耳あり芳一【第五話】祇園の鬼喰い⑦
──鐘の音、諸行無常の響きあり……
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第七章 芳一と女の運命
◇
夜が、深く沈んでいた。
戻り橋の上に、静かに佇む芳一。顔に経を記したまま、じっと息を潜めていた。木魚もなければ、僧の声もない。ただ、墨の匂いと血の気の引いた空気が漂う。
「おや……」
声がした。甘やかな、それでいて底の見えない、ひとの女の声だった。
「ここは、まだ開いておらぬのね。門は……あちらか」
静かに歩いてくる気配。橋のたもとに、白無垢のような衣がふわりと揺れて、女が現れた。
「あなた、待ってたのかしら?」
墨染めの衣をまとった男――和尚は、顔を伏せたまま応える。
(……清閑寺の桜の下、百の鬼を喰らった女か)
「清閑寺の女よ、地獄の門を開けてどうする?」
「ふふ。そんな呼び方、くすぐったいわ。……地獄へ行くのよ」
女はにこりと笑う。夜の桜のような、仄白いその顔に、影はなかった。ただ、深く澄んだ瞳だけが、すべてを映していた。
「地獄へ向かうと申したな」
「ええ。忘れてしまったものを、取り戻すために」
女は手を胸元に添えた。
「私の記憶は、どこかに落ちてしまったの。……地獄の底にね。だから、門を開かなくては」
「ならぬ」
和尚は静かに答えた。その声音は優しく、だが確かに、断ち切る刃のように響いた。
「地獄の門が開けば、裁きの鬼どもが現れる。神仏に近いその鬼たちは、怨霊も人も分け隔てなく地獄へと連れ去ろう。――たとえそなたの望みが記憶であろうと、許すわけにはゆかぬ」
女は小さく笑った。
「……だめなの?」
「……だめだ」
それきり、沈黙が落ちた。
ただ、芳一の耳にだけ、二人の気配が激しく交差してゆくのを感じていた。風の軋みと、衣の揺れと、言葉にはならぬ想いのぶつかり合いが、闇に紛れて広がってゆく。
すると――
女の声が、芳一の方へと向いた。
「そこに、いるのね。琵琶法師。あなたの声が聞こえるわ」
芳一は、ゆっくりと頷いた。
「ここに……おります」
「姿は見えないのね。不思議。でも、あなたの琵琶は……懐かしい音がしそう。ねえ、奏でて」
芳一の指が、そっと琵琶の弦に触れた。
ぽろ……ん
闇の中に、一音だけが落ちた。
女は、静かに目を細めた。
「……そう、それ。……それを聞いていると、何かが蘇りそう。だから……お願い。姿を、見せて?」
和尚の声が鋭く割り込む。
「ならぬぞ、芳一!」
女はなおも、やわらかな声で囁いた。
「記憶が……戻りそうなの。ねえ、お願い……姿を見せて」
芳一の手が止まる。だが、心は揺れていた。
(この声に……この想いに、応えてはならぬ。されど、なぜだろう。……どこかで、この声を……懐かしいと、思ってしまう)
「芳一?」
女が呼んだ。まるで、母が子に名を授けるような声で。
「姿を見せれば、お前の記憶も蘇ろう。耳を取られる夢を見るであろう……ふふ。怖くはないわ」
「ならぬぞ芳一!!」
和尚の声が、怒気を含んで響いた。
だが――
芳一は、わずかに衣の袖を顔にあてがい、
経文を……
拭ってしまった。
「芳一ッ!!」
和尚が叫ぶ。
女は、笑った。
「よいよい――」
そして、
芳一の身体が、闇に呑まれていった。
◇
視界が……あった。
芳一は驚いた。
見えている――この闇の中で、見えているのだ。
そこに、女がいた。
白く、柔らかな装束を纏い、夜の水面のように静かに座していた。周囲に何もなく、ただ二人の影だけが、仄暗い空間に浮かんでいる。
「……見えるのですか」
芳一が問う。
女は微笑んだ。
「ここでは、見えるはず。お前も、私も。……ここは、この世とあの世のあいだ。名もなき“地”の底」
芳一は唇を結び、問い返す。
「……あなたは、何者なのですか」
女は、どこか寂しげに目を伏せた。
「芳一よ。……お前と私は、運命を曲げられたようね」
「運命を……?」
「そう。となりにいる、あの人知を超えた和尚に」
芳一の胸に、何かが静かに刺さる。
「なにを、仰っておられるのですか」
女は、遠い昔を思うように語る。
「本来なら……お前は耳を取られ、私は耳をとり、平家物語とともに記憶を戻して、成仏するはずだったのよ」
「……私の耳が、欲しいのですか」
女は首を横に振った。
「ふふ……必要ない。もういいの。……だって、あなたはここまで来た。……語って、芳一。最後まで」
芳一は、静かに琵琶を抱え直す。
「わかりました。……私は、語りましょう」
女は目を閉じ、すっと座を正した。
「……さすれば、私の記憶は戻る。私は、その平家物語で語られるもの。……語りなさい、芳一」
芳一は琵琶の弦に手をかけ、低く、祈るような声で語り始めた。
べん!
祇園精舎の鐘の声
べべん!
諸行無常の響きあり……
その響きが、やがて闇を揺らし、光となって――
◇
その頃、祇園。
町の外の闇を祓い、ミヨたちは町中へと足を踏み入れていた。
通りに人影はない。灯された提灯の火は、不自然に揺れもせず、風の匂いさえなかった。
「ここは……まるで、死んだ町じゃ……」
角一がつぶやいたとき、
ぎぃ……
蓮屋の前の茶屋。その格子戸が軋みながら開き、中からぬうっと現れた影――
包丁を持った女。血に濡れた衣の腹部には、複数の鬼の顔が、瘤のように浮き出ていた。
将門が低く唸る。
『鬼を喰う鬼か』
そのとき、背後からも複数の気配。
角一「挟まれたか……彦七、ここが正念場ぞ!」
彦七「おう! まかせい!」
将門は振り返り、静かに言い放った。
『お主ら、後方をしばし頼むぞ』
そして、風のように前へと駆けた。
タタ――
仕込み杖を抜けば、刃が燃え立つように赤く輝く。
ズバ!
ボワッ!
鬼女は両断され、燃え上がった。
後方では、鬼がうごめいている。彦七が片腕を負傷、角一がそれを庇いながら奮闘している。
将門、さらに駆ける。
タタタタタタ――
一体の鬼が将門に気づいた瞬間、その赤い刃が喉を裂き、呻く間もなく炎に包まれていた。
ズバッ!
ボワッ!
ズバッ!
ボワッ!
鬼たちは次々に炎とともに断たれ、町中が赤い焔に照らされていく。
『ミヨ、頃合である。巫女の舞を、舞え』
ミヨが頷いた。
蓮屋の前の大通り――
彼女は、入り口に飾られていた月桂樹の飾りをそっと手に取ると、静かに両手を広げ、舞い始めた。
音が消える。
怨が消える。
通りがまるで社の中のように澄み渡り、やがて―
ミヨの身体が、光を帯びる。
角一「なんと……神々しい……」
彦七「これが……巫女の舞……か」
光は柔らかく広がり、町全体を包み込んでいく。
鬼たちは悲鳴も上げられぬまま、消え、
祇園の町が――
鬼の気配も声も消え、
光のしじまに、静かに還っていった。
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