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耳あり芳一【第五話】祇園の鬼喰い⑥

──鐘の音、諸行無常の響きあり……


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第六章 剣と面と、地獄の門




風が冷たくなってきた。夏の終わりとも、夜の深まりとも違う、地の底から這い上がるような冷気だった。ミヨはその風を正面から受け、祇園へと続く道を走っていた。その後ろに、角一と彦七が続く。

「……まことに、よいのか、ミヨ殿……!」

彦七が問いかけても、ミヨは振り返らない。返事の代わりに、仕込み杖を抱える手に力を込める。ミヨが願い出たのだ。祇園の鬼を祓う、と。和尚は一瞬目を閉じ、そして静かに頷いた。墨染の衣の袖から取り出されたのは、一本の仕込み杖と、古びた般若の面だった。

「これらには、平将門の魂の欠片が宿っている。巫女であるおぬしには、その力が宿りやすい。……それゆえ、使いこなせ。」

そして和尚は続けた。「だが、清閑寺の女には、いかなる力も通じぬ。あれは……違う。」

その言葉の意味は、誰にも分からなかった。ただ、和尚の声にこもる重さだけが、胸に残った。

「お役目……お役目を果たしたく存じます!」

角一がそう叫んだ。「助けられた恩、我らにも果たさせていただきとうございます!」

その言葉に、和尚はひとつ頷いたが、次の瞬間、少しだけ険しい目を向けた。

「お主たち……大丈夫か。無理をすれば、喰われるぞ」

角一は額に汗を浮かべ、拳を握りしめた。

「……心得ております。ですが、今ここで退けば、一生後悔いたしましょう」

その横で、彦七も深く頷いた。二人は武蔵国の下知役、名のある役人だが、若き頃には剣の修行も積んでいたという。角一の手には打刀があり、彦七は短槍を背負っている。だが、二人とも気づいていた。いま祇園に巣くう鬼どもは、尋常の力では祓えぬことを。

道が開けたそのとき、角一が息を呑んだ。「……あそこに、鬼が!」

街道の脇に、ふらつく影があった。人のようで、人でない。泥のように歪んだ身体。ぎらつく目。呻くような、食いしばるような声だけが漏れている。

角一が刀を抜き、前に出た。「ぬかせるかよ……!」声と同時に斬りかかるが、鬼は躱した。まるで重力の法則など知らぬような跳躍で、木の上へ逃げる。その動きに、角一は面食らった。

「……こやつ、尋常でないぞ!」

そのときだった。ミヨが足を止め、頭に般若の面を装着した。ピタリと風が止まる。彼女の背から気配が変わった。

『わしに、任せい。』

枯れた、深い声が、面から漏れた。

将門の声が響くと同時に、ミヨの足が地を蹴った。風もなく、音もない。ただ、目に映ったその姿は、まさに霞のようだった。木の枝に潜んでいた鬼は、それに気づく間もなく、その首を跳ね飛ばされた。

ドン、と何か重たいものが落ちるような音がして、胴体だけの鬼が地に崩れた。首はすでにない。角一も彦七も、しばし言葉を失った。

「……お見事。」

彦七がそう呟いた刹那、別の方向から、また異様な呻き声が上がった。地を這うような、胸の奥を爪で引っかかれるような音。

「……まだ来る。」

角一が歯を食いしばる。林の奥、そして祇園の方角。祇園は、まだ遠いはずだった。だが、そこから湧き出すように、鬼たちの影が立ち上がってきている。

将門の声が再び響く。
『腐りかけた地に、怨が満ちた。あの女が、鬼を喰うゆえに。怨みを残した魂が惹かれよる。』

ミヨの仕込み杖が再び空を裂く。まるで刃ではなく、祓いの風そのものであるかのように。切られた鬼たちは声も出せずに崩れ落ちた。

『巫女が舞い、魂が宿れば、我が剣もまた踊る。まだ先は長いぞ。』

角一と彦七が互いにうなずき、武器を構え直す。鬼たちは止まらない。怨の波が祇園から逆流してくるかのように、影が揺れ、呻きが空に滲みはじめていた。

「退けえい──!」

角一の声とともに、鬼の腕を切り払う音が響く。だが、切られてなお呻くその影は、怨を帯びてなお蠢いていた。人の形を保っていながら、人でない。もはや憐れみも通じぬ獣のよう。

彦七が後ろから槍を突き入れ、なんとか止めを刺す。斬っても斬っても現れる。道の先、石畳の陰、朽ちた塀の裏。あちらこちらから、祇園に向かって流れ出すかのように、鬼の気配が湧いていた。

「このままでは──」

角一が呻いたとき、ミヨの仕込み杖が再び振るわれた。しなやかな身体が風のように旋回し、鬼の一体が背後から両断される。

般若の面の奥から、将門の低く渋い声が響いた。

『よいか。斬ることが祓いではない。鬼の源にある“怨”を絶たねば、いくらでも湧いて出よるぞ。いずれ、この地すべてが喰われる。』

その声に、誰も返せぬ。返す言葉がないのではない。ただ、その重みが全てを飲み込むからだった。



そのころ、戻り橋。

芳一は膝をつき、黙して座していた。その背に、和尚が筆を走らせている。墨は滲まず、風も止まっている。静かな空の下、ただ、経の音だけが響く。

「お主はまだ未熟。あの女に触れれば、魂まで呑まれる。動くでないぞ。」

そう言い置き、和尚は芳一の耳にまで経文を記していく。和尚の筆が震えることはない。木魚の音が鳴ることもない。ただ、僧としての祈りと覚悟が、墨となって流れていく。



墨の匂いが夜風に溶け、静寂の中に沁みてゆく。
芳一はただ、じっと座していた。背を正し、琵琶を胸に抱いたまま。

風が、袖を揺らす。

どこかで、何かが始まろうとしている──そんな気がしていた。深く考えたわけではない。ただ、そうであるように思えたのだ。

なぜ自分が、ここに残っているのか。

言葉にはできぬ。けれど、何かが訪れる。その気配だけが、胸の奥に滲んでいた。

琵琶の木肌が、ほんのりと温かい。
握る手に、力が入る。
音もなく、夜が深まっていく。



半刻ほどが過ぎ、和尚は筆を止めた。

「……これでよい。」

そう告げたそのときだった。

ぐぉぉぉん──

音が、鳴った。鐘の音。低く、重く、空を裂くように。

それは耳ではなく、胸に響いた。骨を揺らし、心を掴み、魂にまで染み渡るような音。

芳一が顔を上げた。そこに、風が吹いた。

夜の風。湿った、古い香のような風。そして、その風の中に、女が立っていた。

黒髪がゆるやかに揺れている。白い足袋のような肌が、闇に浮かんでいる。目は見えぬはずの芳一にも、その気配ははっきりとわかった。

清閑寺の女──。

彼女は、笑っていた。どこか哀しげに、それでいて妖しく、静かに。



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