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耳あり芳一【第三話】白い手⑥

盲目の芳一と声を出せないミヨが白い手に挑む


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第六章 波音に宿る声(前)



海は、月の光も拒むかのように沈黙していた。

風は凪ぎ、波打つ音すらひそやかに、舟を取り巻く闇の中へ吸い込まれていく。空と海の境もあいまいなその中を、細い小舟がひとつ、ぎい、ぎい、と軋む音を立てながら進んでいた。

舟の櫂を握るのは、ミヨである。

白い指先に海のしぶきが散り、墨をこぼしたような水面に輪を描いては消えていく。ミヨの表情は静かだが、額にはうっすらと汗が滲んでいた。舟の先には芳一が座っている。彼の目は見えぬが、耳はすべてを聴いている。

琵琶と錫杖を両腕に抱えた芳一は、闇の底から湧きあがる気配に、肌を強く粟立たせていた。

舟隠し岩が近づいていた。

闇に溶け込むように現れるその影。かつて漁師たちが、嵐を避けて身を寄せたとされる岩礁。いまは、戻らぬ者ばかりを呑み込んできた禍々しい場所。

舟が岩のそばに近づいた刹那、錫杖から、かすかな鈴の音――シャリン……と、聞こえた。

「……芳一よ……」

それは、錫杖の奥から響くような、低く重い男の声だった。盛嗣である。芳一の耳朶に直接触れるような、その声は、血に濡れた祈りのように重く、確かだった。

「この岩の前で……琵琶を弾け。魂を呼べ……怨を集めよ。限界まで……」

芳一は、ぐっと錫杖を抱き締め、ミヨに渡す。冷たい鉄の感触が、彼の震える指にしがみついているようだった。

「……わかりました。」

小さく呟き、琵琶を膝に乗せる。

舟が波間に揺れる。ミヨは舟を止め、櫂をゆっくりと引き上げた。水の音が、やがて消えた。

芳一は、息を吐いた。そして、琵琶の弦に指を置いた。

べん!

「……祇園精舎の鐘の声……諸行無常の響きあり……」


べん……べべん……べん。

芳一の語りが始まる。

静寂を切り裂くような、琵琶の音と朗々たる語りの声が、闇の中に鳴り渡った。

舟隠し岩の影が波に揺れる。その奥で、何かが、呻くような気配を孕んでいる。

琵琶の音が続く中、ミヨは目を凝らした。何かが、岩陰でうごめいている――その確信があった。まだ、霊は集まりきっていない。だが、何かが来ようとしている。

芳一は知らぬ。だが、弾く。震える指で、確かな音を刻む。

べん……べべん……べん、べん、べん……

空気が、重たく軋んでいく。

第六章 波音に宿る声(後)



べん……べん……

琵琶の音はなおも続いていた。芳一の唇は動き、静かな語りを海へと送り出す。だが、舟の周囲には、重苦しい沈黙と張り詰めた空気が漂っていた。怨霊たちは、まだ集まりきっていない。

舟隠し岩の奥から、かすかな風が吹いた。

ふと、芳一の髪のない頭に冷たい気配が触れる。

その瞬間、彼の背筋を電撃のような戦慄が走った。だが、指は止めない。語りも止めぬ。ただ、琵琶の音を紡ぎ続ける。

「……沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす……」

べん……べべん……!

岩陰に、ふと光が揺れたように見えた。ミヨは舟の上で膝をつき、錫杖をしっかりと抱えていた。闇の中、白い肌が月に照らされ、冷たい光に浮かぶ。ミヨの目は、舟隠し岩の影を捉えている。

何かが、いる。

黒い水面の奥で、何かがこちらを覗いている。目のない、しかし確かにこちらを見据えている「何か」。それが、今にも現れようとしていた。

べん……!

芳一の語りは、次第に力を帯びていく。

「……おごれる人も久しからず……ただ春の夜の夢のごとし……」

その声音は、波に、風に、海そのものに染み渡るようだった。

ミヨの指が、そっと芳一の背に触れる。芳一は、うなずく。言葉は交わさない。ただ、そのぬくもりでわかるのだ。ミヨが、目に見えるものの恐ろしさに耐えながら、自分を信じていることを。

その信頼に、応えねばならぬ。

べん……べべん……!

ふたたび、錫杖が「シャリン」と鳴る。

芳一の耳に、盛嗣の声がよぎる。

「怨は、まだ満ちぬ……だが、近い。恐れるな……語り続けよ……」

芳一の胸に、熱が灯る。恐怖ではない。使命のようなもの。自分にしかできぬこと、自分の声が導くもの。そのすべてを背負って、語り続ける。

舟はまるで時の止まった小宇宙のように、静かにそこにあった。

周囲の海が、不気味なほど穏やかだった。ただ、見えぬものが、寄ってくる。

べん……べべん……!

「……夢まぼろしの如くなり……」

べん……!

そして、ミヨの目に映った。

岩の陰から、這い出るように伸びてくる、白い手。

その美しく、そしてぞっとするように艶かしい手が、ゆっくりと舟に向かっている。まだ遠い。だが、確実に来ている。

そのとき、風が変わった。雲の向こうで稲光が走り、すぐに雷鳴が空を裂いた。

しと……しと……と、雨が落ち始めた。はじめは静かに、そして、まるで語りに呼応するように激しさを増していく。

ミヨは、目を逸らさぬまま、錫杖をぎゅっと胸に抱いた。

芳一の額を冷たい雨粒が伝い落ち、指先が琵琶の弦を湿らせる。それでも、彼は止めない。

芳一の声が一段と高まる。

「……波の下にも都のさぶらふぞ……」

べん! べべん! べん……!


岩を洗う波が、にわかに荒くなった。

空気は凍てついたように冷たい。

舟がわずかに軋み、雷鳴とともに、遠くで呻くような何かが――目覚めかけていた。



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