【106歩目】胡蝶の夢を読む⑤ -意識と無意識-
前回までは「胡蝶の夢」と、後の時代の夢のお話について、いろいろとご紹介しました。今回はもう少し違うアングルから「胡蝶の夢」を語っていこうと思います。
1.またも、胡蝶の夢を読む。

❝罔兩問景曰「曩子行,今子止,曩子坐,今子起,何其無特操與。」景曰「吾有待而然者邪。吾所待又有待而然者邪。吾待蛇蚹、蜩翼邪。惡識所以然。惡識所以不然」
昔者莊周夢為胡蝶,栩栩然胡蝶也,自喻適志與。不知周也。俄然覺,則蘧蘧然周也。不知周之夢為胡蝶與,胡蝶之夢為周與。周與胡蝶,則必有分矣。此之謂物化。❞
➙ 罔両(影のさらに外側にある、うすい影)が、影に向かって尋ねた。 「さっきまでおまえさんは歩いていたのに、今は立ち止まっている。その前にはおまえさん座っていたのに、つぎには立ち上がっていた。どうしてそんなに、おまえさんは自分というものはないのかね?」
すると影は 答えた。「私は、何かに操られて、そうなっているのだろうか?いや、その私が頼りにしている主人という人間もまた、さらに別の何かに操られてそうなっているではないのだろうか?私の動きは、たとえば蛇の腹にある鱗や、蝉の羽のように主人にただ付き従って、そう動いているのだろうか?どうして自分が『そうなる理由』が分かるだろうか。また、どうして自分が『そうならない理由』が分かるというのだろうか(すべては自然のうつろいの中にあり、誰のせいでもないのだ)。」
その昔、私こと荘周は夢の中で蝶になった。 夢の中で蝶としてひらひらと心地よく空を舞っていた。自分が荘周であることなんてまったく意識になかった。
やがて、ふと目が覚めると、現実の荘周にもどっていた。
その時、自分が夢を見て蝶になっていたのか、それとも、蝶が荘周を夢見ていたのか分からなくなった。
荘周と蝶との間には、形の上では確かに区別があるはずである。 このような変化のことを「物化(ぶっか)」と呼ぶのである。

「胡蝶の夢」のお話の前には人の影とその外側にある罔兩(もうりょう)という薄い影と対話の様子が書かれています。この影たちは自分たちがどうしてそうなるか、どうしてそうならないのか分からないとしています。『荘子』にとって「影」もまた、とても重要な主題なのですが、この「斉物論篇」の最後に登場する影の表すものは、人間の「無意識のすがた」と言っていいでしょう。
そして、同じく無意識の働きである「夢」のお話につながっていくわけです。影が影そのものでは自由に動けないのと同様に、夢もまた人間が意識的にコントロールできるものではありません。
2.意識と身体。

❝非彼無我,非我無所取。是亦近矣,而不知其所為使。若有真宰,而特不得其眹。可行己信,而不見其形,有情而無形。百骸、九竅、六藏,賅而存焉,吾誰與為親。汝皆說之乎。其有私焉。如是皆有,為臣妾乎,其臣妾不足以相治乎。其遞相為君臣乎,其有真君存焉。如求得其情與不得,無益損乎其真。❞
➙「彼(外界の環境や、他者という存在)」がなければ、「私」というものは成り立たない。しかし同時に、「私」という存在がなければ、「彼」から何かを受け取る(認識する)こともできない。
(世界と私はこのように密接に結びついており)この真理はすぐ近くにあるのだが、一体「何」が、この私という存在を突き動かしているのか(その命令の主)が分からない。
まるで、この肉体をコントロールしている「本当の主宰者」がどこかに存在しているかのようだが、いくら探しても、その手がかりを掴むことはできない。しかし、この身体が(自分の意志を超えて完璧に)機能していることは間違いのない事実(信)である。ただ、その働きを司る「真の主人の形」を見ることはできない。確かに「情」は存在するのに、そこには「形」がないのだ。
(いま、ここに)百の骨節(百骸)、九つの穴(九竅:目・耳・鼻・口・尿道・肛門)、六つの内臓(六蔵)が、すべて揃って私の身体として存在しているという。
私は、この身体のパーツのうち、一体どれを最も親しいものとすべきだろうか。 あなたは、これらのパーツをすべて同じように愛しているだろうか。それとも、どれかを特別に贔屓(ひいき)しているだろうか。もし、すべてのパーツが同じようにただ存在しているだけなら、それらはすべて(自律性のない)「家来や召使(臣妾)」のようなものなのだろうか。しかし、召使たちだけでは、お互いを統治し合って(この複雑な身体のバランスを保つことは)できないはずだ。
それとも、パーツたちが交代で「君主」になったり「家来」になったりしているのだろうか。いや、そうではない。これらを一括してコントロールしている「本当の君主」が、やはり(目に見えない無意識の奥底に)存在しているのだ。その「真の主人」の正体を、私たちが掴むことができようができまいが、その主人が(今この瞬間も私を生かしているという)厳然たる事実(その真実性)には、有益であるとか無益と言った観点は無用である。
これは同じ「斉物論篇」の身体についての部分、我々の身体も意識のコントロールによってすべてが制御されている訳ではありません。我々が運動をしているときに、たとえば目覚めて朝食をつくったり食べたり、歯を磨いたり学校や職場に行くときに、どれほど「意識的に身体を動かしている」でしょうか?
3.酔っ払いの功名。

❝夫醉者之墜車,雖疾不死。骨節與人同,而犯害與人異,其神全也,乘亦不知也,墜亦不知也,死生驚懼不入乎其胷中,是故遻物而不慴。彼得全於酒而猶若是,而況得全於天乎。聖人藏於天,故莫之能傷也。❞
➙ たとえば、酒に酔った者が車から転落したとする。激しく叩きつけられたとしても、死ぬことはない。 骨や関節のつくりは他の人間と同じなのに、彼だけが被害(大怪我)を免れるのはなぜか。それは、彼の精神が(余計な意識から解放されて)完全な状態にあるからだ。
彼は車に乗っていることも意識しておらず、車から落ちたことも意識していない。死ぬことへの恐怖や、生きることへの執着が、彼の胸の中に一切入り込んでいないのだ。だからこそ、物に衝突しても(体が無駄に緊張せず、恐怖に)怯えることがない。
人間が造った『酒』による精神状態でさえ、これほどの効果があるのだ。ましてや、大自然(天)によって精神を完全に保っている(全於天)場合はどうだろうか。 聖人は大自然の中に身を隠す。だからこそ、何ものも彼を傷つけることはできないのだ。
お酒を飲むというと、精神の安定を乱し、場合によっては依存症をもたらすイメージを持ちがちですが、荘子は意外な見方を提示します。酔っ払いの身体の動きは、無駄な緊張や意識的なコントロールから離れているので、事故に遭ってもケガをしないというのです。そもそも紀元前に「飲酒運転」が存在していたことも驚きですが、実際、私も、交通事故の被害にあっても酔っぱらっていたおかげで軽症で済んだケースを知っています。
事故まで行かなくても、酔っぱらって、あまり覚えてもいないのにちゃんと家に帰って寝ているときもあるので、そういったときに無意識の働きを感じることはありますね。こういった、お酒を飲んで酔っ払った状態、身体が意識のコントロールから外れて無意識の働きに委ねられた状態を基本とするという、逆転の発想で考案されたのが、素晴らしく中国らしい武術「酔拳」であろうと思います。
4.足跡とそれ以外の土地。

❝惠子謂莊子曰「子言無用。」莊子曰「知無用而始可與言用矣。天地非不廣且大也,人之所用容足耳。然則廁足而墊之,致黃泉,人尚有用乎。」惠子曰「無用。」莊子曰「然則無用之為用也亦明矣。」❞
➙恵子が荘子に向かって言った。 「あなたの言うことは、現実には何の役にも立たないね。」荘子は答えた。 「『何が役に立たないか(無用)』ということが分かって初めて、本当の意味での『役に立つ(用)』ということを語ることができるものだ。そもそも、この大地は広大ではないか。しかし、人間が実際に歩くときに実際に踏みしめているスペースは、せいぜい自分の足の裏の広さだけで足りるものだ。それでは、人が足を踏みしめている有用な場所以外の地面を、すべて黄泉(地下のどん底に届くほど)まで深く掘り下げて削り落としてしまったとしたら、あなたはその大地を歩けるかね?
恵子は言った。 「何の役にも立たなくなるな。」
荘子は言った。 「それなら、一見『役に立っていない(踏んでいない)』と思われている周りの広大な土地こそが、実は『役に立つ(安心して歩く)』ために絶対に欠かせないものであるということは、もう明らかではないか。」

これも特徴的な「無用の用」のお話です。役に立っている足跡の部分だけを残して、他の部分を黄泉の底まで掘り下げてしまったら、その大地を歩けるだろうか、というのは、「意識が及んでいる(足が触れている)範囲だけを有用」とし、「意識が及ばない大部分の範囲(無意識の範囲)」を無用として切り捨ててしまうことと読むことができます。そうしてみると、まず、我々が意識できている部分など実はごくわずかであることに気づかされます。そしてさらに、その意識が及ばない部分を本当に取り除いてしまえば、我々は残った足跡の上に立っているのもやっとで、次の一歩を踏み出すことすらおぼつかなくなるほど不確かな状態になってしまう――そういう意味にも解釈できます。
5.意識と無意識の間にある呼吸。

❝何謂真人。古之真人,不逆寡,不雄成,不謨士。若然者,過而弗悔,當而不自得也。若然者,登高不慄,入水不濡,入火不熱。是知之能登假於道也若此。古之真人,其寢不夢,其覺無憂,其食不甘,其息深深。真人之息以踵,眾人之息以喉。屈服者,其嗌言若哇。其耆欲深者,其天機淺。古之真人,不知說生,不知惡死;其出不訢,其入不距;翛然而往,翛然而來而已矣。不忘其所始,不求其所終;受而喜之,忘而復之。是之謂不以心捐道,不以人助天。是之謂真人。❞
➙「真人(しんじん)」とは、どのような人物なのだろうか。
古の真人は、少なさに逆らうことはなく、為しても猛ることはなく、物事に計らいを持っもつこともなかった。このような者は、失敗しても悔やむことがなく、道理にかなった成功を収めても自慢することがない。それゆえ、高所に登っても震えず、水に入っても濡れず、火に入っても熱さを感じない。知性が「道(TAO)」の極致にまで達した者とは、まさにこのような境地にある者のことだ。
古の真人は、眠る時に夢を見ず、目覚めても憂いがない。食事に美味を求めず、その呼吸はきわめて深い。古の真人の呼吸は「踵(かかと)」で息をしていたが、凡人の呼吸は「喉(のど)」で止まっている。 他人に屈服して卑屈になった者が発する言葉は、まるであえいでいるかのようである。欲が深い者は、それだけ天から授かった本然の知恵(天機)が浅いのである。
古の真人は、生を喜ぶことも、死を忌み嫌うこともしない。この世に生まれてきたことを喜び浮か浮かれず、死にゆくことを拒みもしない。ただ軽やかに去り、軽やかに来るだけである。自分の始まりを忘れず、自分の終わりを追い求めもしない。生を授かればこれを受け入れて喜び、命を失えばあるがまま自然へと戻る。これを「作為的な心によって道を損なわず、人為によって自然の営みを助けない」と言う。これこそが「真人」である。
そして、荘子の中で特徴的に書かれている「呼吸」。呼吸は意識的にすることも可能ですが、多くの時間は無意識に委ねられています。いわば「意識」と「無意識」の間にある活動です。我々は時として意識的なコントロールや理性的な思考を重んじる傾向がありますが、呼吸の場合には「意識的なコントロール」に委ねると危険な場合もありますね。たとえば、それこそ夢を見ている無意識の状態であっても人間は呼吸をしないといけません。意識に呼吸を任せていると死んでしまいます。逆に水に潜るときなどはちゃんと呼吸のタイミングを意識しないといけません。意識と無意識も、どちらか一方だけでは人間は生存を維持できないようになっていますね。
この意識と無意識の観点は、荘子の中に一貫して書かれてあり「胡蝶の夢」も、当然その重要な素材の内の一つであることが読み取れると思います。すなわち、夢とうつつが区別をつけにくいのと同じように、無意識と意識もその区別はつけにくい。我々は、眠りに入る瞬間を意識できないように、意識的な呼吸から無意識に切り替わる瞬間も意識できない。
はい、今日はここで限界、というかさっきまで寝落ちしてました。また本格的に無意識に入ります。それでは、Unnukkut (ウヌックット)!!
