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越国造の謎解き

https://youtu.be/wzZukY0s_U8?si=CJk3zCALJY017AZu(布勢神社(富山県氷見市))
2024年12月23日)射水臣氏の系譜は信頼できる史書では不明ですが、大彦命系氏族のような気がします。氷見市の式内布勢神社は万葉集の「布勢の水海」の中の孤島だったとされます。布勢氏は有力な大彦命系氏族で、式内道神社の論社が高岡市と射水市にあります。いずれも大彦命を祀り、道君も加賀国域の大彦命系氏族です。海人的性格もありそうですし、ドンピシャではないでしょうか?姓も布勢臣・阿倍臣・膳臣と共通します。

また、越後国域(当初は越国で大宝2年(702年)まで越中国)の古志郡に大きな古墳が見当たらない謎もこれで解けたかもしれません。つまり初祖が柳田布尾山古墳で、後に古志郡に移動したと考えます。移動先は式内三宅神社周辺だと考えられ、新撰姓氏録に三宅人氏は難波氏と同族で、難波氏と布勢氏は海人的性格、外交担当が共通しているようです。北陸東半は外国に思えたのかもしれませんが、柳田布尾山古墳が柳田字布尾山・諏訪野にあるのも外交に長けた美談氏(出雲の在来氏族)を傘下に置いていた可能性も考えられますし、古志郡の先の蒲原郡(当初は越国で大宝2年(702年)まで越中国)には小布勢神社もあり、信濃国更級郡に布制神社もあります。更には会津郡の伊佐須美神社(陸奥国二宮)は大彦命と武渟川別を祀ります。

結局、越国造が成務朝に設置されたとして、古志郡(三宅人氏)だと思いますが、大きな古墳を伴ってない可能性があります。伊予国造なんかもそんな感じで、伊予国府は越智郡です。律令国造は名誉職と言われますが、意外と最初から国造そのものが地理的区分に伴う名誉職だったのかもしれません。

2026年6月5日)越国造の初祖の古墳が大きさから氷見市の柳田布尾山古墳の可能性が高いとして、①前方後方墳なのは大和古墳群に例が多いから問題は少ない。②平安時代の射水郡の中心は寧ろ高岡市なのは、恐らく古墳時代中期以降に加賀の道君(秋常山古墳群)が高岡市域に進出したからと解釈(式内・道神社)。③古墳の大きさ・継続性で言えば、越前や能登が目立つことに関して言えば、成務朝に大彦命系が(伊予の多氏系と同じく)境部氏で自分の一族の領域に国名(や島名)を代表させたと解釈。桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳で分かるように、大彦命系氏族は衰退や入れ替わりがあったらしい。④布施氏は各地に分布していますが、布勢水海を擁することから考えて、ここがルーツのような気もする(中央には地方から帰還?)。⑤残る疑問は越後国の古志郡の謎ですが、むつ市が下北半島にあるようなもので、本来の越国造が布勢(や道?)を名乗ったが為に、浮いた名前を越後国域で使った可能性を考えています。

保内三王山古墳群/三条市・・・式内・小布勢神社も同一地域で気になる古墳群です。布勢氏は大彦命系で越国造と何らかの関係性を有している可能性が高いです。佐渡の小布勢とも関係が?ただ越国の大彦命系の初祖の古墳は大きさで言えば、富山県氷見市の柳田布尾山古墳です。

長岡市和島地域の山林に新たな古墳が!「椿沢古墳」新潟大グループが発見 人工的盛り土の跡、土砂運搬し築造か|新潟日報・・・恐らく謎が解けました。和島は合成地名で、桐島村と島田村が合併した時の合成地名らしい。当地は越後国古志郡大家郷で、島田臣(多氏)が記録係だから、コシの地名(郡名)を自分のところに持ってきたと見ます。

2026年6月8日追記)阿倍内臣(倉梯)麻呂(阿倍内は複姓)が薨去した後、斉明朝と天智朝で阿倍引田臣比羅夫が活躍し、天武朝では(阿倍)布勢朝臣御主人が活躍しますが、基本的には権力が交代したら、豪族もそれに合せて交代することが多いのかなと思います。要は天皇(大王)の豪族の推戴という通説は誤りではないでしょうか。

天皇が豪族を選んでいるのですから。阿倍内臣の内は甘美内宿禰と武内宿禰の内で、(近習を出した隼人と関係の深い)綴喜郡と宇智郡かと思います。つまり蘇我氏と関係が深い(擬制的同族関係を強調する通説も誤り)。阿倍内倉梯麻呂は大化5年に薨去していて、その後継ぎは孝徳朝には見えないんですが、内臣の後継ぎがいて、孝徳天皇が実権を失ってから、(理由をつけて)阿倍引田臣比羅夫に阿倍氏の氏上が交代したのかなと思います。蘇我倉山田石川麻呂も「誤解」で自殺に追い込まれましたし、何だかんだで「蘇我政権」と密接だった阿倍内臣は中大兄皇子・中臣鎌足的にはパージの対象だったのかもしれません(麻呂自体は上手く立ち回って重用せざるを得なかったのかもしれませんが)。

いずれにせよ、斉明朝・天智朝で活躍したのは引田臣(道君の一族か)の比羅夫、天武朝で活躍したのは(道君と並ぶ北陸の雄とも考えられる)布勢朝臣の御主人と見事に権力交代に伴って阿倍氏の複姓を変わっています。

2026年6月9日追記)この記事が意外と重要なのは、天智天皇皇子の第七皇子の志貴皇子の男系子孫が現在の皇室で、志貴皇子の母が越道君伊羅都売だからですね。勿論、この記事は(阿倍御主人の出身母体の)布勢氏を越国造と推定する記事であり、阿倍引田比羅夫と道君の関係を示唆する記事ですが、越国造は福井河川国道事務所が偽書(国造本紀)を根拠に>「国造本紀」によれば、九頭竜川流域には高志国造、三国国造が置かれていた。高志国造は、阿閉臣の祖の子孫を定めたと伝えられているが、「日本書紀」では孝元天皇の子大彦命が阿閉臣や越国造など七氏の祖であるとしている。しかし、何氏であったかは明確ではなく、丹生郡の佐味氏であると考える説のほか、手繰ケ城山古墳・泰遠寺山古墳・二本松山古墳などの大型前方後円墳の被葬者にあてる説もある。>三国氏の墳墓は、金津町の横山古墳群とされている。・・・等としているのですが、越国造は明快に大彦命系氏族で、佐味氏は上毛野君ですし、手繰ケ城山古墳や松岡古墳群は三尾君の可能性が高いと思います。横山古墳群は膳臣でしょう(福井県あわら市の膳臣と伊賀の関係及び筑紫国造小考(大彦命系氏族の解析)|古墳時代史解題)。膳臣が越国造の可能性はありますが、古墳の規模から疑問ですね。越国造と継体天皇の関係を示す史料もありません。越国造が越前だったら関係ないはずがないのですが。いずれにせよ、大彦命系氏族と越前の関係を(偽書以外で)提示せずに、越国造を越前とすることは出来ません。

見出し画像はウィキペディア「柳田布尾山古墳」富山県氷見市柳田布尾山古墳。前方部斜めより名古屋太郎。

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