膳臣は越前国坂井郡か
福井県あわら市に稲越(イナゴエ)という地名があって、南稲越遺跡が古墳時代前期の集落跡や玉作りに関連する遺構のようです(AI調べ)。隣接する伊井遺跡では、弥生時代後期末から古墳時代前期にかけて、碧玉を用いた管玉や勾玉の製作が行われていたことが発掘調査で確認されています(AI調べ)。伊井遺跡や南稲越遺跡からは、完成品だけでなく、製作途中の車輪石や石釧の未成品が見つかっています(AI調べ)。どうもこれが新撰姓氏録の大彦命男の大稲輿命(イナコシ)の遺跡で、膳臣・阿閉臣・伊賀臣・高橋氏・宍人氏の共通の祖のようです。大彦命は北陸道将軍・越国造の祖として知られ、その古墳に比定できる桜井茶臼山古墳(桜井茶臼山古墳の石室の水銀朱|古墳時代史解題)やその後裔の武渟川別の古墳に比定できるメスリ山古墳(武渟川別が出雲を支配し、吉備氏(モモソ姫一族)と関係の深い三輪氏が大国主神後裔となったことを示すメスリ山古墳|古墳時代史解題)からは玉杖等の石製品や大量の石製腕輪が出土しています。
あわら市稲越・伊井は越前国坂井郡溝江郷で、元は東大寺の荘園だったようです(後に興福寺荘園へ)(中世あわらの豪族・溝江一族 あわら市郷土歴史資料館)。東大寺は大彦命の一族と関係が深いと見られます(水源地と辰砂(朱)の関係(丹生都比売神社と東大寺)から日本刀へ|古墳時代史解題)。東大寺は聖武天皇の建立ですが、聖武天皇の祖母の元明天皇の諱は阿閇で膳臣の一族と関係が深いと見られ、元明天皇の皇太子が首皇子(後の聖武天皇)でした(結局、文武天皇の姉の元正天皇(首皇子の伯母)に譲位)。元明天皇は平城京に遷都した天皇で、聖武天皇の和風諡号の桜彦は若桜部臣(膳臣)に基づく可能性もあって、聖武天皇は孝謙天皇(阿倍内親王)に譲位しています。東大寺の倉の正倉院が阿倍倉梯氏の技術の可能性もある訳です。
あわら市の膳臣の古墳は横山古墳群でしょうが、古墳時代後期に活性化します。文献上も膳臣は継体天皇以降の活動も活発です。越前の豪族として継体朝で引き立てられるところがあったのでしょう。継体天皇は最終的に(膳臣ゆかりの)磐余に宮を置きます。坂井郡の六呂瀬山古墳群が皇別氏族の三尾氏の古墳群だとすれば(石城別王に始まるか)、六呂瀬山古墳群と密接な関係を持つ松岡古墳群(磐衝別命に始まるか)も三尾氏の墓域ではないかと私は考えています。松岡古墳群は足羽郡でしたが、在地の足羽(あすわ)臣に磐衝別命が婿入りした可能性等(生まれた子が石城別王か)、考えられます。少なくとも通説では、松岡古墳群と六呂瀬山古墳群の被葬者は空白となっており、横山古墳群を三尾氏の墓域とする等、混乱が見られるように思います。
面白いのは上宮記の系譜で、継体天皇の祖を(白鳥と関係の深い)凡牟都和希王とします。これは垂仁天皇皇子で、恐らく上宮記が(聖徳太子と関係の深い)膳臣の墓記(持統朝にも提出)を元に(応神天皇と名前の似ている)垂仁天皇皇子に繋げてしまったのでしょう。同じく垂仁天皇皇子の磐衝別命が三尾氏の祖で、継体天皇の母方の父系祖先だからです(なお、磐衝別命の同母妹の両道入姫命が(白鳥に関係の深い)日本武尊妃で、仲哀天皇の母です)(磐衝別命自体、在地の膳臣に受け入れらて越前に土着した可能性も高いと思います。振媛の父系祖先の三尾氏(坂合部首氏と同族か)(境部摩理勢は膳臣を通じて山背大兄皇子に近かった可能性が高いです)の拠点が(坂井郡の)高向(福井県坂井市丸岡町高田)だった可能性があります。継体天皇妃の高田媛が阿部木事の娘で桜井市高田にメスリ山古墳があります。上之宮も近く、高田媛の母が膳臣だったのかもしれません)。そして磐衝別命の子に石城別王と水歯郎媛(景行天皇妃)がいて、景行天皇皇女の五百野皇女が伊勢斎宮です。
見出し画像は高向神社(高向の宮跡)(DMOさかい観光局 さかい旅ナビ)。高向神社は坂井郡の式内小社。
伊賀国は伊勢国からの分離で、伊勢・伊賀最大の前期古墳は、石山古墳(三重県伊賀市才良(伊賀郡)→伊賀臣の古墳か/墳丘長120m)でしょうが、大量の武器類や石製腕輪が副葬されていました。伊賀国一宮の(式内大社の)敢國神社(三重県伊賀市一之宮)は阿閉臣だと思われ、伊賀臣とは同族なのでしょう。国名に採用されていることから本来は伊賀臣の方が格上のようにも思いますが、阿閉臣の方は元明天皇に関わり、一宮となったものかもしれません。
なお、阿倍臣系のメスリ山古墳の後継古墳は新山古墳(奈良県北葛城郡広陵町安倍に隣接した奈良県北葛城郡広陵町大塚)を考えています。この地は築山古墳(葛城襲津彦の墓か)に近く、武内宿禰は阿倍氏に近い血筋の襲津彦を後継とした可能性があるでしょう。筑後国一宮の高良大社の高良玉垂命も八幡神の第一の伴神(随神)と位置づけられ、武内宿禰と結び付けられてきました。高良大社は筑後国三井郡で(大彦命系)筑紫国造と関係が深いと見られます。武内宿禰の采配で、石人山古墳の被葬者が当地に来た可能性もあるでしょう。阿倍氏は蘇我氏と共に古墳時代後期に復活すると言われます。
2026年6月11日)(北陸最大規模の横山古墳群(稲越は近隣)を三尾氏の墓域とする福井県の)通説に挑戦しますが、やはり(玉作の)稲越遺跡(いなごえ→後世に読みが変わったか)は比古伊那許志別命(大稲腰命)の遺跡と考えざるを得ません(阿倍氏の祖の武渟川別の後裔と思われる布施臣が越国造で沼河比売の糸魚川を抑えたという関係でしょう→越国造の謎解き|古墳時代史解題。だから大彦命が北陸道の将軍に位置づけられるのです)。他に何処が?といった感じですが、坂井郡が境郡だと考えられ、坂合部氏は大彦命系です。一方、継体天皇の母方の三尾氏の本家は六呂瀬山古墳群だと思われます。これも坂井郡です。だから(異母兄弟の)景行天皇と膳臣の関係が生じて、伊勢斎宮が出たのでしょう。そもそも同じ坂井郡で規模の大きな六呂瀬山古墳群の方を(纏向の天皇の直系の)三尾氏の墓域とするべきなんですね。三尾の意味は水尾で、九頭竜川の谷合のことを指すとも考えられます。こう考えると六呂瀬山古墳群の対岸に松岡古墳群(足羽郡)がある意味も見えてきます。こちらが恐らく石城別王系で三尾君と並んで継体天皇妃を出した三尾角折君の系統だと思われます。
なお、越前の有名な青石(笏谷石)は足羽郡です(足羽(あすわ)氏は足羽古墳群で在地系と見られる)。足羽郡の氏族としては生江臣も有力で、(北陸最大規模の)酒生古墳群だとも考えられますが、そうだとすると築造開始年代からは、古事記系譜にあるように葛城襲津彦の後裔ではなく、武内宿禰の出身母体と思われる与等連系で、後に襲津彦の下に生江臣が組み入れられたものかもしれません。横山古墳群と併せて越前は孝元天皇系色が強い訳ですが、越中の布施臣と併せて、景行天皇紀の「遣武內宿禰、令察北陸及東方諸國之地形」(の伝承)に繋がったと見るべきではないでしょうか?
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