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耳あり芳一【第一話】百本の矢③

鬼、あらわる──


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◇ 第七章「鬼、歩き出す村の闇」


 夜が、静かに、狂いはじめた。

 祭の火が絶え、矢が放たれぬままの神木は黒く沈んでいた。

 平蔵は、村の中央に立ち、作蔵集落の面々に向かって声を張り上げていた。

 「もはや田吾作の名など不要。この集落を新たに作り替えるのだ。我らの力でな!」

 その声が、突然止んだ。

 遠く、竹林の向こうで、何かが歩く音がした。

 ズズッ……ズズッ……

 土をひきずる、重く湿った足音。獣のものでも、人のものでもない。

 やがて、現れたのは、角を生やし、片目が落ちかけた異形のもの──俵平だった。

 否、もはや俵平ではない。
 赤黒く爛れた肌、喉元から漏れる嗚咽、そして口元には血が滲んでいる。

 だが、その瞳だけが、涙で濡れていた。

 「おぉ……」

 平蔵が、後ずさる。

 「て、てめえ……俵平……か?」

 鬼は、何も言わずに平蔵を見つめた。

 その目には、怒りと悲しみと──喜びがあった。

 「わしを……わしを……こんなもんにしてくれて、ありがとうよ」

 声が、地鳴りのように低く、染みわたる。

 次の瞬間、鬼は跳んだ。

 仕込み杖を持つ者も、経を唱える者も、その場にはまだいなかった。

 骨が砕ける音。肉が裂ける音。

 平蔵の叫びは一瞬で、村に沈んだ。

 続けて、鬼はゆっくりと、小雪のもとへと歩み寄った。

 小雪は、動かなかった。

 いや、動けなかった。

 「ひょう……べい......」

 鬼の目から、涙が一筋、こぼれ落ちた。

 それは喜びの涙。

 積もり積もった恨みと悲しみが、ようやく晴れた証。

 「ようやく、俺は、おまえに……」

 その言葉の続きを、小雪は知ることはなく、鬼は涙を流しながら滴る涙とともに、小雪をそのまま──そのまま、喉奥へと呑み込んでいった。
小雪の着物と帯が鬼の口からこぼれ出て、ふわりと落ち、小雪の白い足が、鬼の喉もとからするりと消えた。
声もなく、悲鳴もなく、ただひとすじ、雪のように静かな涙が村の土を濡らしていた。


 夜の村に、ふたたび沈黙が戻る。

 だが、風が運んだ微かな

ポク、ポク……

という音が、どこからか聞こえはじめていた。

◇ 第八章「経と琵琶、闇を裂く」


ポク……ポク……

 湿った夜の風の中、乾いた木魚の音が響いた。

 音はひとつ、またひとつと重なり、やがて一定の拍を刻み出す。
 まるで、闇の中で仏が歩む足音のように、静かに、しかし確かに村を包みはじめた。

 そして、音の先に現れたのは、笠を深くかぶり、墨染めの衣を纏った男──和尚だった。

 その後ろに、琵琶を携えた少年、芳一が続く。
 盲目のその少年の表情には、怯えも怒りもなく、ただ一心に風の流れと鼓動を聴いていた。

 「この村の者は……まだ間に合うか」

 和尚が立ち止まり、呻くように呟いた。

 目の前には、すでに屍と化した平蔵のなれの果て。
 その傍らには、小雪の着物──

 「お主の仕事じゃ、芳一」

 和尚の言葉に、芳一は黙って頷く。

 腰を下ろし、膝の上に琵琶を抱えると、彼は指先で弦を爪弾いた。

──ベン……

 低く深い音が、夜に波紋を広げる。

 「祇園精舎の鐘の声……」

 芳一の唇から語られる、平家の断章。

 それは経でも詩でもなく、まるで魂を呼び起こすような──音の祈りだった。

 鬼となった俵平が、村の中央に立っていた。

 血塗られた身体を震わせながら、琵琶の音色に振り返る。

 その目が、芳一を捉えた。

 「……おまえは」

 懐かしげな声。だがその声に含まれるのは、怒りでも悲しみでもない。

 芳一は、答えなかった。
 琵琶の旋律が、さらに深く、鋭くなる。

 そのとき、背後で笠を脱ぎ捨てた和尚が、仕込み杖の鞘を静かに抜いた。

 そこから現れた刃は、まるで針のように細く、月光をすべらせていた。

 「……ゆるされよ。これは仏の舞」

 和尚が地を蹴った。
 その動きは優雅で、まるで風が舞い踊るかのように滑らか。

 芳一の琵琶にあわせ、杖は宙を踊る。
 一歩、二歩、三歩──やがて刃は鬼の胸を貫いた。

 ズッ……という音。
 だが鬼は、叫ばなかった。

 ただ、穏やかな目をしていた。
 そして、涙を流しながら、崩れ落ちた。

 芳一は、弾き続けていた。
 終章に至るまで、平家の無念と供養を紡ぐように。

 やがて音が止み、風が静かになったとき、和尚は笠をかぶり直し、言った。

 「舞ってなどおらぬ……仏の声が、お主にそう見せたのだろう」

 芳一は微笑む。
 そして小さく、「はい」とだけ応えた。

 夜明け前、村の空に、微かな光が差しはじめていた。

◇ 第九章「灰に祈りを」


 朝は、灰の匂いを連れてやってきた。

 田の稜線にかかる太陽は、ひどく白く、冷たく光っていた。焼け落ちた集落は、まだところどころから煙を上げ、風に乗ってすすけた香が漂っていた。

 その中に、ふたりの影が立っていた。

 芳一は、灰の中に膝をつき、静かに琵琶を抱えていた。
 その表情には恐れも、悲しみも、ない。ただ、すべてを見つめ、受け容れた者の静けさがあった。

 ポク……ポク……

 木魚の音が、仄かな湿気を含んだ風に混じって響いていた。

 和尚は、村の広場に残された倒木を寄せ、即席の壇を築いていた。
 その前に置かれたのは、田介の位牌、平蔵の折れた槍、小雪が着ていた襦袢の切れ端──

 「名を問うな。地に返すのは骨ではなく、想いよ。」

 和尚は、そう言いながら、香を焚いた。
 煙はまっすぐに上がり、雲ひとつない空へと吸い込まれていった。

 集落の残った者たちは、距離を保ったまま、黙って見ていた。
 誰も言葉を発しなかったが、誰もがその場を離れられなかった。

 やがて、芳一が琵琶を弾きはじめた。

──「これは、戦に散りし魂のうた……」

 彼の語る平家の記憶は、もはや鬼のものではなかった。
 俵平という名を持った一人の青年の、夢と、悔しさと、愛の記憶だった。

 涙を拭く者も、手を合わせる者もいた。

 その日、村はひとつの想いを土に返した。


供養が終わると、村には、しんとした静寂が降りた。
仏壇に焚かれた線香の煙が、朝の冷気に溶けるように漂っていた。

和尚は、ゆるやかに合掌したまま動かない。芳一もまた、琵琶を膝に置き、黙っていた。

俵平はもうこの世にいない。鬼と成り果て、悔いも涙も飲み干した末に、地獄へと堕ちていった。
それが「定め」だった。
怨霊に取り憑かれ、人を喰らい、穢れを背負った者の行く末だ。

けれど──その哀しみは、残された者の心に、なおも染みついていた。



その夜のことだった。
芳一の耳に、ふと風のような気配が寄せてきた。
琵琶の弦も、風のないはずの室内で、ひとりでに「べん……」と鳴った。

「和尚さま……」

「……うむ。聞こえておるな」

和尚は目を細め、燭台の火を囲むように正座していた。
風もない。音もない。けれど、何かが、近くに在る。確かに在る。

「……ありがとう……」

その声は、若い女のものだった。震えるように、澄んでいた。

「芳一さま、和尚さま……お救いくださり、ありがとう……」

もうひとつ、男の声が続いた。
力強くも、どこか照れくさそうな、若者の声。

「俺は……もう少し、早くに気づいていればよかった。
けれど、小雪と一緒に、ようやく安らげます……」

芳一は、音のない空間の中で、深く、深く頭を垂れた。

「成仏されたのですね……」

「うむ……仏の力で、鬼の外殻は討たれた。
だが、魂がそれに囚われていては意味がない。
──いまの声が、それを告げておるのだ」

和尚はそう言い、仕込み杖の先を床についた。
その先端には、血のような紅を微かに吸った跡があったが、もう乾き、黒ずんでいる。

「しかし、俵平は……?」

芳一が尋ねると、和尚は目を伏せた。

「鬼となれば、もはや人ではない。
祓うしかなかった。……仏の慈悲も、届かぬ地獄へと堕ちる」

芳一は何も言わなかった。
ただ、琵琶の弦をなぞった。べん、という音がひとつ響いた。

それは、まるで俵平の涙のように、低く、切なかった。



「和尚さま……あの、お尋ねしても?」

「なんであろう。」

「あなたは……その剣で舞っておられましたか?
私は目は見えませぬが、音で、風で、香で、それを感じるのです……
あれは、剣の舞でした。鬼を祓う、剣の……」

和尚は、少し間を置いたのちに、ふと笑みを浮かべた。

「舞ってなどおらぬ。仏に仕える身、殺生などせぬ。
──私の経が、芳一に舞を見せたのであろう」

木魚が、どこからともなく、ポク、ポクと鳴った。

風もない、音もない、香もない──
ただ、仏の響きだけが、夜の闇に溶けていった。

第一話『百本の矢』(終)


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