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耳あり芳一【第二話】貝を拾う声④

芳一と和尚、怨念渦巻く気比の浜を彷徨う──


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第七章「声の綻び」



 夜の気比の浜は、波音すら吸い込まれるような静寂に包まれていた。
 芳一は、岩陰のあたりに腰を下ろし、膝の上に琵琶を据えていた。
 顔を上げぬその姿は、まるで月を仰ぐ供養塔のようで、そこにいるだけで場が張り詰めてゆく。

 ──風は止んだ。
 ──潮も引いた。
 ──声を、語る刻限。

 芳一の指が、ゆっくりと糸に触れた。

べん──

 低く濁った響きが、地の底へと沈むように響いた。
 そして静かな声が、呼吸するように漏れた。

「祇園精舎の鐘の聲──」

べん、ぽろろろん……

「諸行無常の響きあり──」

ぽろ……ぽろん……

 「沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす──」

 語りと音が重なり、夜に染みていく。
 芳一の『平家物語』は、ただの軍記ではない。
 語り継ぐべき名もなき魂の、哀しみと悔いを含んだ鎮魂の詩だった。

「奢れる人も久しからず──」

「ただ春の夜の夢のごとし──」

「猛き者も遂には滅びぬ──」

「偏に風の前の塵に同じ──」

 琵琶の音が、浜辺をさざ波のように包み込む。
 月明かりすら届かぬ空の下で、芳一の瞳は虚空を見据えていた。

ぽろぽろ……
 べん、ぽん……


 そこへ──和尚、
 笠をかぶり、墨染めの衣が夜に溶け込んでいる。手には、般若の木魚。

 和尚は語る。

 「語りとは、沈んだ魂を呼び起こすこと。
  だが、語られぬまま沈んだ声が積もると……この世の綻びとなる」

 「綻び……ですか」

 芳一の声が、琵琶の余韻を撫でるように重なった。

 「裂け口……あるいは、“地獄の門”とも呼ばれる。
  声が、魂が、怨嗟と共にあふれたとき──その門が裂ける」



 そのとき、海の向こう、はるか沖に──

ごぉぉぉん……
 ごぉぉぉん……
 ごぉぉぉん……


 重く、鈍く、地の底を這うような音が響いた。

 「……これは……」

 芳一が身をこわばらせる。

 「……まだ兆しだ。三つ鳴っても門は開かぬ。だが、音が高くなれば……」

 和尚は、静かに木魚を胸元に持ち直した。

 「門が開けば、地獄の鬼が現れる。
  怨霊に取り憑かれた“鬼”とは異なる。それは、神や仏に近い……裁きの使いよ」

 海の彼方で、波が逆巻いた。
 月が雲に隠れ、夜がひとつ、深くなる。

 夜の潮が、遠くから満ちてくる。
 波の音は、次第に速く、激しく、打ち寄せる鼓動のように変わっていった。

 芳一は、そっと琵琶の弦に指を置いた。
 その頬を、冷たい潮風が撫でた。

「――べん」

 最初の一音が、まるで夜を裂くように鳴り響いた。
 静寂が、その音に吸い寄せられていく。

 芳一の唇が、震えた。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり……」

 澄んだ声が、琵琶の音と重なるように夜に溶けていった。
 潮の音が遠ざかり、あたりは、琵琶の音と語りだけの世界になる。

「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす……」

 和尚が、ゆっくりと木魚を取り出した。
「ポク……ポク……」と、静かに打ち鳴らしながら、目を閉じて経を唱え始める。

「かんじーざいぼーさつ、ぎょうじんはんにゃーはーらーみーたーじー……」

 般若心経の低く重なる声が、木魚と交差する。
 琵琶、経、そして語り。それらが、夜の浜に編まれていく。

 そのとき――
 潮のきわから、誰かが這い出てきた。

 それは、盛嗣だった。
 だが、彼の姿はどこかおぼろで、影のようでもあった。

 「わたしは……だれだったか……わたしの……声は……どこへ……」

 彼の声は重層的で、ひとつではなかった。
 まるで、いくつもの記憶が溶け合い、折り重なって響いてくる。

 その背後に、もうひとつ、細い影が立った。

 おふくだった。

 彼女は手を伸ばし、波に濡れた足を引きずりながら盛嗣へ近づく。

 「……盛嗣さん……おるいを、返して……」
 「……あの子の声が、まだ聞こえるんです……」

 その声に、盛嗣の身が、ぴたりと止まった。
 やがて、ゆっくりと顔を向ける。

 その顔は、かつての武士の面影を残していた。
 血筋を引くような、強さと儚さを混ぜた眼差しだった。

 「……おるい……」
 「その名は……確かに……平盛嗣、わたしの……なかに……」

 盛嗣の声が震える。
 それは、ついに「平盛嗣」という名前を自覚しはじめた証だった。

 芳一の琵琶が、それに呼応するように――

「べん……」

 再び一音が、夜空に響いた。

 そして和尚の声が、静かに重なる。

 「語れぬ魂が集まれば、裂け目が開く。地獄の門、忘れてはならぬ……」

 波が盛り上がり、貝殻が砂浜に散らばり、まるで何かを語ろうと震えていた。


第八章「百の口、千の囁き」




 海は――呻いていた。

 ただの波音ではなかった。
 水のうねりが、どこか遠くの地鳴りのように重く響いていた。
 風も止まっているのに、波は引かず、寄せもせず、ただその場で呻きつづけていた。

 芳一は、浜の真ん中に立つ。
 背に琵琶を抱え、静かに目を閉じて、耳を澄ませた。

 囁きが、あった。
 千の囁き。百の口。
 消えたはずの人々の声が、潮に混じり、砂の下から、風の中から、浜そのものから滲み出していた。

 和尚が、隣に立つ。
 その手には、般若の木魚。

 「……出るぞ」

 その言葉とともに、空気が裂けた。

 空の色が、深く墨を垂らしたように滲み、沖のはるか先に、黒い“亀裂”が現れる。
 空と海の境がぐにゃりと歪み、その裂け目は、徐々に“門”の形を帯びはじめる。

ゴーン
 ゴーーン
 ゴーーーーーン……
  キーーーーーーーィィイイン

 鐘の音と耳鳴りのような高い音が、腹の底に響く。

 「地獄の門だ」

 和尚は、木魚を静かに地に置いた。
 木魚から、面が外れる。

 それは、般若の面。

 怒りと悲しみと憐れみを湛えた女の面。
 和尚は、その面を、すっと顔にあてた。

 風が鳴いた。
 空が震えた。

 芳一が声を上げる。

 「和尚様……?」

 次の瞬間、
 地が揺れ、砂が踊り、夜の海を背景に――

 和尚が、舞った。

 右手を高く天に、左手を大地に垂らし、
 一歩、二歩と静かに踏み出すたび、砂が白く波紋を描いた。

「「ぎゃーてー、ぎゃーてー……」」

般若の面の奥から洩れる声は、地鳴りのような低音と、祭囃子の鉦のような高音が幾重にも重なり合い、山と海を揺らすような響きとなって夜の空へと溶けていった。
 それは言葉ではない、声でもない──神仏の声そのものだった。

「「はーらーぎゃーてー、はらそうぎゃーてー……」」

 舞いながら唱えるその姿は、まるで神の顕現だった。

 芳一の目が、開いているように見えた。
 その顔が、まばゆい光を感じたように、少しだけ上を向いた。

 「光が……見える……?」

 光は無い。だが、確かにそこに“あった”。



 地獄の門が、開こうとしていた。

 その裂け目から、赤黒い手がのぞき、歪んだ角の影が浮かぶ。

 おふくが浜の端で震えていた。

 「盛嗣さん……やめて……お願い……お願い……」

 その声も、風にかき消される。
 空が、割れる。

 鬼の手が、盛嗣の魂を掴まえようとしていた。

「おおおおお……」
 千の呻きが門の奥から押し寄せる。
 浜に残る死者たちの未練が、泡のように浮かぶ。

 芳一は、琵琶を抱きしめる。

「べん」
 「べん、べん……」


「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり……」

 その語りに呼応するように、和尚の舞が激しさを増す。

 般若の面が月光を受け、神々しく燃え上がる。

「「ぎゃーてー、ぎゃーてー……!」」

 和尚の口から発せられるはずの経は、面の口がひとりでに動き、空へ、地へ、冥へと唱えを送っていた。
 琵琶の「べん」という響きとともに、光が渦を巻き、仏の印が風のなかに浮かび上がる。
 空が裂けるように、地が震えるように、経文が次元を超えて祈りとなり、開きかけた地獄の門へと注がれていく。

 舞が最高潮に達したとき――

ポク
 ポク

 木魚がひとりでに鳴った。
 誰の手にも触れられていないのに、まるで仏がそこにいるかのように。

 その瞬間、地獄の門が――揺れた。

 鬼の手が引き戻される。
 裂け目が、ぎりぎりと軋みをあげ、ゆっくりと閉じていく。

 「……ま、まだ……」

 おふくが泣きながら手を伸ばす。

 門が完全に閉じる直前、
 盛嗣の魂が、ふっと砂浜に舞い戻った。

 和尚が、面を外す。
 その顔には、玉の汗が浮かび、呼吸は荒い。
 だが目は、しっかりと芳一を見ていた。

 「……今宵は……ここまでだな」

 芳一は、ただ手を合わせた。

 「ありがとうございます……和尚様……」

 夜が、静けさを取り戻していた。
 空には、星が戻っていた。

 だが砂浜には、まだ消えぬ痕跡が、深く刻まれていた。



潮の満ちる音が、ゆるやかに引いていく。
海から吹く風が浜を撫で、誰もいないはずのその先に、気配があった。

岩陰に、ひとつの影が立っていた。

白い着物。ゆらぐ髪。風に溶けるように、実体が希薄になっていく。

それは、盛嗣だった。

芳一は気配に耳を澄ませ、わずかに顔を上げる。
目は見えずとも、そこに何かが在ることを、確かに感じ取っていた。

風が吹いた。

その風のなかに、声があった。
低く、かすれ、どこか懐かしいような、遠い響き。

「……お前の語り、届いたぞ」

盛嗣の声だった。
だがそれは、人の声ではなかった。
言葉そのものが、この世とあの世の狭間から漏れ出したような、まるで風鈴のように震える音の束だった。

芳一の眼差しが、ほんのわずかに揺れる。
手の中の琵琶が、静かにきしんだ。

盛嗣の影は、ゆっくりと海のほうへと向きを変え、
やがて陽炎のように溶け、海霧のなかに吸い込まれていった。

和尚が近づき、ふと空を見上げる。
地獄の門は閉じられ、空にはもはや裂け目も、響きもない。

芳一がぽつりとつぶやいた。

「……盛嗣殿の、声が聞こえました」

和尚は何も言わず、静かに頷いた。

海は、すでに夜の帳のなか。
ただ、琵琶の棹を握る芳一の手にだけ、わずかな熱が宿っていた。



 しばらくして、波打ち際にうずくまる影が見つかる。

 それは、薄衣の少女だった。
 髪は海水で張りつき、唇は青ざめていたが、かすかに胸が上下している。

「……お、おるい! おるいじゃ……!」

 おふくが転げるように駆け寄り、娘の名を呼ぶ。少女のまぶたが、ゆるやかに揺れた。

「……かあ、さ……ま?」

 その声は確かに、おるいのものだった。だが、どこかおぼつかない。夢と現のあわいにいるような、ふわりとした響きだった。

「おるい、戻ってくれたのね……!」

 おふくが娘を抱き締めると、少女の手がゆっくりと母の背に回された。
 その小さな指先が震えながら、おふくの着物を掴んだ。

 芳一はその様子を、静かに聞きながら、琵琶を膝の上に置いた。
 和尚は木魚を静かに叩き続けている。

 ──ポク、ポク、ポク。

 風が凪ぎ、潮が引く音だけが浜に残った。



 その夜、おるいは村の床に寝かされた。
 おふくが何度も何度も額に触れ、水を含ませるたびに、少女のまぶたはわずかに開く。

 「かあさま……わたし、あの海でね……」

 おるいが呟いた。

 「……声が、いっぱい聞こえたの。……貝を拾う声……いっぱい……」

 言い終えると、また深く眠ってしまった。

 その声を、和尚と芳一は黙って聞いていた。
 芳一がふと、顔をあげて言う。

 「和尚様、あの声……きっとまだ、浜に残っていますね」

 和尚はうなずいた。

 「地獄の門は退いたが、すべてが終わったわけではない」

 そのとき、おるいがうわごとのように呟いた。

 「……わたし、ね……あのとびらの向こうに……
  まっすぐな道が、見えたの……ひかりが、いっぱい……
  ……でも、こわかったの。とても、こわかったの……」

 おふくが震える手で娘の頬をなでる。

 「もう大丈夫。もう、お前は帰ってきたんだから……」

 ──そう言いながらも、その手はどこか、確かめるようにおるいの頬をなぞっていた。

 夜は静かだった。
 しかし、芳一には聞こえていた。
 誰にも届かぬ、かすかな波音のなかに混じる……貝を拾う、少女の声が──。



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