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耳あり芳一【第一話】百本の矢②

鬼、あらわる──


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◇ 第四章「曼珠沙華と影の声」


 声は、風の中から確かに響いた。

 ──「悔しいか」

 俵平は、もう一度あたりを見回した。星明かりの下、田の面は鏡のように静かで、揺れるものはなにもない。ただ、自分の胸の奥だけがざわついていた。

 「……だれだ」

 俵平の声が、水面に落ちた雫のように、闇に吸い込まれた。

 ──「名など要らぬ。ただ、おまえの心を知りたい」

 その声は、ひどく柔らかく、そして底冷えするような深さを持っていた。言葉が、耳ではなく、頭の奥へと直接流れ込んでくる。俵平は後ずさった。だが、逃げる足は地面に縫い付けられたように動かない。

 「……悔しいさ。あの人が、小雪が……」

 気づけば、心の底にしまっていた本音が口をついていた。

 「小雪は、俺の春だった。なのに……奪われた。米も、田も、ぜんぶ……」

 その言葉に呼応するように、田の端に咲く曼珠沙華まんじゅしゃげがざわめいた。風は止んでいたのに、花だけがゆらりと揺れた。

 ──「ならば、おまえに力をやろう。怨みを晴らす力を」

 赤い花の中心に、ぼんやりと人影が立ち現れた。赤銅の鎧、焼けただれた顔、どろどろに崩れた目。だが、その口元だけが、にやりと笑っていた。

 「壇ノ浦の海底で朽ち果てた我らの、怒りを知るがいい……」

 俵平は、立ちすくんだまま、目の前の影を見つめた。

 「おまえは、誰だ……」

 ──「名など要らぬ。怨霊の名に、意味はない。ただ……鬼となれ」

 そのとき、俵平の足元から冷たい何かが這い上がった。泥ではない。水でもない。もっと粘ついた、どす黒い何か──。

 俵平は叫びたかった。だが声は出なかった。目を見開いたまま、膝から崩れ落ちた。

 田の面は、何事もなかったかのように静かだった。



 翌朝。

 小作人たちが田に出ると、畦に咲いていた曼珠沙華が、根こそぎ枯れていた。

◇ 第五章「田介の死と俵平の怒り」


 田介の死は、あまりにも静かだった。

 朝、稲刈りの準備で納屋に入った俵平が最初に見たのは、無造作に横たわる父の背だった。藁の上に倒れ、手には鎌を握ったまま、眠るように──いや、眠ったまま目を覚まさない姿だった。

 「父……?」

 近づいて声をかける。返事はない。

 指先に触れると、ひどく冷たかった。俵平は、わらに膝をついた。叫ぶでもなく、泣くでもなく、ただ、父の名を何度も、何度も口にした。



 田介はもともと身体が強くなく、最近は毎夜のように稲の様子を見に行っていたという。

 ──だが、俵平は知っている。

 父は毎夜、作蔵側の人足に呼び出され、こき使われていた。ことに、平蔵の監督が厳しく、昼夜問わず畔の補修や運搬作業を命じられていたのだ。少しでも休めば怒鳴られ、仕事を終えればさらに次の命令が降る。老いた身体に、それはあまりに過酷だった。

 それでも父は黙っていた。

 ──「生きてさえいれば、田は戻る。小雪も、きっと幸せになる」

 その言葉が、俵平の胸の奥に、鈍く刺さっていた。



 田介の葬儀は、簡素だった。村の者たちが香を焚き、藁でくるんだ父の遺体を静かに焼いた。小雪は隣に立ち、そっと手を合わせていた。

 俵平は、ただ黙ってその炎を見ていた。

 (火が、あんなにも静かに、父を連れていく)

 その時、背後から聞こえた声が、俵平の心を裂いた。

 「人は老いて死ぬ。仕方のないことだ」

 平蔵だった。

 平蔵は、背を組んだまま、火の粉ひとつ浴びようともせず、冷たい眼差しで立っていた。

 「だが安心しろ。田の仕事は、これからは俺が決める。小雪を嫁に迎えたからな。これもまた“仕方のないこと”だ」

 俵平は、何も言えなかった。

 平蔵の言葉は、何よりも炎よりも熱く、刺すように胸を焼いた。

 燃え上がる火のなか、父の骨が崩れ落ちるのを見ながら、俵平の唇は震えていた。

 涙は流れなかった。

 だが、その夜、俵平は夢の中で、声を聞いた。

 ──「鬼となれ。今こそ……時が来た」

◇ 第六章「百手の夜、魂の解き放ち」


 百手の夜が来た。

 年に一度、村の男たちが矢を射ち、悪しきものを祓うとされる古い祭事である。壇ノ浦に沈んだ亡霊どもが、この地の神域にまで彷徨さまよって来ぬよう、百の矢を以て結界を張る。そう伝わっていた。

 この日ばかりは、田吾作集落も作蔵集落も、互いに矢を携え、神木のもとへ集う。

 ──だが、今年は違っていた。

 祭壇さいだんの前に立つのは、平蔵だった。

 「今日をもって、百手の儀は作蔵集落が執り行う。かつて田吾作が担っていた役目も、時代の移り変わりというものだ。文句はあるまいな?」

 誰も何も言えなかった。

 田吾作の名は、もはや古びた木札のように扱われた。



 俵平は、その輪から離れていた。

 夜風が吹き抜ける草むらのなか、ひとり跪いていた。

 (父上……俺は……なにも、守れなかった)

 そのときだ。

 どこか遠く、耳元とは思えぬほど静かな、しかし鋭い声が聞こえた。

 ──「矢は百、怒りは千。おまえの手で、放つがよい」

 風が止んだ。虫も鳴かぬ夜に、ざわりと竹林が揺れた。

 (誰だ……)

 だが、答えはなかった。ただ、俵平の右手が勝手に動いた。目を凝らせば、地面に半ば埋もれた一本の矢が見えた。

 それは黒ずんだ羽を持ち、何かの血で染められているかのようだった。

 気がつけば、俵平のまわりには、九十九本の矢が、音もなく並んでいた。

 ──百の矢。

 その一本一本が、叫んでいた。

 「放て」「放て」「放て」

 目を閉じた。

 そして、俵平は矢をつがえず、そのまま手にしたすべての矢を、虚空へ投げ放った。

 それは、まるで風に吸い込まれるように、夜空へと消えていった。

 その瞬間。

 地の底が割れたような声が、天へと轟いた。

 「平家は滅せず──我ここにあり!」

 俵平の頭に、角が生えた。

 皮膚が裂け、骨が歪み、顔が崩れていく。視界が赤に染まり、鼓膜が裂けんばかりの怒号が響く。

 痛みはなかった。あるのは、怒りだけだった。

 鬼が生まれた夜だった。


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