耳あり芳一【第一話】百本の矢①
鬼、あらわる──
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◇ 第一章「澄み渡る空と稲の香」
──その村は、山の影と海の音のあいだにあった。
潮の匂いは風に乗って山を越え、田に満ち、そこに生きる者の肌にやさしく染みこんでいた。初夏、田植えを終えたばかりの田吾作の集落では、空の青と水面の光が重なり、あぜ道には小さな花が咲いていた。朝露を浴びて羽をひろげるトンボの群れが、太陽を跳ね返すように飛び立つ。
俵平はまだ若かったが、鍬を振るう腕には年季が入っていた。父・田介とともに毎朝欠かさず田に入り、畔を踏みならし、苗を見つめては稲の機嫌を探った。小作人の家に生まれた者として、それは当たり前の暮らしであり、夢など見ぬままに年を重ねていた。
だが一つだけ、彼の胸に宿っているものがあった。
──小雪である。
田吾作の一人娘。山の端に雪が残る頃に生まれたという名の通り、肌は白く、声は澄み、村の男たちが一目おけば皆すぐに目を伏せた。俵平もその一人だった。ただ、ほかの誰よりも、彼は近くにいた。
彼女は朝、母の跡を継ぎ、集落の小さな祠に花を供えるのが日課だった。俵平は、彼女が手にする野花の香りを知っていた。踏む草の音を耳で追い、畑に届ける弁当包みの中身を遠くから想像していた。
口に出せぬ想い。それでも、彼はその静けさに幸福を感じていた。貧しくても、朝焼けを共に見ていられることが、どれほどかけがえのない日々か、俵平は知っていた。
◇ 第二章「田の香りと村の声」
田吾作の集落は、御崎の浜風と山の湧き水が交わる場所にあった。田は谷間に沿って幾筋にも分かれ、どの畦にも小さな祠が置かれていた。年に一度の百手の儀式では、若者たちが矢を射ち、豊穣と厄除けを願う風習があった。
「今年は、あの平蔵が百手の的を射ぬくぞ」
誰かが言うと、酒を持つ手が揺れ、村人たちが笑った。
「ありゃ田の神さまより腕が立つって話だ」
俵平は、その声を背にして、黙々と畔を踏んでいた。百手の儀式に選ばれるのは、力と家柄を備えた若者。彼のような小作の家の者が立つ場ではなかった。だが──平蔵と名が出れば、胸の奥に何か冷たいものが沈むのを感じた。
平蔵は作蔵集落の惣領息子。鍛冶場で鍛えられた腕は丸太のように太く、声は遠くの山にも届くといわれた。誰もが彼を恐れ、そして尊敬した。だが、俵平は違った。彼の眼が小雪を追うときだけ、胸に鋭い石が投げ込まれたような音がした。
「……姉さま、小雪姉さまは、作蔵家に行くそうな」
村の子供が、泥まみれの手で笛を吹きながら言った。その瞬間、俵平の持つ鍬の刃が、乾いた音を立てて土の中で止まった。
田介は、無言で空を見上げた。空にはまだ雲ひとつなかったが、何かが覆いかぶさるような気配が、静かに集落に広がっていた。
◇ 第三章「酒と契りと、静かな涙」
田吾作家では、朝から餅が蒸され、甕から新酒が汲み上げられていた。薄く香る酒粕のにおいが、縁側に腰かけた小雪の髪をなで、夕方の風に溶けていった。
「小雪、そろそろ支度をせぇ」
田吾作の声は低く、どこか淋しげだった。だが、祝言の日には誰もがそうなるものだと、小雪は笑っていた。
俵平は、その光景を少し離れた畔から見ていた。風のなかに、小雪の白い襦袢が揺れるたび、胸の奥の何かがひりひりと焼けていくのを感じた。
──小雪は、もう自分のものではない。
もともとそうだったのだ。小作の息子に、田主の娘が振り向くはずもない。だが、去年の祭りの晩、川のほとりで小雪が見せたあの微笑みだけが、俵平の心に残っていた。
「……俵平、私、おまえが笑うときの声が、好きだよ」
それだけだった。けれど、それだけが、俵平の春だった。
「平蔵さまがお見えになったぞォ!」
誰かが叫ぶと、村の男たちが酒を持ち上げ、女たちは小雪を囲んでその顔を白粉で包みはじめた。
そして、俵平の春は終わった。
◇
夜、俵平は田の中でひとり、冷えた酒をすすっていた。誰もいない水面に、小雪の笑顔が浮かんでは消えた。唇を濡らすのは酒ではなく、涙だった。
「……ああ、田吾作さまも、つらかろうな……」
田吾作の肩が、今朝は妙に小さく見えた。もう誰もが、この流れを止められないことを知っていた。平蔵が田吾作家を継げば、田吾作は退くことになる。田の水も、酒の米も、すべてが作蔵家の名に変わる。
俵平は唇をかみ、空を仰いだ。
そして、そのとき。田の彼方で、ふいに声がした。
──「悔しいか」
振り向いても、誰もいない。ただ、風だけがそよぎ、畦に咲いた曼珠沙華の赤が揺れていた。
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