見出し画像

耳あり芳一【第二話】貝を拾う声②

芳一と和尚、怨念渦巻く気比の浜を彷徨う──


巻頭はコチラ

前回はコチラ


第三章「盛嗣、崩れゆく声」



 潮が引いた浜に、風の音だけが残った。
 薄曇りの空が、かすかな黄を帯びながら広がり、海と陸との境が曖昧になっていく。

 芳一は、立ち止まった。
 何かの気配を、耳の奥で感じたのだ。琵琶の背がわずかに軋む。

 「……和尚様」

 呼びかけながら、左の掌を海に向けて開く。風に乗って、誰かの息が触れたように感じられた。

 そのときだった。

 「──ひろ……おって……」

 砂と波の狭間から、微かに声が立った。幼い、だが重く濁った、いくつもの声が重なって聞こえる。

 芳一は静かに跪き、耳を澄ませた。
 だが、すぐ近くで波が音を立てたのに、声の主の姿はない。



 背後で、和尚が口を開いた。

 「これは……裂け口じゃな」

 「裂け口……ですか」

 「成仏せぬ魂が、声を求め、溜まり続けたとき……海とこの世との境が、裂ける。音は呼びかけとなり、やがて門を招く」

 「門……、ですか」

 和尚は頷かず、ただ空を見上げた。

 「まだ、そこまでではない。だが、兆しはある。放っておけば……いずれ“あれ”が、開く」

 「“あれ”とは──」

 「名を呼べば近づくゆえ、いまは“門”とだけ申しておこう」



 空気がぬめるように湿り、耳鳴りが一瞬、キィンと走った。
 そして──

 「……わたしが……わたしが誰だったか……」

 低い、かすれた、けれど不気味なほど耳に残る声が、浜の奥から聞こえた。

 二人が視線を向ける先、砂丘の影に、人の形のようなものが揺れていた。
 顔は、はっきりとは見えない。ただ、輪郭が曖昧に滲み、風に溶け込むように揺れている。

 それが、かつて語りの守人と呼ばれた、平盛嗣たいらのもりつぐであった。



 「……もう、語れぬ……わたしの中に、あまりに多く……あまりに……あれが、来てしまう……」

 盛嗣の声は、ひとつではなかった。
 男の声、女の声、子の声──そのすべてが、かすかに時差をもって響いていた。

 和尚が歩み出ようとしたが、芳一が制した。

 「おそらく、彼は……怨霊ではありません」

 「……うむ。だが、怨霊を呼ぶ“器”には、なっておるな」

 和尚が口にしたとき、遠くで海鳥の鳴き声が、異様に長く尾を引いた。



 盛嗣は一歩、海に向かって歩を進めた。
 その足跡は砂に残らず、影だけが地を滑るように動いた。

 「……百手の……矢……封じが、ほどけて……わたしの中に……」

 芳一は目を伏せ、静かに琵琶の弦を撫でた。だが音は出さなかった。
 今はまだ、奏でる時ではない。

 海の底から、じわじわと膨らむように、無数のささやきが湧き上がっていた。
 それは語りではなく、呻きでもなく、ただ「ひろって……」と繰り返すだけの、空虚な呼びかけだった。

 そして、その声に混じって、確かに一言──

 「おかあ……さん……」

 という、小さな声が響いた。



 和尚が静かに呟いた。

 「裂け口が、開きはじめておる……」




 「芳一、琵琶を──」

 和尚の言葉に、芳一はゆっくりとうなずいた。

 背に負った琵琶を下ろし、そっと弦に手を置く。風の中に、微かに木魚の音が混じる。
──ポク、ポク。
 それは和尚の手からではない。木魚が、勝手に鳴っていた。

 「般若の……木魚……?」

 「仏の力が、勝手に震えておる。霊が近い。いや……」

 和尚の口調がわずかに変わる。

 「“門”が、こちらを覗いている」

ゴーン──。

 低い、鐘のような音が浜の彼方から響いた。
 誰かが鐘を鳴らしたのではない。大気そのものが共鳴したような、耳の奥に染みる音。

ゴーーン。
 ゴーーーーン……。


 空が震え、浜の中央に、黒い裂け目のような“何か”が浮かび上がった。
 それは空中に立つ巨大な門のようで、だが柱も扉もない。ただ裂け目。地獄とこの世をつなぐ、ただの“口”。



 「門ではない、裂け口だ……まだ完全には開いておらん」

 和尚が呟く。

 芳一は、琵琶の弦を、そっと一音だけ鳴らした。
 ──ポロン。
 その音は、風の流れを変え、海から這い上がろうとする“声”たちを、いったん黙らせた。

 「芳一、お前の声で……ここに在る者を、呼んでみよ。己を失った魂を、“名”で呼ぶのじゃ」

 「名を……」

 芳一は目を伏せ、ゆっくりと唇を動かした。

 「……盛嗣……盛嗣殿……あなたは、語りの守人。今も……声の道におられますか……」

 返答はなかった。

 だが、裂け口の前に立つ影が、わずかに震えた。
 そして──

 「……名を……忘れて……いた……」

 その声が、小さく言った。



 影は次第に崩れ、海霧の中へと溶けていった。
 裂け口は、裂けたままだったが、その広がりは止まった。鐘の音も消え、空気が、僅かに戻る。

 芳一は、琵琶を胸に抱えたまま立ち尽くしていた。
 和尚がそっと肩に手を置いた。

 「まだ……封じ切ったわけではない」

 「ええ……わかっています」

 芳一はそっと呟いた。

 「でも──“誰か”が、戻ってこれた気がしました」

 和尚は頷き、背後で木魚がまた、ひとつだけ鳴った。

 ──ポク。

 その音は、裂け口の最後の余韻を、静かに閉じた。

第四章「浜に満ちる夜」




 日は落ちた。
 気比の浜に夜が満ちると、潮の匂いがぐっと重たくなる。風はひとしきり止み、空には星も月もなく、ただ一面に墨を流したような闇が広がっていた。

 村の広場には火が灯り、焚き火の煙がひくく漂う。
 松明を手にした又八が、その炎越しに村人たちを見回した。

 「もう、限界じゃ……なぁ、みんな」

 彼の声は思ったよりも静かで、痛みすら帯びていた。
 誰も答えない。だが、その沈黙の奥には、同じ思いが燻っている。
 おるいが消えた夜から、誰も満足に眠れていない。
 波の音が、眠りの底まで追いかけてくるのだ。小さな声を連れて。

 「盛嗣……あの者が、何もかもを連れてきた」

 又八の手が、松明の柄をぎゅっと握りしめる。
 「語りの守人だか何だか知らねぇが、今あいつは語れず、呻いているだけだ。……なら、どうする。あれが“招いている”としたら?」

 長老・嘉兵衛が杖を突いて進み出た。
 その眼差しはかすかに濁り、老いの奥に言葉にならぬものを湛えていた。

 「盛嗣様は、呼んではおらぬ……」
 その声はしわがれていたが、はっきりとした輪郭を持っていた。
 「むしろ、押しとどめておられるのだ。語りとは、門を閉じる力。だが語れぬ者には、その門が……」

 「門? 裂け口のことか」
 いつの間にか和尚が背後に立っていた。
 深い笠の下から、声だけがすっと夜に溶ける。
 「語りを失った地には、裂け口が生まれる。それを埋めるのが、語りの役目じゃ。盛嗣は──声の堰(せき)となっておる」

 「声の……堰?」
 又八はわずかに揺れたが、すぐに顔をゆがめた。
 「だったらなぜ、あの夜から何も語らぬ? 村がどれだけ苦しんでるか……!」

 和尚の木魚が、コクン、と一度だけ鳴った。
 それは火の揺れよりも静かに、しかしはっきりと、皆の胸の奥に沈んだ。



 夜の浜は、黒い海と陸との境目が曖昧だった。
 又八は、たったひとりで波打ち際に立っていた。松明の火は頼りなく、風もなく、音もない。

 ただ──

 波が、逆さに満ちてくる。

 寄せる波ではなく、海の底から“持ち上げるような”水音が、足元をくすぐる。
 冷たい。だが寒くはない。ただ、しっとりと濡れた何かが皮膚を這うようだった。

 ──見える。

 沖合に、ひとつの“ひかり”が立っていた。
 それは人のかたちをしていたが、目鼻ははっきりせず、顔だけが曖昧ににじんでいる。
 夜気の中、ぼんやりとゆれるそれは、盛嗣であることを又八は直感した。

 「お前が……おるいを……」
 叫ぼうとした声が、喉の奥で泡のように溶けた。

 “それ”の口がゆっくりと開いた。

 「わたしでは……ない……のに……」

 まるで自分を責めるような、その言葉に、又八の足元がふっと崩れた。
 波でも砂でもない、声が引いた。
 次の瞬間──彼は沈むように、ゆっくりと浜に膝をついた。

 倒れる。ゆっくりと。

 松明の火が、濡れた砂にしゅっと吸い込まれた。



 朝。
 村の者が浜に駆け寄ると、又八は潮だまりの中で静かに倒れていた。

 息はある。だが目は見開かれ、遠くを見ている。

 「かいを……ひろ……って……」

 その口から、ころりと貝殻がこぼれ落ちた。
 小さな、巻き貝。まだ濡れている。

 嘉兵衛が貝をそっと拾い上げ、震える声で呟いた。

 「盛嗣様は……貝の中に、子らの声を封じておられるのか……」

 その手のひらの中で、巻き貝がひときわ冷たく、鈍く光った。



※毎日夜7〜8時あたりに投稿しています。ハートマーク(スキ)押していただけると、とても嬉しいです。よろしくお願いします。

続きはコチラ

宜しければコチラもご覧下さい

※感想もお気軽にどうぞ

いいなと思ったら応援しよう!

北南屋 よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!