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耳あり芳一【第五話】祇園の鬼喰い⑦

──鐘の音、諸行無常の響きあり……


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第七章 芳一と女の運命



夜が、深く沈んでいた。

戻り橋の上に、静かに佇む芳一。顔に経を記したまま、じっと息を潜めていた。木魚もなければ、僧の声もない。ただ、墨の匂いと血の気の引いた空気が漂う。

「おや……」

声がした。甘やかな、それでいて底の見えない、ひとの女の声だった。

「ここは、まだ開いておらぬのね。門は……あちらか」

静かに歩いてくる気配。橋のたもとに、白無垢のような衣がふわりと揺れて、女が現れた。

「あなた、待ってたのかしら?」

墨染めの衣をまとった男――和尚は、顔を伏せたまま応える。

(……清閑寺の桜の下、百の鬼を喰らった女か)

「清閑寺の女よ、地獄の門を開けてどうする?」

「ふふ。そんな呼び方、くすぐったいわ。……地獄へ行くのよ」

女はにこりと笑う。夜の桜のような、仄白いその顔に、影はなかった。ただ、深く澄んだ瞳だけが、すべてを映していた。

「地獄へ向かうと申したな」

「ええ。忘れてしまったものを、取り戻すために」

女は手を胸元に添えた。

「私の記憶は、どこかに落ちてしまったの。……地獄の底にね。だから、門を開かなくては」

「ならぬ」

和尚は静かに答えた。その声音は優しく、だが確かに、断ち切る刃のように響いた。

「地獄の門が開けば、裁きの鬼どもが現れる。神仏に近いその鬼たちは、怨霊も人も分け隔てなく地獄へと連れ去ろう。――たとえそなたの望みが記憶であろうと、許すわけにはゆかぬ」

女は小さく笑った。

「……だめなの?」

「……だめだ」

それきり、沈黙が落ちた。

ただ、芳一の耳にだけ、二人の気配が激しく交差してゆくのを感じていた。風の軋みと、衣の揺れと、言葉にはならぬ想いのぶつかり合いが、闇に紛れて広がってゆく。

すると――

女の声が、芳一の方へと向いた。

「そこに、いるのね。琵琶法師。あなたの声が聞こえるわ」

芳一は、ゆっくりと頷いた。

「ここに……おります」

「姿は見えないのね。不思議。でも、あなたの琵琶は……懐かしい音がしそう。ねえ、奏でて」

芳一の指が、そっと琵琶の弦に触れた。

ぽろ……ん

闇の中に、一音だけが落ちた。

女は、静かに目を細めた。

「……そう、それ。……それを聞いていると、何かが蘇りそう。だから……お願い。姿を、見せて?」

和尚の声が鋭く割り込む。

「ならぬぞ、芳一!」

女はなおも、やわらかな声で囁いた。

「記憶が……戻りそうなの。ねえ、お願い……姿を見せて」

芳一の手が止まる。だが、心は揺れていた。

(この声に……この想いに、応えてはならぬ。されど、なぜだろう。……どこかで、この声を……懐かしいと、思ってしまう)

「芳一?」

女が呼んだ。まるで、母が子に名を授けるような声で。

「姿を見せれば、お前の記憶も蘇ろう。耳を取られる夢を見るであろう……ふふ。怖くはないわ」

「ならぬぞ芳一!!」

和尚の声が、怒気を含んで響いた。

だが――

芳一は、わずかに衣の袖を顔にあてがい、
経文を……
拭ってしまった。

「芳一ッ!!」

和尚が叫ぶ。
女は、笑った。

「よいよい――」

そして、

芳一の身体が、闇に呑まれていった。




視界が……あった。

芳一は驚いた。

見えている――この闇の中で、見えているのだ。

そこに、女がいた。

白く、柔らかな装束を纏い、夜の水面のように静かに座していた。周囲に何もなく、ただ二人の影だけが、仄暗い空間に浮かんでいる。

「……見えるのですか」

芳一が問う。

女は微笑んだ。

「ここでは、見えるはず。お前も、私も。……ここは、この世とあの世のあいだ。名もなき“地”の底」

芳一は唇を結び、問い返す。

「……あなたは、何者なのですか」

女は、どこか寂しげに目を伏せた。

「芳一よ。……お前と私は、運命を曲げられたようね」

「運命を……?」

「そう。となりにいる、あの人知を超えた和尚に」

芳一の胸に、何かが静かに刺さる。

「なにを、仰っておられるのですか」

女は、遠い昔を思うように語る。

「本来なら……お前は耳を取られ、私は耳をとり、平家物語とともに記憶を戻して、成仏するはずだったのよ」

「……私の耳が、欲しいのですか」

女は首を横に振った。

「ふふ……必要ない。もういいの。……だって、あなたはここまで来た。……語って、芳一。最後まで」

芳一は、静かに琵琶を抱え直す。

「わかりました。……私は、語りましょう」

女は目を閉じ、すっと座を正した。

「……さすれば、私の記憶は戻る。私は、その平家物語で語られるもの。……語りなさい、芳一」

芳一は琵琶の弦に手をかけ、低く、祈るような声で語り始めた。

べん!

祇園精舎の鐘の声

べべん!

諸行無常の響きあり……

その響きが、やがて闇を揺らし、光となって――




その頃、祇園。

町の外の闇を祓い、ミヨたちは町中へと足を踏み入れていた。

通りに人影はない。灯された提灯の火は、不自然に揺れもせず、風の匂いさえなかった。

「ここは……まるで、死んだ町じゃ……」

角一がつぶやいたとき、

ぎぃ……

蓮屋の前の茶屋。その格子戸が軋みながら開き、中からぬうっと現れた影――

包丁を持った女。血に濡れた衣の腹部には、複数の鬼の顔が、瘤のように浮き出ていた。

将門が低く唸る。

『鬼を喰う鬼か』

そのとき、背後からも複数の気配。

角一「挟まれたか……彦七、ここが正念場ぞ!」

彦七「おう! まかせい!」

将門は振り返り、静かに言い放った。

『お主ら、後方をしばし頼むぞ』

そして、風のように前へと駆けた。

タタ――

仕込み杖を抜けば、刃が燃え立つように赤く輝く。

ズバ!

ボワッ!

鬼女は両断され、燃え上がった。

後方では、鬼がうごめいている。彦七が片腕を負傷、角一がそれを庇いながら奮闘している。

将門、さらに駆ける。

タタタタタタ――

一体の鬼が将門に気づいた瞬間、その赤い刃が喉を裂き、呻く間もなく炎に包まれていた。

ズバッ!

ボワッ!

ズバッ!

ボワッ!


鬼たちは次々に炎とともに断たれ、町中が赤い焔に照らされていく。

『ミヨ、頃合である。巫女の舞を、舞え』

ミヨが頷いた。
蓮屋の前の大通り――
彼女は、入り口に飾られていた月桂樹の飾りをそっと手に取ると、静かに両手を広げ、舞い始めた。

音が消える。

怨が消える。

通りがまるで社の中のように澄み渡り、やがて―
ミヨの身体が、光を帯びる。

角一「なんと……神々しい……」

彦七「これが……巫女の舞……か」

光は柔らかく広がり、町全体を包み込んでいく。
鬼たちは悲鳴も上げられぬまま、消え、

祇園の町が――
鬼の気配も声も消え、
光のしじまに、静かに還っていった。



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