蘭丸、再び 第七話
第七話 語りの夜
◇
焚き火の赤が、夜の帳に淡く揺れていた。風が枝葉を擦り合わせるたびに、遠い誰かの声のような音が聞こえ、私はそのたびに背筋を正した。
あの男の言葉が、耳に残っている。
──語りとは、語らぬ者にこそ託される。
茶屋四郎次郎。あの京の小路で再び出会った男は、なぜか私の行く先を知っているかのように微笑んだ。そしてこう続けた。
「ふく爺という老人がいる。伊賀の奥の山里に住まう、語り部の老爺だ。世を渡り、時を継ぎ、人の真を見てきた目を持つ」
「なぜ、私にその者を?」
「語るためだよ。おぬしが見るべき“声”が、そこにあるからだ」
「声……?」
「語りとは、言葉ではない。声なのだ。誰が、なぜ、どう伝えるか。その重みを知っておるのが、ふく爺だ」
そうして私は、伊賀の山道をひとり歩いていた。
◇
苔むした石段を登り、倒木をまたぎ、辿り着いたのは、土壁と茅葺の古びた庵だった。山中にしてはよく手入れされた囲炉裏の煙が、白く空に溶けている。
戸を叩くと、しばしの沈黙ののち、戸の奥から声が響いた。
「どこの者じゃ」
「語りの道を尋ねる者です」
戸が軋んで開いた。現れたのは、深い皺の刻まれた老人だった。腰を曲げてはいるが、その目の鋭さは、山の獣のように光っていた。
ふく爺はじっと私を見た。そして言った。
「……面白い。お主、その目──武者を見たか? 忍びを見たか?」
私はその問いに即答できなかった。だが、その問いが、私の胸奥に沈む記憶を掻き回した。
「私は……あの夜、ただ、守ることしかできませんでした」
「ならば聞こう。お主が見たのは“戦”か、“影”か」
影──その言葉に、思わず私は目を伏せた。
「──それを、知りたいのです」
ふく爺はうなずき、私を囲炉裏の傍に座らせた。
「話してみい。語りとは、自らの声を知ることから始まる」
◇
ふく爺の庵に足を踏み入れると、湯気のたつ鉄瓶が囲炉裏にかけられ、煤けた柱に年月が刻まれていた。私は、そっと懐から木簡を取り出す。節に刻まれた印は、かつて私を目覚めさせた記憶の証だった。
この木簡は、かつての私──森蘭丸としての過去を封じたものであり、また解いたものである。
「それは……伊賀のものじゃな」
ふく爺の目が鋭くなった。だがその声は、まるで遠い昔を懐かしむような柔らかさも帯びていた。
「かつて、ある夜──焼け落ちた寺の炎の中で、私はそれを握っていたはずです。ですが、なぜ、どこで、誰の手に託されたのか……」
ふく爺は湯を一口すすると、しばらく黙っていたが、やがてぽつりと口を開いた。
「お主は、何を見た。武者か、忍びか?」
その問いに、私は返す言葉を一瞬失った。
「……敵の名を聞いたはずでした。『明智軍だ』と。しかし、闇に紛れた者たちの動きは、あれは──」
「忍びよ」
ふく爺の声には、確信があった。
「武者は敵を正面から討つ。忍びは影に生き、語られぬ。あの夜、本能寺にいたのは、明智光秀の兵ではない」
私は目を伏せた。記憶の断片が胸を刺す。
「そう……なのですね。私が見たのは、語られぬ者たち……」
ふく爺はうなずくと、囲炉裏の隅から一本の竹筒を取り出した。中から出てきたのは、古びた羊皮紙の断片だった。筆跡は粗いが、わずかに読めた。
――“語らぬ者、語る時、世は移る”
「これは、明智殿のものか?」
私が問うと、ふく爺は首を振った。
「誰のものでもない。だが、伊賀焼き討ちの夜、一部の者が逃げた民をかばい、光秀さまはそれを見過ごした。ゆえに伊賀の被害は少なかった。信じようと信じまいと、わしは……光秀殿を謀反人とは思わん」
◇
私はゆっくりと、木簡を懐に戻した。
「私は、語らねばならぬのでしょうか」
ふく爺は茶を注ぎながら、微笑んだ。
「語るか、語らぬかは、お主次第。だがの……語りの奥義とは、真実を語ること。語る者の信頼が鍵となる。されど、的を絞る時には、それすら不要なこともある」
──“美しきもののために”。
それは、信長公がかつて語った言葉でもあった。戦のない世、民の安らぎ、それこそが「美しきもの」であると。
私は、ふく爺の前で、静かに頭を下げた。
「ありがとうございました」
「ふむ、若……よい顔になったの」
その声に背を押され、私は庵をあとにした。まだ語るべきことは定かではない。だが、いずれ来るときのために、私は歩み始める。
――語れ。
――美しきもののために、生きよ。
◇
庵を出て、私は山道をゆっくりと下った。あたりは薄曇り、風は冷たく、空気は澄んでいた。
木々のざわめきに、ふく爺の言葉が重なる。
――お主は、武者を見たのか、忍びを見たのか。
本能寺の夜を思い出すたび、あの問いは心に鋭く残る。私はあの夜、何を見たのか。何を聞いたのか。そして、誰を信じ、誰を疑うべきなのか。
ふく爺が言った。「語らぬ者」が本当にいたのなら、それは何を意味するのか。誰かが口を閉ざし、語らぬことで守られたものがあり、語らぬことで滅んだものもあったのだろう。
私が今、語るべきことは――いや、まだその時ではない。だが、その“時”は、すでに近づいている気がした。
◇
山を下る途中、私は道端に咲く小さな野花に目を留めた。雪が残る土地に、なお咲く白い花。どこまでもか弱く、それでいて、美しい。
信長公が、かつて「美しきもののために」と口にしたときの、あのまなざしを思い出す。
民の平穏を、花の咲く世を、心から願っていたのは、戦国の魔王ではなく、一人の男だった。
それを誰が知っているのか。誰が語るのか。
◇
私は歩を止め、静かに空を見上げた。
雲の切れ間から、光が差していた。風が枝を鳴らし、鳥が一声、鳴いた。
あの夜から、私は生き延びた。生かされた。
ならば、この声をどう使うか、それを決めるのは、私自身だ。
語らねばならぬ。
真実を、ただ一つの形にせずとも。
語りは、道を照らす灯となる。
私は、そう信じていた。
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