滋賀県立安土城考古博物館・安土城郭資料館訪問
5月16日近江旅③野洲市南部を巡った後(御上神社と三上山麓の古墳|古墳時代史解題/野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館)|古墳時代史解題)、滋賀県立安土城考古博物館(滋賀県近江八幡市)に行ってきました。時間の関係で安土城には行けてないのですが、(日本再統一の過程には関心がありますので)あの信長の城の博物館は(見れるなら)見とかなければなるまいという謎の使命感に駆られて(勢いだけ?)。安土駅からレンタサイクルで直行です。道はそうは迷わないと思いますが、博物館の敷地が広いですね。
勝瑞城館)阿波国(徳島県)を代表する中世城館。四国史をやるなら、外せない城でしょう。安土城は細川氏や三好氏といったそれまでの近畿の城をベースに集大成として築城されたと言い、四国ですが、三好氏の勝瑞城館も無関係ではないと思います。

飯盛城)織田信長に先行する「天下人」だった三好長慶の居城(大阪府四条畷市・大東市)。安土城の築城に際して、参考にされた前段階の城に位置づけられる。大東市は三好長慶公推しですね。元々木沢長政(誰?)の居城だったようで、(細川氏・三好氏に詳しい)「細川両家記」を読み解く(戎光祥出版/嶋中佳輝/2026/6/17)でも触れられています。


古墳を利用された築かれたかもしれない勝龍寺城。三好三人衆の拠点となり、細川藤孝が改修。瓦・石垣・天守を備え、安土城の原型になったとも。本能寺の変に際して、明智光秀が占領。

坂本城)明智光秀の居城として知られる。宣教師のルイス・フロイスには安土城に継ぐ天下第二の城と評価された(明智光秀は織田信長と似たタイプだったんだろうと思っています)。本能寺の変後に焼失し、丹羽長秀によって再建されたものの、廃城(遺構はほとんど残っていない)。

安土城)言わずと知れた織田信長最後の居城。近世城郭(織豊系城郭)の原型となり、本能寺の変後に焼失。人々の創造をかきたてる幻の名城(安土山図屏風がローマに渡ったとも言われますが、見つかっていません)。後継者である織田信忠邸、秀吉邸等、重臣の邸宅や徳川家康邸も内包していました(三英傑の邸宅が揃うのは当たり前ですが安土城だけ)。


浅井長政とお市の方)浅井三姉妹の長女が言わずと知れた(秀吉の側室として後継者を産んだとされる)淀殿(何故名護屋城だったのか(豊臣秀頼出生の秘密)|古墳時代史解題)。三女の江は徳川秀忠と三度目の結婚をし(正室)、その子に三代将軍の徳川家光や豊臣秀頼の正室の千姫がいます。最近は徳川家康は「有力大名の筆頭として豊臣秀頼を支える安定政権」を本気で模索していたという見方が主流になりつつありますが、私は当初は(秀吉が徳川家を乗っ取るつもりだったのを逆用して)豊臣家を乗っ取るつもりだったんじゃないかと思っていますが(豊臣家の後継者候補だった「徳川」秀忠|古墳時代史解題)。乱世は兎角戦争に注目が集まりますが、婚姻は滅茶苦茶情勢を左右していますよね。


信長の姿、信長のしるし)織田信長は美化されがちですが、お市の方の兄ですし、実際にイケメンの部類だったんでしょうね。信長の花押は様々な形に変化したようです。ここにはありませんが、家紋も様々なものを使っており、(成り上がりものらしく?)自分で権威を創り出そうとした姿勢が伺えますね(通説にモノ申して申し訳ありませんが、到底保守的な姿勢とは言えません)。古い権威を都合よく借り物として使いこなしながら、最終的にはそれを超える新しい権威を自ら生み出そうとした信長の足跡は、当時の常識を破るきわめて進取の気性に富んだものであったと言えます(そして光秀等の評価された重臣も似たタイプで、だからこそ独立性が高くよく裏切られたんじゃないかと思います)。

信長の金箔瓦は黒(漆)地に金(凹部)ですが、秀吉はより豪奢な金箔瓦(金地に黒(凹部))にしていますね。秀吉は信長の直臣だけあって、外臣の家康に比べて、乗り越えようとコンプレックスが目立つような気もします。

世界初の鉄甲船に関しては異論も有力視されているようですが、信長独特の(黒い)巨大な船を操る織田(九鬼)水軍が(瀬戸内の雄の)毛利水軍を破って、大阪湾の制海権を握ったのは疑いありません。戦争は高い所を占めた方が有利ですしね。火力(財力)で勝負するスタイルが功を奏したのでしょう。

六角氏の城「観音寺城」。安土城の近くの城ですが、近江南部は信長以前は六角氏のテリトリーでした。観音寺城は巨大な城だったようです。六角氏は宇多源氏の佐々木氏の流れを汲みますが、近隣には式内・沙沙貴神社(滋賀県近江八幡市安土町常楽寺)が残っています。この佐々木氏の源流はあの大彦命後裔の沙沙貴山君にあって、武埴安彦の領地の一部を大彦命が継承したと見られます。また沙沙貴神社は仁徳天皇(大鷦鷯尊)とも関係が深く、仁徳天皇の御名代部が雀部氏(さざきべ)(多氏流と「巨勢氏」流)でした。これは御陵(みささぎ)とも関係するかもしれません。仁徳天皇は難波宮で、大彦命系氏族は元々難波の渡来系氏族を統括していた(難波根子武振熊に交代した)と見られます。難波と近江は淀川を通じて繋がりますね。


越前(福井県)の朝倉氏の資料で、中世の城作りの教科書。具体的で細かいらしい。こういった資料は貴重ですね。城郭ファンの方は読んでいるんだろうか。

滋賀県立安土城考古博物館は以上ですが(ショップで図録を購入)、帰りに安土城郭資料館に寄っています。その姿は推定でしょうが、豪奢な城ですね。そして野洲市北部の兵主大社に向かい、守山市埋蔵文化財センターの講演へ。


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