耳あり芳一【第三話】白い手⑦
盲目の芳一と声を出せないミヨが白い手に挑む
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第七章 断ち切られし蛇(前半)
◇
夜の海に、雨が降っていた。
ぱら、ぱら――しとしとと、波の上に、舟の縁に、芳一の頬に、無数の冷たい雫が舞い落ちる。
舟隠し岩の前。
芳一はすでに、琵琶と語りを尽くしていた。
「――べん! べべんッ!」
芳一の琵琶が唸るように鳴り、叫ぶような語りが夜を裂いた。
「波に沈みし安徳帝……その御年、わずか六つ……!」
「御衣の裾に、重しを添え……べべん! べん!」
激しい雨が、琵琶に、ミヨの袖に、芳一の顔に降り注ぐ。
だが彼らの熱は、いっそそれを蒸気に変えるような勢いを持っていた。
「壇ノ浦の……無念、無念の……声よ!」
そのたびに、海の底から沸き立つように、怨霊が現れる。
男も女も、老いも若きも、濡れそぼった髪と、口をあんぐりと開けた顔で、舟を取り囲んでいく。
ざわ……ざわざわざわ……
雨の音に混じり、数えきれぬ無念が呻き声となり、舟を包む。
舳先に立つミヨは、錫杖を両の手で強く握っていた。
「シャリン……」
錫杖の輪が、雨に濡れ、かすかに鳴る。
芳一の耳がそれを捉えた。
直後、錫杖から、低く優しい――しかし鋼のように強い――声が響く。
《芳一……怨を集めよ……いまこそ、満たす時ぞ……》
盛嗣の声。
血と祈りと、過去の全てを背負った男の声だった。
芳一は口を開く。
「……いまぞ、呼ばん……壇ノ浦に沈みし、魂たちよ――」
「べべん! べん!」
霊たちの目が、光を宿した。
その声に、琵琶に、確かに応えたのだった。
ざわ……ざわ……ぐぐぐぐ……
そして。
舟のすぐ先、海面が――盛り上がった。
「……!」
ミヨの瞳が、怯えにも似た光を宿す。
海が裂ける。
泡立ち、揺れ、潮が逆巻く。
黒く、長い鱗の身が、ゆっくりと浮かび上がってくる。
舌のように伸びた先には――
若い女の白い手が、雨に濡れながら空をなぞっていた。
鬼蛇。
無数の亡霊の怨をまとい、海と一体となった怨念の化身。
芳一は目こそ見えぬが、空気の震えでそれを感じ取る。
「来たか……!」
語りを止めぬまま、震える声を押し殺し、なおも熱を込めて語り続ける。
「……その無念を、琵琶にて語り……いま、祓わん!」
ミヨは芳一の背中に指で「⚪︎」を書く。
そして、錫杖を構える。
シャリン、と乾いた高音が、雨の中を切り裂いた。
鬼蛇が、目を見開く。
海が悲鳴を上げる。
――終幕が、迫っていた。
第七章 断ち切られし蛇(後半)
◇
「う゛うう……」
鬼蛇が低く、喉を鳴らした。
それは、獣とも人ともつかぬ、怨念が混ざり合った呻き。
舌先の白い手が、雨のなか空を這い、舟に向けてゆらりと伸びてくる。
ミヨは、舟の縁に立ち、錫杖を両手で持ち上げた。
指先が震えていたが、その目は決して逸らさぬ。
「シャリン」
鈴がひときわ強く鳴ったときだった。
ズン、と。
大地が鳴ったような衝撃が海に響き、雨粒が風に舞い上がる。
錫杖の飾りが風に散り、光に変わり――
次の瞬間、ミヨの身体が淡く輝き出す。
芳一が、その気配を感じて顔を上げた。
「……ミヨ......」
彼の口から零れたのは、祈るような呼び名だった。
ミヨの目が、金色に燃えた。
そして、その手にある錫杖の先端から、一本の刀が――ゆるやかに、静かに――抜かれた。
錫杖の剣。
それは、盛嗣が残した最後の力。
その瞬間、
周囲に満ちていた怨霊たちが、一斉に光に変わり、剣に吸い込まれていく。
わあああ……
風が泣いた。
海が割れるような音が響いた。
鬼蛇が吠える。
ミヨの口が、言葉ではない声を紡ぐ。
それは、盛嗣の声だった。
《いまこそ、終わらせん……この怨、我が剣で断ち切る!》
ミヨの身体が、盛嗣の意志を宿して動く。
それはまるで、舞のようだった。
剣を振りかぶり、雨と霊と夜を裂くように――振り下ろす。
ズバァッッ……!!
轟音。
光。
衝撃。
鬼蛇の巨体が、一瞬空に持ち上がり――そのまま砕けた。
水飛沫が天を覆い、黒い海が左右に割れ、舟隠し岩そのものが真っ二つに裂けて沈んでいく。
芳一とミヨは、凄まじい爆風と波に呑まれ――
ぐらりと舟が傾いた瞬間、二人の身体は宙に投げ出された。
「ミヨ……ッ!」
芳一の叫び。
ミヨの手が、空を掴むように伸びる。
だが――波が、彼らを呑み込んだ。
◇
ごうごうと鳴る水の音のなかで、芳一は漂っていた。
意識は薄れ、身体は重く、もうどこが上かも分からない。
けれどその耳に――
「ポク……ポク……」
……という、懐かしい音が微かに届いた気がした。
(……和尚様……)
そう思ったところで、芳一の意識は、ふっと闇に沈んだ。
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