耳あり芳一【序章】②
芳一と有能な和尚、鎌倉ホラースペクタクル!!
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『耳あり芳一』序章 第四部
──ポク……ポク……。
その音は、濁った空気を裂くように、静かに響いていた。
怨霊たちのうち、幾体かはその音に怯え、身を引いた。鬼と化しかけていた影のひとつが、耳を塞いで吠える。
「やめろ、その音を……」
だが、音は止まらない。
ポク……ポク……ポク……。
それは、恐怖の根源でもあり、救済の兆しでもあった。僧の足音はなかった。ただ静かに、ただ確かに、その場へと現れたのだ。
笠の奥に表情は見えない。だが、その立ち姿には迷いも恐れもなかった。
手にした木魚は、誰も叩いていないのに音を鳴らしていた。
──ポク、ポク、ポク。
その木魚は、仏の力を宿していた。鳴り始めたその瞬間から、怨霊の気配がざわつき、鬼の変化が止まった。いや、退いていく。
和尚の唇が動く。
「南無妙法蓮華経……」
経が、大地を揺らすような低い響きが、空気に溶けてゆく。
芳一はその場に座したまま、琵琶を胸に抱えていた。異様な静寂に戸惑いながらも、なおも自分の務めを果たそうとする。
「──壇ノ浦にて、安徳帝……」
だが、その声は、微かに震えていた。
◇
怨霊たちは、呻き声をあげていた。
「まだ終わらぬ……まだ、我らの記憶は……」
「戦で斬られ、波に沈んだ我らの怒りを……!」
だが、それすらも、経の声にかき消される。
「無明長夜を照らすは、法華の灯火。迷いの川を渡るは、真理の橋……」
和尚の足元に、ひときわ濃い影が現れた。それはすでに鬼と化した者。
──角をもった異形の者が、芳一の背後から這い寄っていたのだ。
芳一は気づかない。目は見えず、ただ琵琶に集中している。だが、その背に、冷たいものが這い上がってくるのを感じた。
(何か……後ろに……)
身をすくめようとしたそのとき──。
風が走った。
シュル、と袂が舞い、空気が鳴った。
そして、音もなく、その影が消えた。
◇
芳一は、微かに耳を澄ませる。
──何かが、舞った音がした。剣戟のような音ではない。けれど、確かに舞台で舞う者のような、衣がたなびく音。
「……和尚様……? 今、舞っておられましたか?」
ぽつりと、芳一が問う。
笠の奥から、声が返る。
「舞ってなどおらぬ。仏に仕える身、殺生などせぬ。」
「ですが……私にはわかるのです。目は見えずとも、耳で感じることができます。あの音は……」
「それは経の声が、お主に舞を見せたのだろう。幻よ。」
そう言って、和尚は再び木魚に耳を傾けた。
ポク……ポク……。
影はすでに、すべて消えていた。芳一の周囲にいた武者たちも、鬼も、もはや残っていなかった。ただ冷たい夜気が、残響のように漂っていた。
『耳あり芳一』序章 第五部
夜は、あまりにも静かだった。
風も止み、虫の声すら途絶えた堂内で、芳一はひとり、琵琶を抱えたまま、息をひそめていた。
──先ほどまで、この場には、確かに“何か”がいた。
耳に絡みつく呻き声、震えるような衣擦れ、そして背に忍び寄る冷たい気配。忘れようにも忘れられぬ、異界の記憶。
けれど今は、ただ、仏の声が残っていた。
ポク……ポク……。
木魚の音が、空気を包むように響いている。
芳一はゆっくりと体を起こすと、手探りで和尚の方へ向き直った。
「……和尚様、先ほどの、あの者たちは……」
「成仏した。全て仏の加護によるもの」
和尚はそう言い、微かに笠を傾けた。その声音には、一切の動揺もなかった。
「されど……私は、恐ろしゅうございました。姿は見えずとも、あの手が……あの爪が……背に這い寄って……」
芳一の唇が、かすかに震える。
「まるで、鬼のようで……」
「それは鬼」
和尚の声が、わずかに低く響いた。
「人の世の闇に惹かれた怨霊が、悪念に呑まれ、鬼と化す。角を生やし、爪を伸ばし、人を喰らう。無念と執念が形を持った、地獄の申し子よ。」
「……私が、呼んだのでしょうか。琵琶の声が、あの者たちを……」
芳一の問いに、和尚は短く頷いた。
「お主の琵琶は、物語を宿しておる。人の想念を、声に乗せて引き寄せる。それゆえに、仏の道具でもあれば、魔を招く門ともなる。」
「ならば、私は……」
芳一が口を閉ざすと、和尚はふと語調を和らげた。
「お主は、語り部であり、導き手じゃ。罪ではない。仏がその声を用いて、迷える魂を呼び寄せたにすぎぬ。」
ポク……ポク……。
木魚の音は、まだ続いていた。
芳一はゆっくりと、琵琶の糸を撫でた。そこには、いつもの張りが戻っていた。夜の恐怖を超えて、音は澄み、響きは深まっていた。
「和尚様……私は、少しだけ……見えたような気がするのです。」
「何を見た?」
「鬼の姿ではなく……その奥に、泣いている声が、確かにあったのです。」
「…………」
和尚は、答えなかった。
ただ、静かに堂の奥に歩み、木魚を抱えて座した。
そして──再び、経を唱えはじめた。
「南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経……」
ポク……ポク……。
その声と音は、芳一の胸の奥深くに染みわたっていった。
◇
夜は、ようやく明けはじめていた。
堂の格子から、ほのかな朝日が差し込む。薄明の中で、芳一の顔が、かすかに緩んだ。
光は見えずとも、心のなかに、確かなぬくもりがあった。
『耳あり芳一』序章 第六部
「では、参ろうか。」
和尚がそう言ったときには、朝の光はすでに境内に満ちていた。
木々の葉が朝露に濡れ、時折、鳥が小さく鳴いた。日常の音──けれど、芳一には、それがまるで別世界の響きのように感じられた。
「参る……とは?」
琵琶を抱いたまま、芳一が尋ねる。
「この世には、まだ数多の未練が、怨となってさまよっておる。今宵のような鬼も、増えておる。平家ゆかりの地を巡るのじゃ。お主の琵琶と、わしの木魚があれば、導ける魂もあろう。」
「……私は、怖いです。」
素直にそう言った芳一に、和尚は少しだけ笑った。
「怖れるがよい。それが、魂を保つ手綱よ」
そして、ふと笠の影から芳一を見つめると、低く囁いた。
「だが、覚えておけ。鬼を討つのは、祈りではなく、舞い。仏の慈悲は、静けさのなかにある」
ポク……ポク……。
木魚の音がまた鳴った。
芳一は、それが今も自動で鳴っていることを、不思議にも思わなかった。ただ心のどこかで──この音の向こうに、何か隠されたものがあると、感じていた。
それは──たとえば、和尚が“舞っている”音。
いや、“舞っているように聞こえる”音。
彼の剣は見えない。彼の戦いも、見えない。だが、耳は嘘をつかない。
芳一は、経文の続きとともに静かに立ち上がった。
「参りましょうか、和尚様。」
「うむ。」
和尚は、仕込み杖を静かに手に取ると、黙って背を向けた。
光の中を、二人の影が伸びていく。
盲目の琵琶法師と、仏に仕えし剣の舞手。
二人の旅は、まだ始まったばかりであった。
◇
その背後で、朽ちた柱の影──
誰もいないはずの堂の隅に、薄く揺れる影があった。
それはまるで、まだ“何か”が残っていると語るように。
まるで、“耳”を欲していた何者かが──
今もどこかで、芳一を見つめているかのように。
ポク……ポク……
まだ、木魚は鳴っていた。
序章 (終)
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