
すなわち、
① 現実の荘周
② 夢の中で蝶として空を舞う荘周
③ 現実にもどって②を振り返る荘周
という3ステップです。

「胡蝶の夢」の後継ともいうべき数々の夢にまつわるお話は、その多くが夢と現実という2つの世界を行き来する形式のものです。夢と現実が交差してその二つの境界のあいまいさ、現実や夢の儚さを知る、というようなお話ですね。
しかし、ちょっと待ってください。たしかに『荘子』という書物には、夢と現実のあいまいさ、夢の中では夢と気付かないという不思議さについて書いてあります。でも「胡蝶の夢」の本文の後半部分は「周與胡蝶,則必有分矣。此之謂物化。(荘周と蝶との間には、形の上では確かに区別があるはずである。)」としているだけで、夢の不思議さを語っているわけではありません。主眼は「荘周」と「胡蝶」の「分」についてのものなんです。「胡蝶の夢」における「夢」はあくまで「物化」を理解するための媒介に過ぎない、といえます。
2.「彼」と「是」。

❝物無非彼,物無非是。自彼則不見,自知則知之。故曰:彼出於是,是亦因彼。彼是,方生之說也。雖然,方生方死,方死方生;方可方不可,方不可方可;因是因非,因非因是。是以聖人不由,而照之于天,亦因是也。是亦彼也,彼亦是也。彼亦一是非,此亦一是非。果且有彼是乎哉?果且無彼是乎哉?彼是莫得其偶,謂之道樞。樞始得其環中,以應無窮。是亦一無窮,非亦一無窮也。故曰「莫若以明」。❞
➙ どんな物事も「彼(あちら)」でないものはなく、どんな物事も「是(こちら)」でないものはない。 (人間というものは、)相手の立場(あちら)に立ってみるのは難しいが、自己の立場(こちら)から見れば、物事を理解することができる。
だからこそ「『あちら』は『こちら』があるからこそ生まれ、『こちら』もまた『あちら』を原因として成り立つ」と言われるのだ。これこそが、「あちら」と「こちら」が互いに依存して同時に生まれるという「方生(ほうせい)の説」である。
しかしながら、(世の中の基準は常に変わり続けるものだ。)生命は生まれた直後から死に向かっており……、死ぬと思う先から(新たな命へと)生に向かっている。事物は『正しい』と認めた瞬間から「正しくない(不可)」へと変わり、「正しくない」とする先から「正しい」へと変わる。 「正しい」によるからこそ「間違っている」が生まれ、「間違っている」によるからこそ「正しい」が生まれる。
だからこそ、知恵のある人(聖人)は、このような(「あちら」と「こちら」、「正しい」と「間違い」という)泥沼の相対対立の道にはよらず、ただ「天の自然な照らし(大いなる自然の視点)」に身をゆだねる。これもまた、あるがまま(因是)に従うということなのだ。
「こちら」は同時に「あちら」でもあり、「あちら」は同時に「こちら」でもある。 「あちら」の立場にも独自の「正しい・間違い」があり、「こちら」の立場にも独自の「正しい・間違い」がある。
では、はたして本当に「あちら」と「こちら」という区別はあるのだろうか? それとも、本当はないのだろうか?
「あちら」と「こちら」という対立関係が消え去り、どちらも相手(対立するもの)を失って一つになった境地、これこそを「道の枢(どうのすう:万物の根本的な回転軸)」と呼ぶ。
この回転軸が、円環の中心(中空の穴)にあってこそ、外側で展開される無限の変化に(振り回されることなく)自在に応じることができるようになる。 「正しい」という主張も無限であり、「間違い」という主張もまた無限にある。
だからこそ、「(人間の浅知恵による区別をやめ、)あるがままを照らし出す、明らかな知恵(莫若以明:ばくじゃくいめい)を用いるにこしたことはない」と言われるのだ。
これが『荘子』の斉物論篇にある「方生の説」と呼ばれるものです。「物無非彼,物無非是。(事物に「彼(あれ)」でないものはなく、事物に「是(これ)」でないものはない。)」。
このうち、「彼(あれ)」と「是(これ)」について、誤解が生じやすいので説明します。日本語における「あれ」と「これ」という言葉は、対象との距離の差で使い分けられます。

遠ければ「あれ」であり、

近ければ「これ」ですね。この感覚で荘子の「彼」と「是」を読むと意味がしっくりこなくなります。『荘子』における「彼」というのは「あちら、客体」、「是」というのは「こちら、主体」と読むということです。仏教用語でいうところの「彼岸(ひがん)」と「此岸(しがん)」のような関係ですね。

たとえば「胡蝶の夢」における「荘周」と「胡蝶」の関係で言うと、「荘周」から「胡蝶」を見るとすれば、荘周が主体であり、胡蝶が客体です。

しかし、「胡蝶」もまた「荘周」を見ています。この場合には「胡蝶」が主体であり「荘周」が客体です。

そして、「荘周」が夢の中で「胡蝶」となったとき、主体としての「荘周」は「胡蝶」へと変化を遂げます。この夢の中で「主体」である存在は、かつて自分が「荘周」であったことを忘れ、自らを「胡蝶」と認識しています。

「主体」と「客体」を通すと「胡蝶の夢」はこのような構成として読めるということです。
3.物(もの)を分け隔てる封(ふう)。

❝古之人,其知有所至矣。惡乎至。有以為未始有物者,至矣盡矣,不可以加矣。其次以為有物矣,而未始有封也。其次以為有封焉,而未始有是非也。是非之彰也,道之所以虧也。道之所以虧,愛之所以成。果且有成與虧乎哉。果且無成與虧乎哉。❞
➙ 古の優れた人たちの知恵は、究極の境地にまで達していた。それはいったいどのようなものであろうか?
第一の、究極の境地は「初めから(主体から切り離された客体としての)事物というものは何一つ存在しない(未始有物)」としていた。これこそが最高・最上の知恵であり、これ以上に何かを付け加えることはできない(究極の境地である)。
それに次ぐ第二の境地は、「事物(客体)は存在するが、それらの間に(これとあれを断絶させるような)人為的な境界線(「封」)はまだない(未始有封)」としていた。
さらにそれに次ぐ第三の境地は、「(自然な)境界線はあるが、どちらが正しいか、間違っているかという(価値判断の)対立はまだない(未始有是非)」と考えていた。
しかし、その後に「これが正しい」「あれは間違い」という「是非」という評価がはっきりと世に現れた。これによって、「道(TAO)」が損なわれることになったのだ。そして、道が損なわれることによりそこに愛憎の感情が生まれた。果たしてこれ(万物のあり方)には「完成」や「欠損」があるのだろうか、それとも「完成」も「欠損」はないのだろうか……
ここも斉物論篇の重要な部分。これも3ステップで書かれています。すなわち、
(1)そもそも事物が存在しないという状態(未始有物)
(2)事物は存在するが境界線(「封」)はまだない(未始有封)
(3)事物の主体と客体の別はあるが是非の判断がない状態(未始有是非)
の3ステップです。我々の通常の社会は是非や大小や貴賤や美醜などのさまざまな価値基準や感情に振り回されている状況ですから、ステップ(4)以降というべきでしょうが、それを遡って、さらに突き詰めていくと、(1)の状態まで行ってしまう。これが仏教用語の「無」と何が違うのかというのも面白そうですが、今回は(2)の「封(ふう)」に注目したいと思います。
この「封(ふう)」というものは、「胡蝶の夢」における荘周と胡蝶を隔てる「分(ぶん)」にも近いものです。主体と客体を分ける壁、『新世紀エヴァンゲリオン』における「A.T.フィールド(Absolute Terror Field)」といってもいいかもしれません。
「A.T.フィールド」というのは作中では万能のバリアのような役割を果たしているわけですが、これは自分と他者とを分ける「心の壁」を拡張して実体化したものです。
一般に我々は、自己と他者を峻別しTPOに合わせて対応することで大人として認められ、社会に適応して生きています。大人になるということを「分別がつく」と言ったりしますし、子供が成長する過程を「物心がつく」とも言います。我々は成長する過程で、主体と客体、自己と他者を分けてそれを善しとしているわけです。いわば「封」や「分」を増やすことによって人間的であると考えてしまう。
しかし、荘子のいう「万物斉同」は、そのような「封」や「分」を取り払った状態こそが最上であるとしています。この詳しい内容に関しては長くなるのでいずれお話できればと思います。
4.シンクロ率で考える胡蝶の夢。
『新世紀エヴァンゲリオン』においては、主人公と他者との距離感も非常に大きなテーマです。それこそ心の壁の裏にすぐ逃げ込んでしまうような、現代的なナイーヴさをもった主人公・碇シンジが、さまざまな登場人物と交流することで成長を遂げます。兵器としての「A.T.フィールド」も重要ですが、パイロットの「心の壁」もこの作品の大きなテーマの一つです。
※ ちなみに、第九話、「瞬間、心、重ねて」の敵である第7使徒「イスラフェル」はコアが☯(太極図)になっていまして、作者にタオイズム的な観念を連想させる意図があったと思います。
この『新世紀エヴァンゲリオン』に出てくる概念のなかで、「A.T.フィールド」と並び、荘子の思想と特に親和性の高いものが「シンクロ率」です。「A.T.フィールド」は主体と客体を隔てる「心の壁」ともいえるものですが、「シンクロ率」は巨大な兵器であるエヴァンゲリオンとパイロットとの間の脳波の一致度を示すもので、こちらは主体と客体との関係性や関与の度合いを表すものです。
「胡蝶の夢」でいうと、「シンクロ率」によって荘周と胡蝶の関係性を表し、「A.T.フィールド」は胡蝶の夢における「「分」を表すことが可能ということです。
たとえば、

ステップ(①)。 通常の荘周と胡蝶の関係は「シンクロ率0%」、「A.T.フィールド」も、しっかりある状態といえます。

次にステップ(②-1)。 荘周が胡蝶として夢を見るとき。これは荘周が蝶になってしまっているので「シンクロ率100%」といえます。ただし、自分は蝶であるという認識があるので「A.T.フィールド」は健在であると言えます。

そしてステップ(②-2)。文中にある「荘周と胡蝶の区別がない状態」は、荘周と蝶どころか、もはや主体と客体の絶対境界線すら取り払われた状態、「A.T.フィールド」は消滅し、シンクロ率200%といえるでしょう。

最後のステップ(③)は、夢から覚めて(②-2)を見る荘周。これは再び「シンクロ率0%」に戻ります。「A.T.フィールド」も復活したことになります。
ここで重要なのが(②-1)と(②-2)のステップの存在です。荘周が蝶として夢を見ているとき(②-1)では、まだ「蝶としての主体」には他と区別する「分」がまだ存在しています。主体の変化は起きているけども、主体と客体をわける境界そのものは消えているわけではありません。

さらに重要なのはその後の(②-2)、「荘周と胡蝶の分がない状態」、主体と客体という区別そのものが消えてしまった状態です。

言い換えるなら、太極図の勾玉が「主体」と「客体」に分かれる前。すなわち前掲の「(1)そもそも事物が存在しないという状態(未始有物)の境地」に近いと言えます。同時にこれは禅宗でいうところの円相にも近いです。
日本で通常紹介される「胡蝶の夢」では、夢と現実、彼岸と此岸の二元的な世界を行き来するばかりなので、(②-1)と(②-2)はひとくくりにされることが多いですが、斉物論篇の全体を通してみるならば、というよりも『荘子』という書物の全体を読むとすれば、「主体と客体の境界が消滅した」状態こそ、「胡蝶の夢」の主題であると言うべきでしょう。
そしてこのステップの推移こそが「物化」であると言えます。
このように読まないと、どうしてもしっくりこないんです。荘子が「胡蝶の夢」において、「蝶」という昆虫をモチーフに選んだ理由は、頼りなさげな薄い羽根で虚空をさまよう儚さにあるということは否定しません。しかし私には、絶えず変化を続けながら、人間が作り上げた壁や境界を飛び越えるその軽やかな躍動にこそ主眼があるのだと思えるのです。
はい、今日はここまで。続きは次の夢のあとにお会いしましょう。それではAl-manāma sa'īda(アルマナーマ・サイーダ)!!
