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豊臣家の後継者候補だった「徳川」秀忠

なぜ「秀吉の天下」はあっけなく崩壊したのか…「秀長の早すぎる死」ではない、歴史学者がなぜか無視する最大原因(yahooニュース プレジデントオンライン)

>「豊臣の直轄地が225万石。そのときになんで徳川家康に250万石もの石高を誇る関東を任せちゃったのか。このあたりが僕にはいまだにどうしてもわからない」。(東京大学の本郷和人教授)

・・・一度小牧・長久手(1584年)で衝突していますよね(家康を倒せず)。1586年に家康は秀吉の実妹・朝日姫を迎えており、小田原征伐(1590年)に際しては、嫡男の長丸は豊臣家の人質になり、秀吉の養女(実父は織田信雄)を迎えて豊臣秀忠を名乗ったようです。その後、徳川家は関東に転封ですが、父祖の地を離れています(関東統治等に家康の手腕を買った可能性もあるようです)(>徳川家康の羽柴政権内での役割は「関東・奥惣無事」の状態にすることです。北条と同盟を結んでいた徳川は取次の役目でしたが、結果的に小田原合戦となり、その責任を負わされるかたちで関東へ移封となったわけですね・・・万寿王丸@trrn1615さんのコメント)。どうも秀吉は自分の後継者が心許なく、強大な「味方」を残してしまったこともあって、「徳川」秀忠を後継者候補に考えていたような気もします(1595年に追加で羽柴の名字も与えられる)。豊臣秀長は1591年に病死ですが、秀長の実子も早世していました。

これは唐入り(1592年~1593年/1597年~1598年)を考えていたこともあるかもしれません。少なくとも秀次事件(1595年)までは秀次に次ぐ地位だったように見え(秀頼は1593年に出生)、秀頼を後継者とした後は、秀頼に万一のことがあったら、秀忠が豊臣家を継ぐ位置づけだったのかもしれません。秀吉が実子か怪しい秀頼を可愛がったのも、他に実子(や後継者に成り得る父系が同じ親戚)がいなかったからなのでしょう(秀次・秀勝・秀保の三兄弟は秀吉の姉の子で秀吉にとって(父系が違う)「他人」という認識だった可能性もあると思います)。

家康の野心については、秀頼が夭折すること・器量が不足していること(結果平和的に「徳川家」(1603年の家康の征夷大将軍の就任時には秀忠は徳川姓に復していたらしい)の天下になること)を期待した可能性もあると思います。関ヶ原(1600年)に勝った後(豊臣恩顧の将が家康についたのも、秀頼の血筋の怪しさや夭折の可能性も念頭にあったのかもしれません)、大阪冬の陣(1614年)まで待ったのも、その辺だと思います(さすがに鳴くまで待とうと言われただけあります)。ただ、思うようにいかなかったので、結局、家康が自分の手で決着をつけて、徳川幕府が誕生したという流れではないでしょうか。

追記)万寿王丸@trrn1615さんから再度指摘があったので、回答しておきます。
①小牧長久手合戦前後に徳川家から人質(養子)に出された秀康の言及がないのは何故ですか?
A:徳川秀康が小牧・長久手の和睦条件として「人質」になり、羽柴秀康を名乗っています(1584年)。秀吉が豊臣を賜姓されたのが1585年、羽柴秀康が豊臣秀吉になったのが1588年。秀吉が後継者にと考えていたらしい(秀吉が後継者に位置づけていたらしい(織田信長の四男の)秀勝が死去したのが1585年(その後は秀次が後継者候補の筆頭だったようです)。(秀忠と入れ替わるように)羽柴秀康として結城家の家督を継いだのが1590年(これで秀康の順位はガクッと下がる)。秀吉による結城家の乗っ取りだったとも考えられます。秀吉としては、秀忠(長丸)という徳川家の「嫡男」を養子に取ることで、徳川家を乗っ取る算段があったのかもしれません。これは結果的に裏目に出たのであって、止む得ない諸刃の剣の措置ではあったんでしょうが。

②秀頼が秀吉の実子ではないとの言及は否定されており成立しません。
A:秀吉は実子だと認識していたかもしれませんが(少なくとも他家からの養子ではなかったのが大きかったかもしれません)、周囲は血の繋がりを十分疑える状況にあったと思います。
A2:何故名護屋城だったのか(豊臣秀頼出生の秘密)|古墳時代史解題

③徳川家康が天下泰平を成したという結果を分かっている現代人の認識から逆算した感想ではありませんか?
A:こう考えた方が歴史の疑問が解消し易いと考え、仮説を提唱したつもりです。元記事にもありますが(全て賛同する訳ではありませんが)、夭折の可能性を誰も考えなかったとは思えないのです。

2026年2月14日)秀吉の猶子には小早川秀秋や宇喜多秀家もいましたが、秀忠(長丸)は徳川家を継ぐ立場だったので、秀吉が優遇する理由はあったのかなと思います。徳川家が豊臣家に次ぐNo.2だというのは否定し難いかと。多分、現代人が思うより、賜姓(と縁組)は重要です。秀忠(徳川)は(少なくとも秀吉の生前は)豊臣の一門衆になっていたのではないでしょうか。

2026年2月18日)家康派というのは「豊臣秀忠派」でもあったことに注意が必要ではないかと考えています。勿論、秀頼を支えるという名目だったでしょうが、秀頼にもしものことがあったら、(特に前田利家の死後は)五大老筆頭の徳川(255万石余)の力を背景に秀忠が豊臣を相続する可能性が高いと皆が思っていたのではないでしょうか。秀頼と秀忠の娘の千姫の婚約も秀吉は決めていたことに注意が必要です。秀吉死後の豊臣家の実権を握っていたのは、「五大老・五奉行」ですよね。家康は秀吉の決めたシナリオに沿って見せたということです。

加藤清正と福島正則あたりも文治派と対立しており、親家康だと家康は計算していた気がします。豊臣(宇喜多)秀家(57万石)は石田サイド(西軍)に近かったと見られ、大阪に滞在していました。結果的に会津征伐軍は結束しており、そのまま東軍になっています。

毛利本隊は関ヶ原で家康に通じた吉川(豊臣)広家の制止で動けなかったみたいですね。家康が豊臣を仕切っていた構図は明らかと思います。広家と毛利勢は安濃津で西軍として奮戦しましたが、家康は広家が関ヶ原で東軍につくと見切っていて、結局その通りになったと思います。関ヶ原の合戦の動向は半ば以上広家の動きで決まったのではないでしょうか?

広家が幼君の秀頼を盛り立てるより、家康(及び秀忠)についた方が良いと考えていたのは明らかです。また西軍が勝った場合でも広家は安国寺恵瓊とそりが悪く、東軍が勝って領土が安堵された方が毛利家中で立場が良くなると考えていたのかもしれません。更に近くに陣取った小早川秀秋が東軍につくリスクを警戒していたとも考えられます。広家は豊臣でしたが、輝元に広家に豊臣を相続させるというような考えもなかったのでしょう。

見出し画像はウィキペディア「大阪城」復興天守(パブリックドメイン)


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