耳あり芳一【第三話】白い手⑧
盲目の芳一と声を出せないミヨが白い手に挑む
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◾️第八章 波の音、焼き魚、そして南東の空へ
――
ざざん、と遠くの海鳴りが耳をくすぐった。
「……う……」
芳一は、まどろみの中で呻いた。身体は重く、指先にはまだ痺れが残る。しかし、空気の温もりと、鼻先をかすめる香ばしい匂いが、確かに“生”を知らせていた。
「……ここは……」
かすれた声が、静寂の中に溶けた。
「目覚めたか、芳一」
炉のそばから、落ち着いた声が響く。静かでありながら、どこか刀のような鋭さを帯びていた。
「……和尚様……」
芳一は身を起こそうとするが、うまく力が入らない。和尚は気配を察して、そっと膝元に寄り添い、背を支えた。
「動かずともよい。まだ身も心も、あの鬼蛇との戦に在る」
炉のそばでは、小さな火がちろちろと揺れ、竹串に刺さった魚が三尾、じゅう……と脂を滴らせている。
「太刀魚だ。夜明け前、波打ち際に三尾、並ぶように打ち上げられておった。おぬしらの命が繋がった、その祝いと思ってな、炙ることにした」
芳一は音と匂いだけで、太刀魚がいかに立派であるかを想像できた。
「ありがたく、いただきます……」
そのとき、炉の反対側で布がかすかに動いた。
ミヨが目を開け、わずかに身を起こしていた。言葉は発さずとも、その鼻先が焼けた魚の香りを吸い込み、目元が緩むのが分かった。
「ミヨ……」
芳一の声に、ミヨはこくりと頷いて見せた。まだ声は戻らぬが、生気がわずかに宿っている。
和尚は、無言で一本ずつ串を手渡す。芳一の手に握られたそれは、じりじりと熱を持ち、焼けた皮がぱりりと裂けている。
「……いただきます」

芳一が口にした瞬間、あふれる旨味が身体を包み込んだ。生きているという実感が、塩と脂とともに喉を滑り落ちていく。
ミヨもまた、串を両手で包み込み、静かに焼けた皮を歯でそっと裂いた。香りが、気配が、二人をつなぐ。

「……落ち着いたところで、ひとつ伝えておこう」
和尚は残る一本の太刀魚を手にしたまま、静かに言葉を継いだ。
「わしはこれより、京へ向かう」
芳一は顔を向けた。動揺はない。ただ、疑問が胸に浮かぶ。
「……なぜ、京へ?」
「怨の流れが、そちらへ集まっておる。木魚がそれを告げておる。気比に満ちた穢れが祓われた今、新たな渦が南東より近づいておるように感じる」
雨がぽつり、ぽつりと屋根を打った。
「わしが見てこよう。おぬしらは……しばし休め。次に会うときには、また道が繋がるであろう」
芳一は、ゆっくりと頷いた。
「……お気をつけて、和尚様」
「うむ」
それだけ言って、和尚は立ち上がり、そっと頭陀袋を肩にかけた。
――
太刀魚の香りが、静かに部屋に残っていた。ミヨは手の中の串を見つめたまま、ゆるりと目を閉じる。
そのまま、誰も何も言わず、ただ風と波と火の音が、三人を優しく包んでいた。
第三話『白い手』(終)
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