耳あり芳一【第二話】貝を拾う声②
芳一と和尚、怨念渦巻く気比の浜を彷徨う──
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第三章「盛嗣、崩れゆく声」
潮が引いた浜に、風の音だけが残った。
薄曇りの空が、かすかな黄を帯びながら広がり、海と陸との境が曖昧になっていく。
芳一は、立ち止まった。
何かの気配を、耳の奥で感じたのだ。琵琶の背がわずかに軋む。
「……和尚様」
呼びかけながら、左の掌を海に向けて開く。風に乗って、誰かの息が触れたように感じられた。
そのときだった。
「──ひろ……おって……」
砂と波の狭間から、微かに声が立った。幼い、だが重く濁った、いくつもの声が重なって聞こえる。
芳一は静かに跪き、耳を澄ませた。
だが、すぐ近くで波が音を立てたのに、声の主の姿はない。
◇
背後で、和尚が口を開いた。
「これは……裂け口じゃな」
「裂け口……ですか」
「成仏せぬ魂が、声を求め、溜まり続けたとき……海とこの世との境が、裂ける。音は呼びかけとなり、やがて門を招く」
「門……、ですか」
和尚は頷かず、ただ空を見上げた。
「まだ、そこまでではない。だが、兆しはある。放っておけば……いずれ“あれ”が、開く」
「“あれ”とは──」
「名を呼べば近づくゆえ、いまは“門”とだけ申しておこう」
◇
空気がぬめるように湿り、耳鳴りが一瞬、キィンと走った。
そして──
「……わたしが……わたしが誰だったか……」
低い、かすれた、けれど不気味なほど耳に残る声が、浜の奥から聞こえた。
二人が視線を向ける先、砂丘の影に、人の形のようなものが揺れていた。
顔は、はっきりとは見えない。ただ、輪郭が曖昧に滲み、風に溶け込むように揺れている。
それが、かつて語りの守人と呼ばれた、平盛嗣であった。
◇
「……もう、語れぬ……わたしの中に、あまりに多く……あまりに……あれが、来てしまう……」
盛嗣の声は、ひとつではなかった。
男の声、女の声、子の声──そのすべてが、かすかに時差をもって響いていた。
和尚が歩み出ようとしたが、芳一が制した。
「おそらく、彼は……怨霊ではありません」
「……うむ。だが、怨霊を呼ぶ“器”には、なっておるな」
和尚が口にしたとき、遠くで海鳥の鳴き声が、異様に長く尾を引いた。
◇
盛嗣は一歩、海に向かって歩を進めた。
その足跡は砂に残らず、影だけが地を滑るように動いた。
「……百手の……矢……封じが、ほどけて……わたしの中に……」
芳一は目を伏せ、静かに琵琶の弦を撫でた。だが音は出さなかった。
今はまだ、奏でる時ではない。
海の底から、じわじわと膨らむように、無数のささやきが湧き上がっていた。
それは語りではなく、呻きでもなく、ただ「ひろって……」と繰り返すだけの、空虚な呼びかけだった。
そして、その声に混じって、確かに一言──
「おかあ……さん……」
という、小さな声が響いた。
◇
和尚が静かに呟いた。
「裂け口が、開きはじめておる……」
◇
「芳一、琵琶を──」
和尚の言葉に、芳一はゆっくりとうなずいた。
背に負った琵琶を下ろし、そっと弦に手を置く。風の中に、微かに木魚の音が混じる。
──ポク、ポク。
それは和尚の手からではない。木魚が、勝手に鳴っていた。
「般若の……木魚……?」
「仏の力が、勝手に震えておる。霊が近い。いや……」
和尚の口調がわずかに変わる。
「“門”が、こちらを覗いている」
ゴーン──。
低い、鐘のような音が浜の彼方から響いた。
誰かが鐘を鳴らしたのではない。大気そのものが共鳴したような、耳の奥に染みる音。
ゴーーン。
ゴーーーーン……。
空が震え、浜の中央に、黒い裂け目のような“何か”が浮かび上がった。
それは空中に立つ巨大な門のようで、だが柱も扉もない。ただ裂け目。地獄とこの世をつなぐ、ただの“口”。
◇
「門ではない、裂け口だ……まだ完全には開いておらん」
和尚が呟く。
芳一は、琵琶の弦を、そっと一音だけ鳴らした。
──ポロン。
その音は、風の流れを変え、海から這い上がろうとする“声”たちを、いったん黙らせた。
「芳一、お前の声で……ここに在る者を、呼んでみよ。己を失った魂を、“名”で呼ぶのじゃ」
「名を……」
芳一は目を伏せ、ゆっくりと唇を動かした。
「……盛嗣……盛嗣殿……あなたは、語りの守人。今も……声の道におられますか……」
返答はなかった。
だが、裂け口の前に立つ影が、わずかに震えた。
そして──
「……名を……忘れて……いた……」
その声が、小さく言った。
◇
影は次第に崩れ、海霧の中へと溶けていった。
裂け口は、裂けたままだったが、その広がりは止まった。鐘の音も消え、空気が、僅かに戻る。
芳一は、琵琶を胸に抱えたまま立ち尽くしていた。
和尚がそっと肩に手を置いた。
「まだ……封じ切ったわけではない」
「ええ……わかっています」
芳一はそっと呟いた。
「でも──“誰か”が、戻ってこれた気がしました」
和尚は頷き、背後で木魚がまた、ひとつだけ鳴った。
──ポク。
その音は、裂け口の最後の余韻を、静かに閉じた。
第四章「浜に満ちる夜」
◇
日は落ちた。
気比の浜に夜が満ちると、潮の匂いがぐっと重たくなる。風はひとしきり止み、空には星も月もなく、ただ一面に墨を流したような闇が広がっていた。
村の広場には火が灯り、焚き火の煙がひくく漂う。
松明を手にした又八が、その炎越しに村人たちを見回した。
「もう、限界じゃ……なぁ、みんな」
彼の声は思ったよりも静かで、痛みすら帯びていた。
誰も答えない。だが、その沈黙の奥には、同じ思いが燻っている。
おるいが消えた夜から、誰も満足に眠れていない。
波の音が、眠りの底まで追いかけてくるのだ。小さな声を連れて。
「盛嗣……あの者が、何もかもを連れてきた」
又八の手が、松明の柄をぎゅっと握りしめる。
「語りの守人だか何だか知らねぇが、今あいつは語れず、呻いているだけだ。……なら、どうする。あれが“招いている”としたら?」
長老・嘉兵衛が杖を突いて進み出た。
その眼差しはかすかに濁り、老いの奥に言葉にならぬものを湛えていた。
「盛嗣様は、呼んではおらぬ……」
その声はしわがれていたが、はっきりとした輪郭を持っていた。
「むしろ、押しとどめておられるのだ。語りとは、門を閉じる力。だが語れぬ者には、その門が……」
「門? 裂け口のことか」
いつの間にか和尚が背後に立っていた。
深い笠の下から、声だけがすっと夜に溶ける。
「語りを失った地には、裂け口が生まれる。それを埋めるのが、語りの役目じゃ。盛嗣は──声の堰(せき)となっておる」
「声の……堰?」
又八はわずかに揺れたが、すぐに顔をゆがめた。
「だったらなぜ、あの夜から何も語らぬ? 村がどれだけ苦しんでるか……!」
和尚の木魚が、コクン、と一度だけ鳴った。
それは火の揺れよりも静かに、しかしはっきりと、皆の胸の奥に沈んだ。
◇
夜の浜は、黒い海と陸との境目が曖昧だった。
又八は、たったひとりで波打ち際に立っていた。松明の火は頼りなく、風もなく、音もない。
ただ──
波が、逆さに満ちてくる。
寄せる波ではなく、海の底から“持ち上げるような”水音が、足元をくすぐる。
冷たい。だが寒くはない。ただ、しっとりと濡れた何かが皮膚を這うようだった。
──見える。
沖合に、ひとつの“ひかり”が立っていた。
それは人のかたちをしていたが、目鼻ははっきりせず、顔だけが曖昧ににじんでいる。
夜気の中、ぼんやりとゆれるそれは、盛嗣であることを又八は直感した。
「お前が……おるいを……」
叫ぼうとした声が、喉の奥で泡のように溶けた。
“それ”の口がゆっくりと開いた。
「わたしでは……ない……のに……」
まるで自分を責めるような、その言葉に、又八の足元がふっと崩れた。
波でも砂でもない、声が引いた。
次の瞬間──彼は沈むように、ゆっくりと浜に膝をついた。
倒れる。ゆっくりと。
松明の火が、濡れた砂にしゅっと吸い込まれた。
◇
朝。
村の者が浜に駆け寄ると、又八は潮だまりの中で静かに倒れていた。
息はある。だが目は見開かれ、遠くを見ている。
「かいを……ひろ……って……」
その口から、ころりと貝殻がこぼれ落ちた。
小さな、巻き貝。まだ濡れている。
嘉兵衛が貝をそっと拾い上げ、震える声で呟いた。
「盛嗣様は……貝の中に、子らの声を封じておられるのか……」
その手のひらの中で、巻き貝がひときわ冷たく、鈍く光った。
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