耳あり芳一【第三話】白い手⑤
盲目の芳一と声を出せないミヨが白い手に挑む
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第五章 祈りと決意
◇
夜の帳が村を包むころ、芳一とミヨは静かに村の小径を歩いていた。
草木のざわめきも、虫の音すら聞こえぬ、不自然な静けさ。
空には月がなく、黒々とした雲の間にわずかな星が滲むばかりだった。
芳一の足はたしかに進んでいたが、彼の前を行くのはミヨだった。
錫杖が「シャリン……」と、わずかに鳴るたび、芳一の顔に静かな緊張が走る。
やがて村はずれ、竹藪の近くでその空気が変わった。
「た、たすけてくれえっ……!」
どこかで何かが弾けたような声。
藪の影から、ぼろぼろの人影が転がるように飛び出してきた。
「平八……?」
芳一の声にミヨが立ち止まり、足音を殺す。
平八は虚ろな目でふらつきながら現れた。髪は寝癖のまま、着物も乱れ、どこか遠くを見ていた。
「し、白い手が……おかみが……!」
支離滅裂な言葉を繰り返しながら、平八はふたりの方へよろよろと歩み寄る。
その背後──。
「ズル……」
湿った音とともに、藪の奥から白く伸びる一本の腕。
女の手のような、滑らかで美しい指先。
それが、平八の肩をつかんだ。
「うわっ、や──!」
叫びも途中で、平八の体は後ろへ引きずり込まれ、闇の中へと消えた。
その一瞬を、ミヨの目は逃さなかった。
彼女はすぐに芳一の手を取り、その掌に指で書いた。
「しろい てに ひとが つかまった」
芳一は小さくうなずいた。
「……行きましょう。平八の家に。」
◇
その家は村のはずれにあり、囲炉裏も灯っておらず、奥は暗く静まり返っていた。
戸を開けると、ぬるりとした臭いが鼻をついた。海の腐ったような、そして血と土が混ざったような匂い。
奥の間に、ひとり横たわる女──平八の妻がいた。
ミヨが近づき、芳一の手に書いた。
「うごいてる」
芳一は膝をつき、そっと琵琶を脇に置いた。
平八の妻は目を閉じていたが、その腹部が異様に膨れていた。
皮膚の下で、何かが生きているように蠢いている。
やがて、唇が微かに動いた。
「平......は...ち...」
最後の力で夫の名を呼んだその声は、わずかに震えて、かすれた音になった。
そして──
ごぽり、と腹の皮膚が一瞬、内側から押されるように盛り上がった。
芳一は顔をしかめた。
「……これは……牙の毒でしょうか」
ミヨは答えず、芳一の手に指を這わせるように書いた。
「うらみ を のこしてる」
その筆致は少し震えていた。
芳一はそっと琵琶の弦に指を置いた。
「せめて、魂が安らぎますように……」
低く、柔らかな音が闇に溶ける。
ミヨもまた、錫杖を両手で掲げ、額に添えて目を閉じた。
「シャリン……シャリン……」
その音だけが、夜の空気をかすかに震わせた。
◇
しばらくして、平八の妻の胸が静かに上下を止めた。
そして膨らんでいた腹も、次第に沈み、痕跡だけを残して動きを止めた。
芳一は、祈るように手を合わせた。
「……もう、何も……産まれたりはしない」
ミヨは、芳一の手にもう一度だけこう記した。
「こんや いこう」
芳一はうなずいた。
「……舟隠し岩、ですね」
外に出たとき、夜風が吹き始めていた。
月はまだなく、空は重く、風の音に交じって、かすかに波の音が遠くから聞こえた。
ふたりの影が、夜の中に溶けていった。
その先に、鬼蛇が待つとも知らずに──いや、知ったうえで向かうのだった。
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