見返り鬼譚《耳あり芳一外伝》【第五夜】焼きおにぎりと、声にならない茶(連作短編)
清閑寺の女が語る、夜ごとの鬼譚。
語られるのは、祇園に生きた誰かの結末――
けれどその結末は、ひとつではない。
同じ怪異、異なる結末。
読み手の耳に委ねられた真実。
『耳あり芳一』外伝 “見返り鬼譚”、ここに開帳。
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第五夜 焼きおにぎりと、声にならない茶
◇
ようこそお運びくださいました。
今宵お届けいたしますのは、祇園のとある茶屋にて、祭りの頃に起きました、ほんの少し、不思議なお話でございます。
提灯が揺れ、団子が焼ける香りが路地に満ち、太鼓の音が遠くから近づいてくる頃──
町はにぎやかに、茶屋は忙しく、そして誰もが、笑うておりました。
けれども、です。
そんな中で、たったひとり、静かに、何かを呑み込もうとしていた者がおりました。
その想いに気づく者がいたのか、それとも誰も気づかなんだのか。
終わりはひとつきりではございません。
けれど、どれがほんとうであったかは、わたくしには申しません。
ただ、まずは──ひとつの道から、お聞きいただければと存じます。
どうぞ、茶でも召し上がりながら、ゆるりとお耳を。
──ポロン……
琵琶の音が、闇の隅からひとつ、鳴りましてございます。
◇◇◇◇◇
祇園の町に、笛の音が流れました。
囃子の音がそこここから立ちのぼり、路地には紅い提灯、
子らは跳ねるように走り、大人たちはそれを見て笑います。
祭が近いと申しますのは、なにも神さまだけが浮き立つのではございません。
人もまた、浮き立つものでございます。
そんな通りの角に、小さな茶屋がひとつ。
名を「三福」と申します。
暖簾は煤けていても、香りは上等。
焼きおにぎりに団子、そして熱いほうじ茶──
朝な夕なに、ちょいと腰を落とすには、ちょうどよい。
さて、その「三福」の親父が、団蔵。
寡黙で無愛想、されど仕事には手を抜かぬ職人気質。
それから、娘がひとり。名をお幸。
年は十七、器量はまずまず。言葉少なき娘でございました。
この朝も、団蔵はすでに火を起こし、炭の番をしておりました。
「……焦がしすぎると、苦ぇからな」
ぽつりと呟いた声に、
「わかってますよ」
と、やや遅れて返る声。
振り向かずともわかります。お幸でございます。
お幸は、箒を持ち、入口の掃き出しをしておりました。
父の背を見つめる目は、優しくも、どこか遠い。
「昔のお前は、よう焦がしてたなあ」
「今は、焦がしません」
「……そうか」
それきり、ふたりは黙ります。
親子とは、こうした静けさを重ねていくものかもしれません。
──けれど、この静けさの裏に、ひとつ、小さな“沈黙”が潜んでいたのでございます。
◇
昼どきになり、茶屋には常連たちがぽつぽつと集まりました。
「ここの団子で育ったようなもんやさかいな」
「焼きおにぎり、今年は焦げ目がちょうどええ塩梅や」
団蔵は炭をいじりながら、
「そらよかった」とだけ呟き、客の言葉に過不足なく応じてゆきます。
お幸はといえば、団子を返し、茶を注ぎ、無言で頭を下げる。
客はそれで満足げに笑い、おかわりを頼みました。
そんな折のこと、一人の客がふと呟きました。
「そういや、安兵衛くん、最近は花屋の娘とよう一緒におるなあ。ええこっちゃ」
その言葉に、団蔵は「ほう」とだけ返し、何事もなきよう炭火を見つめておりました。
ただ、お幸の指が、そのときだけ止まりました。
手にした団子の串が、炉の端から、ことんと落ちる。
「お幸ちゃん、どうしたんや?」
「……すみません。手が滑っただけです」
静かにそう言って、彼女はまた無言で団子を焼き始めました。
笑ってはおりましたが──その頬は、少しばかり、冷たうございました。
◇
夜更け、帳場の灯がひとつだけ、ぽうっと灯っておりました。
団蔵がひとり、帳簿を広げ、仕出しの数を確認しております。
囲炉裏の湯が、ことことと音を立てておりました。
急須の中には、ほうじ茶。
亡き妻がよく好んでいた茶葉でございます。
「……あの女房め、また焦がした焦がした言うてたな」
ぽつりと呟き、茶を湯呑に注いだときでございます。
ふと──
「……お幸を、見て」
女の声が、確かに聞こえた気がいたしました。
団蔵ははっと顔を上げました。
帳場の戸口に、お幸が立っております。
団子の串を、黙って手に持ち、こちらを見ておりました。
「……お幸」
そう声をかけようとして──けれど、その目が、少しばかり深く見えた。
団蔵は、声を出すのをやめ、湯呑を握りしめました。
その夜──
彼は、何も言いませんでした。
そして、それが最後となったのでございます。
◇
夜が明けても、団蔵は起きてきませんでした。
囲炉裏の炭は白くくすぶり、湯はすっかり冷めて、湯呑には一滴の茶も残っておりません。
帳場の隅には、昨日の団子の串が一本、焦げ目を帯びて転がっておりました。
お幸は静かに暖簾を上げ、店先に腰を下ろしました。
町は今日もにぎわっておりました。祭の準備に走る人々の声、笛の音、太鼓の音。
しかし、「三福」の店内には、炭の匂いも、茶の香りもございませんでした。
昼すぎ、ひとりの常連がのれんをくぐり、
「団蔵さん、おるかいな?……あれ、お幸ちゃんひとりか?」
と声をかけましたが、お幸はにこりと微笑んでこう申しました。
「父は、ちょっと疲れが出たようです」
「そらまあ……祭前は忙しいもんな。せやけど、団蔵さんがいない三福なんて、ちと寂しいな」
「お茶、淹れますね」
「ほうじ茶で頼むわ。あんたの淹れる茶も、ようなったもんや」
お幸は黙ってうなずき、帳場へ戻っていきました。
やがて、湯気の立たない、ぬるいほうじ茶が出されます。
客はひと口すすると、ふと眉をひそめました。
「……ずいぶん、冷めとるな」
「……そうですね。今朝から、炭がつかなくて」
そう言って微笑むお幸の目に、違和感を覚えた者は、おりませんでした。
◇
その日の夕暮れも、団蔵の姿は、どこにもございませんでした。
町の誰に聞いても「昨日までは見かけたが」と首を傾げ、
祭の騒ぎに紛れて、ひとりの親父の失踪は、たちまち町の片隅へと追いやられていきました。
ただ一人、お幸だけが、茶屋の暖簾を揚げ続けておりました。
団子は、焦げが強すぎる日もあれば、生焼けの日もありました。
焼きおにぎりは、以前のような香ばしさを忘れ、
ほうじ茶は、時折、えも言われぬ苦みを含むことがございました。
それでも、お幸は、笑って言いました。
「お茶、冷めちゃいますよ」
その声を聞いた誰もが、「ああ、三福は変わらない」と、
そう思い込んだまま、茶をすするのでございます。
◇
……そして、ある晩のこと。
団子を焼く火の向こうに、
“団蔵によく似た人影”を見たと語る者がおりました。
だが、その目は真っ黒で、口元には微笑がなかったと。
町の誰もが、その話を笑いました。
ただの見間違いやろう、と。
けれども、あの夜──
「三福」から立ちのぼった煙が、どこかすすけて見えたことを、
覚えていた者も、少なからずおりました。
◇◇◇◇◇
……さあ、これが一つの道。
気づかぬままに過ぎる一日が、
誰かの心を、少しずつ、冷ましてしまうこともあるのでございます。
茶の香りは、やさしくて儚うて、
そして、すこしだけ、怖いものでございますな。
さて──
それでは、もうひとつの話を、これよりお聞きいただきましょう。
もし、あの夜──
湯呑の底から立ちのぼる香りに、ひとつの声が届いていたとしたら……。
──ポロン……
静かに鳴いた琵琶の音が、風を裂いて、そっと闇を照らします。
◇◇◇◇◇
囲炉裏の湯が、ことことと音を立てておりました。
帳場の奥で団蔵はひとり、仕出しの帳面を眺めながら、
いつものように、ほうじ茶を淹れておりました。
茶葉は古いもの。袋の端には、妻の字で「山吹」とございます。
目を閉じれば、浮かんでくるのは、団子を焼く手つき、
おにぎりの焦げを見て、小言をこぼすあの声。
「お幸には、苦くないようにしてあげて」
──あの女房め、と団蔵は口元を緩めます。
湯呑に茶を注ぎ、香りを吸い込む。
ほうじ茶の焙じ香に、微かに、違う気配が混じっておりました。
風もないのに、のれんがゆらりと揺れました。
そして──
「……お幸を、見て」
それは風のように、湯気のように、
ふとした瞬間にすべり込んできた声でございました。
団蔵は、はっと顔を上げます。
戸口に、立っていたのはお幸でした。
団子の串を片手に、笑っておりました。
けれども、その笑みは、どこか張り付いたような、
──言葉を飲み込んだ者の笑み。
「お幸……おまえ、泣いとるのか」
ぽつりと、団蔵は言いました。
お幸の手が、小さく震えました。
「……べつに、なんでも」
「なんでも、あるやろ。ずっとなんでもない顔しとったおまえを、よう見とった」
「……お父さん、気づかへんかったじゃない……ずっと、私……」
そこまで言って、お幸は顔を伏せました。
団蔵は湯呑を置き、そっとお幸の肩に手を置きました。
炭の音が、ぱちりと弾けた音がしました。
それから、ふたりはしばらく黙っておりました。
その沈黙は、あの冷たい静けさとは、少し違う色をしておりました。
◇
翌朝、「三福」の暖簾が揚がりました。
焼きおにぎりの香ばしい香りが、路地を撫でていきます。
団子の焼ける音が、ちりちりと店の奥から聞こえてまいります。
団蔵は焼き場に立ち、お幸は茶を淹れておりました。
「お幸の茶は、まだちょっと薄いな」
「苦くないようにしてるの」
「はは、そらそうやったな」
店先では、町の者たちが笑い合い、
祭囃子の音が、遠く近く、浮き沈みして流れておりました。
客の一人が言いました。
「やっぱり三福はええ。変わらん味や」
「変わらん親子や」
団蔵は笑いました。
お幸も、目を細めて笑いました。
その目は、もう、曇ってはおりませんでした。
◇
その夜、三福の煙は、まっすぐに空へとのぼっておりました。
あたたかな、ほうじ茶の香りをのせて。
◇◇◇◇◇
……ええ香りが、しましたなあ。
声というものは、目には見えませんが、
ちゃんと届いたときには、湯呑の底に澱が残らぬものでございます。
届いたか、届かなかったか。
それは、茶の香りを、覚えていた者だけが、知っていることでしょう。
今宵の話はここまで。
けれど、もしも祇園の町を歩かれることがありましたら──
路地の香りに、どうぞ気をつけて。
あれはきっと、誰かの、声の名残。
──ポロン……
名残の音が、遠く、夜の底に消えてゆきます。
ではまた、お会いいたしましょう。
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