蘭丸、再び 第一話
あらすじ
天下分け目の関ヶ原前夜、黒田長政は徳川家康に一通の木簡を手渡す。それは、彼こそが本能寺から生還した森蘭丸であるという告白の証。
語られるのは、信長の死に秘められた“語り”と“忍び”の真実、そして炎の夜を越えてなお生きる者たちの葛藤。利休、秀吉、光秀、そして語り部たち──歴史の陰に生きる人々の声が、やがて新たな“語り”を生む。これは、失われた美しきものを守るため、蘭丸が再び歩み出す物語。
目次(リンク)
第一話 決断の夜
濃霧が、関ヶ原の野を深く覆っていた。
風はなく、空には雲が垂れこめ、星ひとつ見えぬ闇夜。戦を翌日に控えた徳川本陣では、最後の軍議が粛々と行われていた。
家康のまわりには、井伊直政、本多忠勝、榊原康政、そして若き秀忠の姿があった。
誰もが口を閉じることなく戦の勝算を語り、陣形を論じ、西軍の隙をつく策を進言する。
だが、その中心にいるはずの家康は、ほとんど言葉を発しなかった。
「……ご意見、痛み入る」
軍議がひとたび落ち着くと、家康はそれだけを口にし、席を立った。
誰も追うことなく、誰も問いたださず、ただ深く頭を垂れて見送った。
家康は、そのまま本陣の奥、松明ひとつの灯る小さな幕に身を収めた。
火鉢にくべられた炭がぱちりと弾ける音だけが、しんとした闇に響く。
彼の背筋は伸びていたが、その眼差しは遠く、どこにも焦点を結んでいない。
――なぜ、あのとき光秀を討たなかったのだ。
問いは十数年、彼の胸の中にあった。
本能寺の変の報せを受けたとき、家康はただひたすら逃げた。
命を守るためだった。味方も乏しく、情報も錯綜する中で、討つという選択肢は取れなかった。
だが、その逃げたという記憶が、家康を縛り続けていた。
あのとき、自らが立ち上がっていれば、光秀は討たれていた。
そうなれば、秀吉のあの異様なまでの台頭もなかった。
信長が討たれ、光秀が討たれ、秀吉が天下を掌握するまでの流れは、あまりにも速すぎた。
すべては、あの「討たなかった日」から始まっていた。
家康は信長を恐れていた。
その知略、その威光、その破天荒なまでの振る舞い――
だがそれ以上に、信長を「美しいもの」として憧れていたのかもしれない。
信長の死は、戦国の時代の終焉を告げるものであった。
そしてその死が、あまりにも唐突で、謎めいていたことが、今なお彼の心に澱を残していた。
茶室で倒れたという話。
刃を交えることなく絶命したという話。
光秀が姿を現す前に、すでに落命していたという噂――
あれは、本当に光秀の仕業だったのか?
光秀は、信長を討つために動いたのか?
それとも、何者かに――
「家康様」
外から声がした。帳幕の外に、人影が立つ。
「……長政か?」
「はい。遅くに恐れ入ります。一言、お耳に入れたく、参りました」
家康はしばし沈黙し、やがて火鉢の炭を箸で転がすと、低く答えた。
「入れ」
黒田長政は幕を開け、頭を下げて入り、家康の対座に正座した。いつもの軍陣での厳格な表情とは違い、どこか影を背負った顔をしていた。
「家康様……明日、我らは天下の行方を決する戦に臨みます」
「そうだ。ゆえにこそ、貴様の父、如水殿の動きが気がかりでならぬ」
家康は冗談めかして笑ったが、長政は笑わなかった。
「如水は、いかなる野心も抱いておりません。ですが……私には、この夜にこそ、お伝えすべきことがございます」
家康が片眉を上げた。
「ほう? 軍議の続きならば、明日にせよ。わしの耳は今、戦より遠くにある」
長政は、ゆっくりと首を振った。
「いえ。これは、軍議でも策でもございません。これは……私自身のことです」
言葉を切り、長政は懐から一本の細い木簡を取り出した。節に刻まれた印は、伊賀の密教の符号。家康は思わず身じろいだ。
「その札……どこで手に入れた?」
「これは、私が“かつて”の私であったことの証です」
長政は、膝に置いた手を静かに握った。
「家康様。私は……黒田官兵衛の子ではありません」
家康の眉間に深い皺が寄る。
「……何を言う?」
長政は顔を上げた。その瞳には、ただ静かな決意だけが宿っていた。
「私は、森成利──森蘭丸にございます」
その名が夜の闇に落ちたとき、火鉢の炭が一つ、ぱちりと弾けた。
家康は言葉を失った。
蘭丸。織田信長の小姓として仕え、あの本能寺で共に死んだはずの若武者。信長に最も近く、美しく、忠誠を尽くした男。
「……戯れ言を」
「いえ。私は、本能寺で死に損ねました。甲賀の刃から逃れ、命からがら助けられ、記憶を失い……気がつけば、黒田官兵衛のもとにおりました」
家康の口元が、無言のまま引き結ばれる。
「信長公は、私に“美しさを背負え”と仰いました。その言葉を胸に、私は蘭丸として死に、長政として生きてまいりました」
「それを……なぜ、今?」
家康の問いに、長政はわずかに微笑した。
「明日、戦が終われば、この国は誰か一人の手に委ねられます。そしてその手に、語られぬ多くの死と、語られぬ真実が積み重なるでしょう」
「……語れ、と?」
「はい。ですが、すべてを語る必要はございません。ただ、家康様だけには、真実を知っていただきたく思いました」
長政──いや、蘭丸は深く頭を垂れた。
家康は、しばし言葉を失ったまま、炭火を見つめ続けた。
その手が、わずかに震えていた。
「――語れ」
彼は低く、だが確かにそう言った。
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