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耳あり芳一【第五話】祇園の鬼喰い⑧

──鐘の音、諸行無常の響きあり……


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第八章 地獄へ




琵琶の音が、ふと、止んだ。

静寂が闇に沁み入る。
ただ風だけが、誰かの呼吸のように吹き過ぎる。
その闇の中、芳一はそっと口を開いた。

「……これで、満たされましたか」

返事はなかった。だが、かすかな水音がした。
それは、涙の音だった。女の頬を伝う、熱い雫の音。

「……これで、やっと、終わる……」

嗚咽とも溜息ともつかぬ声で、女がそう呟いた。
そして、低く震える声で続けた。

「……けれど、わたしは……地獄へ行かねばなりません」

その言葉の直後、闇がふわりと開かれた。
夜の帳が裂けるように、芳一と女の姿が、地上に現れる。

見つめる先に、和尚が立っていた。

女は、ゆっくりと顔を上げる。

「……迎えは、いりません。わたしはもう、思い出しました。
記憶が戻った今なら――門を開けられる」

和尚の目が細くなる。

「……なぜ、そこまでして地獄へ行く。
成仏を選ぶ道もあったであろう」

女は微笑んだ。悲しげで、けれど確かな決意の籠もった笑みだった。

「……成仏はもう、できません。
わたしの魂はあまりに多くの声を喰らい、穢れすぎた。
放っておいても、いずれ門は開きます。ならば、せめて自分で」

一歩、女が前へ進んだ。
背後には、ひび割れた虚空があった。
どこまでも深く、黒く、底知れぬ闇。

「……あの世の底で、平家の家臣たちが、わたしを待っているのよ。
……ならば、行かなくてはね」

空気が一変する。
地を這うような重低音とともに、虚空の門がひらいた。

ごうっ……

――灼ける風。咆哮する闇。

焼け焦げた血と骨の臭いを孕んだ風が、和尚と芳一の衣をはためかせる。

女は、最後に振り返り、芳一にだけ微笑みかける。

「……ありがとう、芳一。
あなたの語りが、わたしを……わたしに戻してくれた」

そのまま、両手を広げ、身を投げるように闇へと飛び込んだ。

ずん、と。

虚空が脈打つように揺れた後、門は、音もなく閉じた。

あたりには、闇も熱も残らなかった。
ただ、静けさだけが、凪のように漂っていた。



やがて夜が明けた。

深く染まっていた空の闇が少しずつほどけてゆき、
戻り橋のたもとには、淡い光が差し込んでいた。

その橋の中央に、一人の少年が立ち尽くしていた。
琵琶を両腕に抱きしめ、ただ、じっと空を見上げている。
見えているわけではない。
だが、そこにまだ、何かの気配が残っているような気がしていた。

足音が、背後から近づいた。

「……耳は、取られてなどおらぬか」

振り返らずに、芳一は答えた。

「……いいえ。
声も、琵琶も、ちゃんと届きました」

和尚がゆっくりと傍らに立ち、彼の肩に静かに手を置く。

「そうか。
……芳一よ、あの女――魂の欠片を、その琵琶に残していったようだな。
名を、言うておったか?」

芳一は、しばし沈黙し、ぽつりと呟く。

「……きよもり、とだけ」

和尚の眼差しがわずかに揺れた。

「きよもり、か……。
平清盛本人か、それとも、清盛の妻や母か……
いずれにせよ、そやつは、やがて力になってくれよう」

芳一は少し俯いて、口を噤んだ。
そして、ゆっくりと、言葉を継いだ。

「……和尚様。
その、きよもりが――
和尚様は、人知を超えていると……そう、言っていました」

すると和尚は、ほんの少し笑みを浮かべ、首を横に振る。

「仏に仕える身よ。
人知など、超えておらぬ。
……芳一の琵琶の音が、あやつに幻を見せたのであろう」

夜が、完全に明けきった。
風が吹く。琵琶の弦が、微かに揺れる。

 ぽろん

その音は、どこか――彼女の声に似ていた。



――耳あり芳一 完。



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