武渟川別が出雲を支配し、吉備氏(モモソ姫一族)と関係の深い三輪氏が大国主神後裔となったことを示すメスリ山古墳
メスリ山古墳。古墳時代前期の史書に載らない謎の天皇陵クラスの大前方後円墳。位置的に阿倍丘陵の神社や古墳と切り離せず、大彦命の子の阿倍臣の祖の武渟川別の古墳かと考えています。廻り山古墳の訛なんですかねぇ。何気に登れます(見出し画像は私がメスリ山古墳に登って撮影した写真。ただの地面ではありません)。



メスリ山古墳。国史跡。墳丘長224mとされていましたが、近年の調査で250m(史書に見えない謎の大王陵クラスの墓)とされています。桜井茶臼山古墳に次ぐ築造とされ、破裂山より派生した阿部山の分離丘陵の断崖縁(桜井市高田・上之宮→高屋安倍神社(三座)及び膳臣と関りが深い若桜神社擁する城上郡)に営まれており、景行天皇妃に阿倍氏木事(こごと)の娘の高田媛がいますから、阿倍木事あたりが築造した(垂仁五大夫で会津説話の東海道将軍で大彦命の子で阿倍臣の祖で崇神天皇紀に出雲振根を誅殺した事績を持つ)武渟川別の古墳と考えて良さそうです(上之宮も近く、高田媛の母が膳臣か)。出雲国造の本拠の松江市には安部谷の地名が残り、時代は下りますが、横穴墓群が築かれています。
器台形の巨大埴輪は6世紀後半に日置荘周辺(堺市)の円筒埴輪のモデルになったと見られます。日置氏は(太陽祭祀で葛城直氏との関係が考えられる)大伴氏流と見られ、出雲振根の根拠地の東出雲の有力氏族です。
主室は盗掘によって大きく破壊されていましたが、鏡や多様な石製品、鉄製武具があったようです。この内碧玉製石製品は北陸を中心に全国で作っていたと思われ、特に福井市田ノ頭町の碧玉は良質のようで、石製品の製作地の河和田遺跡(坂井町)と伊井遺跡(金津町)は(阿倍氏というより別の大彦命系の)膳臣の領域の可能性があります。越前北部で最有力の皇別三尾氏(磐衝別命後裔)は大彦命の孫の垂仁天皇と山背大国不遅の娘の綺戸辺との間の子孫で、息長と関係が深いことから、神功皇后は古墳時代中期に磐余を拠点としたのでしょう。上宮太子(聖徳太子)の史料が継体天皇の系譜に詳しいことも、上之宮遺跡がメスリ山古墳に近いことも、膳臣の妃を持った事実と直結すると思います(膳臣は武渟川別の後裔ではありませんが、同じ大彦命系氏族として、磐余の若桜神社を奉斎する氏族として、磐余の巨大古墳の主の武渟川別は尊敬されていたと思います)。
北陸には阿倍布勢臣や(大彦命系)道君の根拠地があります。この内、阿倍布勢臣(射水臣か)は前期に古墳が目立つようにも見えます。ここから糸魚川の硬玉の交易を差配していたような気もします(周辺で一番近い大古墳(100m超)と言え、能登半島をショートカットする位置にあります)。それが武渟川別の名前の由来の可能性が高いのかもしれません。糸魚川と関係あると見られる糸井造氏は天日槍系(三宅氏)ですが、大彦命系三宅人氏(波多武日子命後裔)が統括していたと思います。波多武日子命=武渟川別の可能性も考えられますが、いずれにせよ、古墳時代前期においては、(出雲をも支配する)武渟川別(後裔の阿倍布勢臣)が硬玉交易を中継・差配していたと見ます(外国との交渉は北部九州やミタミ氏(土師氏)が(も)担当していたかもしれない)。
天皇陵級の島の山古墳の被葬者は神功皇后の母|古墳時代史解題
大国主神の出雲王国の墳墓群|古墳時代史解題
副室は未盗掘で、奈良県メスリ山古墳出土品は国の重要文化財になっています((杖部氏/武蔵国造との関係も考えられる)玉杖や常陸国風土記香島郡の条に見える鉄弓(常陸国風土記香島郡の条に崇神朝に(鹿島神宮では出雲を制した武甕槌神を祀る)中臣氏の)神聞勝命が奉納した神宝の内の一つの)、236本の銅鏃、212本の柄に黒漆が塗られた鉄槍(武渟川別は崇神天皇と同世代で、後裔に葛城の布施臣があると見られ、大坂山の黒槍・黒盾の祭祀との関係が示唆される)、盾の痕跡と見られる漆等)。メスリは高田の字名ですが、廻り山古墳から来ているのではないかという説があります。なお、赤槍・赤盾の宇陀の祭祀は桜井茶臼山古墳被葬者(武渟川別の父の大彦命)との関係が疑われます(新撰姓氏録河内国皇別「難波忌寸」記事参照)(境界を司る坂合部には大彦命系氏族があります。国境を定めたとする成務朝では(同じく古事記に後裔に坂合部が見える)多氏と共に大彦命系氏族は勢力があったと見られます)。
分析すると、どうも武渟川別が出雲振根を討伐したことが、三輪の大物主神(大国主神)祭祀に深く関わるのではないかと思います。三輪氏は吉備の特殊器台とも深い関係を持ち、出雲より吉備(モモソ姫一族や河内)との関係の深さが目立ちます。そうだとすると、出雲振根の討伐時に吉備氏をも武渟川別は統括していたのではないか?三輪氏や吉備氏が独立したのは、大彦命系氏族の失態があった(仲哀天皇を支持したと見られ)神功朝においてなのかもしれません。少なくとも吉備氏の古墳は阿倍氏の古墳と入れ替わりで大きくなり、三輪氏もホケノ山古墳と茅原大墓古墳の空白域にメスリ山古墳が位置します。三輪氏と阿倍氏は統治領域が接していて、重なる部分もありますし、阿倍氏の統治領域の磐余に吉備の地名があります。これが(大和古墳群の盟主墳で真の崇神天皇陵と思われる)西殿塚古墳や(真の垂仁天皇陵と思われる)行燈山古墳を大きさでは上回るとも言えるメスリ山古墳の威勢に繋がるのでしょう。
武渟川別は(大彦命と会津で出会ったとされる)東海将軍でもありました。その傍証と成り得る古墳が埼玉県(や静岡県・栃木県)にあります。
大和朝廷No.2の東海将軍と関係の深い初期武蔵国造の前方後円墳か(埼玉県東松山市将軍塚古墳)|古墳時代史解題
>メスリ山古墳が武渟川別の古墳である論拠ですが、一番は安倍文珠院(桜井市阿部)がまぁまぁ近いことですね。上之宮遺跡はもっと近いですけど(膳臣絡みでしょう)、メスリ山古墳は高田にあって、景行天皇妃の高田媛は阿部木事の娘です。阿部木事が高田の地に父の古墳を築いたと見られます。延喜式には記載がないですけど、これは単に遠い皇別氏族であったことに由来すると思われ、武内宿禰も同様です。阿倍氏は墓記を提出しているので、氏祖の古墳の位置は知っていたと思います。
メスリ山古墳には後継古墳が見当たりません。武渟川別の後の大彦命系氏族は武渟川別の子の阿倍氏(木事)の系統と膳臣(磐鹿六鴈)の系統に分かれるようですが、前者が新山古墳、後者が佐紀古墳群の古墳の何れか(だから奈良市に高橋の地名がある)と見ます。古墳時代中期には中央では雌伏していたのでしょう。急に大彦命系氏族の勢力が弱まる背景に景行朝に外戚が丹波道主命系に交代することが挙げられると思います。この頃は外戚になって、皇室を操るというモデルが確立していなかったのかもしれません。そして、古墳時代中期初頭に追い打ちをかけられたと(それでも滅びず、後に敗者復活したあたりが日本的古代的なのだと思います)。
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