崇神天皇・大彦命に続くNo.3は誰か(椿井大塚山古墳)、そして野見宿禰の謎へ
椿井大塚山古墳(見出し画像は木津川市ページより)。国史跡。後円部をJR奈良線が横切っており、一種の負の遺産とせざるを得ません。箸墓(墳丘長278m)相似の出現期前方後円墳としては最大の墳丘長175m。山城国相楽郡/京都府木津川市山城町。相楽郡には国分寺が所在。出土品豊富(銅鏡としては、内行花文鏡2面、画文帯対置式神獣鏡1面、方格規矩四神鏡1面、三角縁神獣鏡32面以上が出土)で当時の畿内政権の列島における卓越性を示す古墳です。
崇神天皇(西殿塚古墳/墳丘長230m)、大彦命(桜井茶臼山古墳/墳丘長207m)に続く崇神朝No.3の古墳と考えられるのが、椿井大塚山古墳(墳丘長175m)の被葬者です。誰の古墳なのでしょうか?
古事記における崇神天皇陵=山辺道勾岡上陵は西殿塚古墳|古墳時代史解題
桜井茶臼山古墳の石室の水銀朱|古墳時代史解題
これ、当初は彦坐王かと考えていたのですが、この時代の官の解析が進み、訂正させていただきます。
最有力候補は崇神天皇の異母兄の彦湯産隅命(母は丹波大県主由碁理の娘の丹波竹野媛)だと考えます。
①卑弥呼の時代のNo.1の官の伊支馬の地位の継承に関連して、垂仁朝の伊支馬は丹波道主命と考えられますが、彦湯産隅命には丹波の血が入っていて、垂仁天皇紀一云に丹波道主命の父です。本文では丹波道主命の父は彦坐王ですが、母は息長で近江と丹波は関係が深かったと見られます(弥生時代に近江系土器が丹波で見つかります)。間を埋めるのは彦湯産隅命こそが(彦坐王より)相応しい。
②彦坐王には後裔が多くいますが、彦湯産隅命の子は古事記を見ても、子は大筒木垂根王、讚岐垂根王がいますが、続いていません。椿井大塚山古墳は古墳時代初期の有力墳ですが、後裔が続いてないことに特色があります。
③木津川市の弥生時代後期末から古墳時代初頭における山城で最大の墳丘墓の砂原山墳丘墓に丹後系祭式土器の供献があって、当地と丹後の結びつきが深かったと考えられます(参照:古墳出現前夜における丹後地域王権の「畿内」交渉ー首長墓の供献土器ー 京都府埋蔵文化財論集第8集 高野陽子)。彦湯産隅命の母の父が丹波大県主由碁理です。
2025年10月28日追記)多くの子孫がある彦坐王の方が、後世の目では有力に見えるんですが、彦湯産隅命の持つ丹波とのコネクションが重要だった(丹波攻略が重要課題だった)のかもしれませんし(四道将軍の丹波道主命は一世代下)、彦坐王は或いは江戸時代で言えば、御三卿的な立場で、当時は少なかった皇族数を増やす崇神天皇のスペア的存在として、纏向にいて、朝廷内の地位そのものは相対的に高くなかったのかもしれません。
彦坐王は子供の狭穂彦王の方が春日にあって、有力だったように見えますし、その他子供が各地方に封じられているにも関わらず、本人の拠点が記紀からは見えてきませんし(伝承は残っていますが、確証はないです)、彦坐王の長子筋と思われる大俣王(垂仁天皇と同世代)も拠点不明で、孫の曙立王が垂仁天皇の長子のホムチワケについて出雲大神の参拝をしています。どうも纒向にいた感じもあるんですよね。
そうだとしたら、彦坐王は大和古墳群に眠るはずです(崇神天皇と同世代の重鎮として、特殊器台が出土する中山大塚古墳が有力な候補かと思います)。大和古墳群は有力墳も多いですが、西殿塚古墳との格差は大きく、外戚の大彦命は別格として、畿内の近くに残る対丹波戦略が如何に重要だったかを示すのが椿井大塚山古墳だと思います。
ここで問題は、古事記で日子坐王は旦波国に派遣され、玖賀耳之御笠を討ったとされることです。記紀で食い違いがある訳ですが、ここは恐らく日本書紀の方が歴史的事実に近いのでしょう。何故なら、彦坐王自身が丹波を討伐した/利権とした形跡が薄いからですし、寧ろ彦坐王と後継者筋の山代県主祖(相楽郡か)の娘の山代之荏名津比売(苅幡戸辨)との縁組が、丹波攻略が次のステップであることを示すように見えるからです。彦坐王は開化天皇の子として、重要な位置を占める皇族で、伝説に尾鰭がついて、日本書紀が訂正したということかもしれません。
興味深いのが苅幡戸辨が垂仁天皇に嫁いでいることです。伊香色謎命でもあったレビラト婚でしょうが、彦坐王は子孫が多いにも関わらず、そんなには長命ではなかったと見られます。また日葉酢媛命薨去後に苅幡戸辨が娶られたという日本書紀の伝承は疑わしいと思います。彦坐王薨去後に娶ったとする方が事実に近いのではないでしょうか?古事記と日本書紀では日葉酢媛命の寿命に違いがあるのですが、垂仁天皇が長命だとして、日葉酢媛命とどちらが先に亡くなったかは確証がないように思いますが、日葉酢媛命より恐らく系譜上苅幡戸辨の方が年齢が上で、垂仁天皇との間に子供をなすには、妃として皇后の存在如何に関わらず、彦坐王の薨去後に直ぐに娶った、或いは彦坐王とは離別して垂仁天皇が(苅幡戸辨を)娶ったと考えざるを得ません。
苅幡戸辨は山城国相楽郡蟹幡郷(加無波多)とも言われます。これは山代県主(息長/天津彦根命系)=山背大国不遅が相楽郡であることを示し、椿井大塚山古墳との関係を考えさせられますが、後継墳の希薄さ等で、山背大国不遅の古墳の可能性は低いと思います。共立説が考古学では有力視されていますが、私が文献と古墳を照合した感じでは、地方勢力は有力ではなく、皇族こそ当時有力であったように見えています。まぁ山背県主が後の国府があった相楽郡というのは、素直な見方ですが、天津彦根命後裔氏族というのは、そんなには(皇族ほどは)(少なくとも古墳時代前期には)古墳が目立たない印象です。
最後に山城国相楽郡の式内社の綺原坐健伊那大比売神社を見ていきますが、健伊那大とは古事記の応神天皇系譜に出てくる皇后三姉妹の父の(母方の)祖父で尾張氏の建伊那陀宿禰のことだと思いますが、世代的には景行天皇世代の計算になります。苅幡戸辨に連れられて、垂仁天皇に仕えて、名前を残したのでしょうか?垂仁天皇崩御後は景行天皇にも(或いはその崩御後に五百城入彦皇子にも)仕えて名を残したのかもしれませんね。健伊那大比売は苅幡戸辨ではなく、建伊那陀宿禰の娘の志理都紀斗賣(五百木之入日子命の妃)のことと考えるのが自然です。山城国神別の伊福部氏の拠点だったと考えられます。
つまり応神天皇の(応神天皇の出生の怪しさを補う)本来の後継者筋を産んだ皇后三姉妹の祖父の五百城入彦皇子妃は、野見宿禰に近いと言えそうです(因幡の伊福部(伊福吉部徳足比売骨蔵器)と野見宿禰(因幡国高草郡に式内・大野見宿祢命神社、天穂日命神社、天日名鳥命神社)は関係が深いと見られる)。その意味で神功皇后の曽祖母に近いとも言え、綺原と綴喜の近さもあったでしょうし、仲哀天皇母の両道入姫命と(苅幡戸辨を通じて)縁があったとも言えると思います。
こう見ると、野見宿禰が垂仁天皇紀に登場するのは、苅幡戸辨のコネクション(建伊那陀宿禰=伊福部の推薦)なのかもしれません。これで、因幡と丹波の繋がりも見えてきます。山城国相楽郡が繋いだんですね。なお、丹波国造は尾張氏と見られます(海部氏系図)。伊福部の系統かもしれません。
参考記事
五社神古墳の被葬者の神功皇后とモモソ姫、土師氏、前方後円墳最盛期(古墳時代中期)の関係|古墳時代史解題
2025年11月4日追記)彦湯産隅命の仕事ですけど、あまり軍事で働いた形跡がありません。鏡の分配には関わっていそうですけど、それも桜井茶臼山古墳の方が鏡の副葬数が多く、微妙な気がします。伊勢遺跡の太陽祭祀は葛城(秋津・中西遺跡)で復興した(?)っぽいですし。
思うに大彦命が遠征軍で、彦湯産隅命が近国(丹波・讃岐)に対する守り・侵攻準備かなという気はします。山城国相楽郡の位置と子供の名前(大筒木垂根王、讃岐垂根王)からです。結局、時代が下って、丹波は丹波道主命、東讃岐は景行天皇皇子(神櫛皇子)、西讃岐は日本武尊皇子(武卵王)が征服したかとは思います。
古墳時代中期初頭の巣山古墳(奈良県北葛城郡広陵町大字三吉→式内・讃岐神社の地)が讃岐と関係する謎がありますが、彦湯産隅命の後を受けて相楽が讃岐担当だった可能性があると思います。即ち、仲哀天皇の母で垂仁天皇皇女で綺戸辺娘の両道入姫命が、後裔のいない相楽の讃岐担当として被葬者の最有力候補でしょうか。そう考えると「フタジ」とは、丹波と讃岐ということになりそうです。神櫛皇子や武卵王の可能性も考えましたが、現地土着なら、中央の天皇陵級古墳は過剰です。日本武尊の妃だから、水鳥型埴輪とも考えられますしね。石棺でも丹波と讃岐は関係ありそうです。
また、仲哀天皇紀に仲哀天皇は南国に巡狩し(南海道が紀伊・四国)、紀伊(和歌山県)から穴門(山口県)に向かっています。これは母が山陰道(丹波道?)と南海道の担当だった可能性があり、前者は(筒木の)神功皇后が引き継いだとも考えられます。
讃岐は古墳時代に入っても積石型古墳で、独自の墓制を残します。大和朝廷と協調関係にあったとしても、支配はされていなかったでしょう。中期に入る前に大和朝廷に屈服したと思いますが、近国では最後になったと思います。阿波の積石型墳丘墓/古墳も讃岐の進出の可能性が高く、これは阿波忌部ではないとひとまず考えておきます。
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