耳あり芳一【第五話】祇園の鬼喰い⑧
──鐘の音、諸行無常の響きあり……
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第八章 地獄へ
◇
琵琶の音が、ふと、止んだ。
静寂が闇に沁み入る。
ただ風だけが、誰かの呼吸のように吹き過ぎる。
その闇の中、芳一はそっと口を開いた。
「……これで、満たされましたか」
返事はなかった。だが、かすかな水音がした。
それは、涙の音だった。女の頬を伝う、熱い雫の音。
「……これで、やっと、終わる……」
嗚咽とも溜息ともつかぬ声で、女がそう呟いた。
そして、低く震える声で続けた。
「……けれど、わたしは……地獄へ行かねばなりません」
その言葉の直後、闇がふわりと開かれた。
夜の帳が裂けるように、芳一と女の姿が、地上に現れる。
見つめる先に、和尚が立っていた。
女は、ゆっくりと顔を上げる。
「……迎えは、いりません。わたしはもう、思い出しました。
記憶が戻った今なら――門を開けられる」
和尚の目が細くなる。
「……なぜ、そこまでして地獄へ行く。
成仏を選ぶ道もあったであろう」
女は微笑んだ。悲しげで、けれど確かな決意の籠もった笑みだった。
「……成仏はもう、できません。
わたしの魂はあまりに多くの声を喰らい、穢れすぎた。
放っておいても、いずれ門は開きます。ならば、せめて自分で」
一歩、女が前へ進んだ。
背後には、ひび割れた虚空があった。
どこまでも深く、黒く、底知れぬ闇。
「……あの世の底で、平家の家臣たちが、わたしを待っているのよ。
……ならば、行かなくてはね」
空気が一変する。
地を這うような重低音とともに、虚空の門がひらいた。
ごうっ……
――灼ける風。咆哮する闇。
焼け焦げた血と骨の臭いを孕んだ風が、和尚と芳一の衣をはためかせる。
女は、最後に振り返り、芳一にだけ微笑みかける。
「……ありがとう、芳一。
あなたの語りが、わたしを……わたしに戻してくれた」
そのまま、両手を広げ、身を投げるように闇へと飛び込んだ。
ずん、と。
虚空が脈打つように揺れた後、門は、音もなく閉じた。
あたりには、闇も熱も残らなかった。
ただ、静けさだけが、凪のように漂っていた。
◇
やがて夜が明けた。
深く染まっていた空の闇が少しずつほどけてゆき、
戻り橋のたもとには、淡い光が差し込んでいた。
その橋の中央に、一人の少年が立ち尽くしていた。
琵琶を両腕に抱きしめ、ただ、じっと空を見上げている。
見えているわけではない。
だが、そこにまだ、何かの気配が残っているような気がしていた。
足音が、背後から近づいた。
「……耳は、取られてなどおらぬか」
振り返らずに、芳一は答えた。
「……いいえ。
声も、琵琶も、ちゃんと届きました」
和尚がゆっくりと傍らに立ち、彼の肩に静かに手を置く。
「そうか。
……芳一よ、あの女――魂の欠片を、その琵琶に残していったようだな。
名を、言うておったか?」
芳一は、しばし沈黙し、ぽつりと呟く。
「……きよもり、とだけ」
和尚の眼差しがわずかに揺れた。
「きよもり、か……。
平清盛本人か、それとも、清盛の妻や母か……
いずれにせよ、そやつは、やがて力になってくれよう」
芳一は少し俯いて、口を噤んだ。
そして、ゆっくりと、言葉を継いだ。
「……和尚様。
その、きよもりが――
和尚様は、人知を超えていると……そう、言っていました」
すると和尚は、ほんの少し笑みを浮かべ、首を横に振る。
「仏に仕える身よ。
人知など、超えておらぬ。
……芳一の琵琶の音が、あやつに幻を見せたのであろう」
夜が、完全に明けきった。
風が吹く。琵琶の弦が、微かに揺れる。
ぽろん
その音は、どこか――彼女の声に似ていた。
――耳あり芳一 完。
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