耳あり芳一【第二話】貝を拾う声③
芳一と和尚、怨念渦巻く気比の浜を彷徨う──
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第五章「失われた子ら」
日が落ちると、潮は音もなく満ち始めた。浜辺はしんと静まり返り、波が砂を抱きしめる音だけが夜の底に染みこんでいく。
嘉兵衛は、火の落ちた囲炉裏の前でゆるやかに口を開いた。
「……おるいだけじゃない。あの浜に呼ばれて消えた子は、かつて何人もおったのじゃ」
芳一は、うなずいた。和尚も、湯呑の縁を指でなぞりながら目を閉じている。
「いつからか、海の声が変わった。昔は子守唄のような波音じゃった。それがある年を境に、妙に鋭く、悲しげになった」
「その年というのは……?」
「盛嗣様が、語られなくなった年じゃ」
嘉兵衛の言葉は、海霧のように重く室内に滞った。
――語りが途絶えると、浜の音も変わる。
芳一は、ふと琵琶に触れた。どこか、震えているような気がした。
和尚がそっと口を開いた。
「声には重さがある。魂の形をしておる。重ねれば響きとなり、閉じれば圧し潰され、いつしか怨みへと変わる」
嘉兵衛がうなずいた。「……語るとは、放つことなのじゃな」
◇
そのとき、障子の向こうから、弱い足音が響いた。
扉が開くと、小柄な女が立っていた。古びた白装束に身を包み、顔の半分を深い頭巾で隠している。
「ミヨ……」
嘉兵衛が名を呼ぶと、女はわずかにうなずいた。
かつて盛嗣に仕えていた巫女。今は声を発することなく、筆と和紙でしか思いを伝えられない。
ミヨは膝を折り、懐から小さな巻き貝を取り出した。白く光るその貝を、静かに机の上に置き、筆を走らせる。
《その中に、海の子の声がいる。盛嗣さまは、海に沈もうとする声を拾って、ここに宿した》
芳一は、そっとその貝に手を伸ばした。
ひやりと冷たい。その殻の奥から、「みてて……きれい……」という声が、遠く遠くから響いた気がした。
和尚が静かに言った。
「だが、声を宿しすぎた者は、語れぬ。語れば自らが沈む。盛嗣のように」
◇
一方、その夜。
又八は、家に戻るなり、床に突っ伏していた。傍らには、砂にまみれた貝が転がっていた。
その貝からは、かすかに嗤うような音が漏れていた。本人は気づかぬまま、唇を動かし、うわ言を繰り返す。
「ひろってやった……俺が……おまえを……」
静かな夜に、声の綻びが広がっていった。
第六章「おるいの声」
◇
風はやみ、浜辺に奇妙な静けさが満ちていた。
空の色は昼とも夜ともつかず、雲は低く垂れこめ、海の向こうと空の境が曖昧になっている。人影もない砂浜に、ひとり、おふくが立っていた。白い足袋が濡れ、裾が波で湿っているのも構わず、まるで何かを待つように。
「……おるい……」
それは、ふいのことだった。
「かあさん、みてて……ほら、きれいな貝……」
娘の声だった。確かに、そうだった。
だが、姿はどこにもない。潮の音に混じって、柔らかな声だけが聞こえる。おふくは目を見開いたまま、返事をすることも、動くこともできなかった。
「おるい……? どこ……どこにおるの……?」
呼びかけても、返事はない。ただ、遠くへ引く波の音とともに、その声もかすかになり、やがて、再び「ひろって……」という囁きに変わっていった。
◇
浜辺の小高い丘に佇んでいた芳一は、ただ静かに、そのやり取りを耳で追っていた。
「今、娘の声が……」
おふくが震える声で振り向く。だが芳一は、それに答えず、ゆっくりと琵琶の弦に指を置いた。
ポーン……。
その音は、浜の風よりも柔らかく、波の引き際よりも静かに広がっていった。すると、海面がざわめいた。
風もないのに、水面がさざなみ、中心からゆるやかに渦を描く。そして、その中央──白く透きとおった小さな手のひらが、ゆっくりと浮かび上がった。
おふくが悲鳴を上げかけたとき、芳一は再び弦を鳴らした。
すると、手はしずかに溶けるように波へ還った。あとには何も残らなかった。
「……琵琶の音が、娘を……?」
おふくがすがるように問うたが、芳一は首を横に振る。
「わかりません。ですが……今の声は、この世のものではなかった」
◇
背後で、重く湿った声がした。
「……貝のなかに……子らの声を……宿したのだ……」
それは盛嗣だった。彼は、砂浜の傍らに立ち、白い着物の裾を濡らしながら、ただ、空を見上げていた。
「……貝は……語る。けれど……語ればわたしが……沈む……沈んでしまう……」
彼の声は、多重の響きを持ち、どこか機械のようで、また、人の奥底にある声のようでもあった。
和尚がそっと一歩、彼に近づいた。
「……それは、お主だけが背負うものではない。語りとは、ただ口を開くことではない。誰かに託すことだ」
盛嗣は、動かぬ目で和尚を見ていた。だが、なにかを振り払うように、首を左右にふると、海へと向き直り、波間に漂うように歩き出していく。
「もう、……わたしが、わたしではなくなる前に……」
その声は、砂に吸い込まれるように消えていった。
◇
「和尚様……」
芳一の声が小さく漏れた。
和尚は、ゆっくりと答えた。
「……裂け口、地獄の門と呼ばれるものだ。成仏せぬ魂が溜まり、声が語られぬまま堆積すると、あれが開く。海が“耳”になる。貝を通して、声なき者を誘う“口”にもなる」
「では……盛嗣は、それを……?」
和尚はうなずいた。
「守っていた。己の身を“蓋”としてな」
芳一は、そっと琵琶を抱え直した。砂の上で、どこかの貝が、カチリ、と音を立てて閉じた。
その音に、彼の心は震えた。
(語らねばならぬ。語るとは、ただ声にすることではない──)
遠く、空の向こうで、鐘のような音が鳴った。
ゴーン……
ゴーーン……
ゴーーーン……
地獄の門の予兆であることを、芳一はまだ知らなかった。
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