父が65歳で退社して、67歳で私の職場に来た日。作業療法士の息子が、認知症の入り口で父を引き戻した話
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プロローグ
夏の昼下がりだった。
特養の駐車場で、父がデイサービスの送迎車を洗っていた。汗だくになりながら、黙々とホースで水をかけ、スポンジで車体をこすっていた。
私はちょうど機能訓練の合間に外を通りかかって、その姿を遠目に見ていた。
声をかけることはしなかった。父は仕事中だ。私は私で仕事の途中だ。ただ、一瞬だけ立ち止まって、その背中を見た。
——この姿を、2年前の私は想像できていなかった。
退社して、家のソファに座って、テレビをつけたまま眠っていたあの父が、今、夏の炎天下で1人黙々と車を洗っている。
私は何も言わずに、自分の持ち場に戻った。
これは、その2年間の話だ。
第1章:私が知らない、父の仕事
正直に言うと、私は父がパナソニックで何の仕事をしていたのか、よく知らない。
何の部署にいたのか、どんな役職だったのか、聞いたこともない。父が家で仕事の話をすることはほとんどなかったし、私も聞こうとしなかった。
これは、私と父の距離感をそのまま表していると思う。
私は父があまり好きではなかった。子どもの頃からずっと、そうだった。
父は短気で、家の中で気分を害するとすごく怒る人だった。0か100しかない人。外食に行こうとして店がなかなか決まらないと、「もういかん」と激怒して、結局その日は何も食べないという日もあった。
母は車の運転ができない人だったので、父がイライラしている間、仕方なく母が近所にお弁当を買いに行ってくれて、私と母で一緒に食べた。父は買ってきてもらっても食べなかった。
今でいう「フキハラ」——不機嫌ハラスメント——が、強い人だったと思う。
家の空気が、父1人の機嫌で決まる。
繊細な性格だった私は、その空気を全部受け取ってしまっていた。父の顔色を読みながら育った、と言ってもいいかもしれない。だから、父のことが大嫌いだった。
ただ、父にも優しい部分はあった。
急な用事があってどこかに連れていってほしいと頼むと、基本的には嫌な顔をせず連れて行ってくれた。そして社会人1年目、私が毎晩23時まで罵倒され続けた職場を辞める最終日、父は事務長に対して必死に話をしてくれた。あれは、今でもありがたかったと思っている。
嫌な部分も、良い部分もある。
でも繊細な私にとっては、ひっくるめると「苦手」という言葉に収まってしまう人。それが私にとっての父だった。
そんな父と、今、同じ職場で働いている。
第2章:65歳、退社の日
父は65歳でパナソニックを定年退社した。
退社が決まった時の父に、不安はなさそうだった。
「これからどうしよう」という顔ではなかった。むしろ、淡々としていた。父は元々じっとゴロゴロするのが苦手な方の人だった。家にいる時も、車をきれいに磨いたり、庭で花を育てたりしていた。ハナミズキが好きで、季節になると父が世話をしている姿をよく見た。
退社してすぐの数ヶ月、父は園芸をしたり、車をいじったり、散歩に出かけたりしていた。「自由になった」という解放感もあったのかもしれない。
でも今振り返ると、思う。
仕事人間だった父にとって、平日の昼間に「やることがない」という時間は、想像以上に長かったんじゃないか。
退屈、という言葉では足りない何かが、たぶんあったんだと思う。
母は今もフルタイムで働いている。家にいるのは父だけ。
最初の頃は、それでも何とかなっていた。日中に散歩に出る。庭の手入れをする。父なりにルーティンを作ろうとしていたように見えた。
問題が見え始めたのは、その先だった。
第3章:何もしない2年間
65歳から67歳まで。
この2年間で、父は少しずつ変わっていった。
最初の頃は散歩に出ていたのに、だんだん家の中にいる時間が長くなった。マッサージ器に座って、テレビで野球を見ながら、いつの間にか眠っている。そんな光景が増えていった。
身だしなみには、父は割と気を遣う方だった。だから外見的に「だらしなくなった」というような変化はなかったと思う。妻や娘——父にとっての孫——に対して怒ることもなかった。
でも、表情の変化が少なくなった気がしていた。
それから、耳が遠くなった。これがいつ頃からだったのか、正確には覚えていない。でも気づいた時には、こちらが何度か言わないと聞こえなくなっていた。
車の運転中のイライラが増えた、というのも妻が指摘していた。元々短気な父が、運転中にさらに苛立ちやすくなった。
これらは、1つひとつは些細な変化だった。
「年を取れば誰でもそうなる」と言えば、そう片付けられるレベルの話だった。
だから私は、特に何も感じていなかったと思う。
——変化に最初に気づいたのは、妻だった。
第4章:「お義父さん、認知機能が落ちてるんじゃないかな」
ある日、仕事から帰ったタイミングだったと思う。家で、妻がふとそう言った。
「最近お義父さん、耳も遠くなったし、認知機能も低下してきているんじゃないかな?」
妻は理学療法士で、専業主婦になってからも観察眼は鋭いままだった。私よりも父と関わる機会が多かった。実家に娘を連れて遊びに行く頻度も、私より妻のほうが圧倒的に高かった。
その妻が、はっきりとそう言った。
正直に書くと、私はその時、特に何も感じなかった。
「ふーん、そうか」程度の感覚だった。動揺もしなかったし、否認もしなかった。焦りも湧かなかった。
これは、息子としては薄情なのかもしれない。
でも、たぶん私の中で、父との心理的な距離がそうさせていたんだと思う。子どもの頃からずっと、父との間には見えない壁があった。父が苦手な私にとって、父の状態を自分のことのように受け取るのは、難しかった。
ただ、OTとしての視点は、別のところで動き始めていた。
確かに父には、廃用症候群や社会的孤立のリスクがある。役割を失って、人との関わりが減って、家にいる時間が増えている。これは認知症の典型的なリスク因子だ。
でも、診断が下りたわけじゃない。一過性のものかもしれない。MCI——軽度認知障害——の可能性もあるけれど、その入り口にいるのか、もうそこを通り過ぎたのか、外から見ているだけではわからなかった。
何より、父にそれを伝えるのは難しかった。
プライドが高い人だ。「お前、認知症かもしれないぞ」なんて、息子の口から言われたら、絶対に否定するだろう。むしろ激怒するかもしれない。
だから私は、しばらく様子を見ることにした。
OTとして16年、利用者様の認知症の進行を何例も見てきた。早く介入できれば防げる、もしくは遅らせられるケースがあることも知っている。
それでも、私は父に対して、しばらく動かなかった。
——動くきっかけは、別のところから来た。
第5章:「仕事、探してる?」
それは本当に、ふとした瞬間だった。
実家に立ち寄った時だったと思う。父と何気ない会話をしていた中で、私はこう聞いた。
「仕事、探してる?」
実はこの問いかけ、初めてではなかった。
1年ほど前にも一度、同じことを聞いたことがあった。その時、父は「トヨタのディーラーで洗車の仕事がないか探している」と答えていた。父らしいなと思った。手を動かす仕事。1人で黙々とできる仕事。父にはきっと合っている。
でも、その話はそこから進まなかった。父は「探している」と言うだけで、実際に動いている様子はなかった。
そして1年が経った。
その間に、私の職場で1つの動きが出てきていた。同じような年齢の方が退職する予定があって、その後任を募集することになっていたのだ。
仕事の内容を聞いた時、私は思った。
——これ、父にできるんじゃないか。
デイサービスの送迎、車両の洗車、施設周りの草抜き、簡単な修理。1人で黙々と進められる仕事ばかりだ。父の性格に合う。
正直に言うと、私の中に葛藤はなかった。
「息子の職場で働くこと」を父がどう感じるかは、父の課題だ。「父を職場に紹介すること」が同僚にどう見えるかも、考えてもどうにもならない。私と父は同じ部署ではないし、業務でも直接関わらない。身内ではあるけれど、仕事の場では他人だ。
これは、私がアドラー心理学を13年読み続けてきた中で、自然に身についた考え方かもしれない。
課題の分離。
父の課題と、私の課題と、職場の課題は、それぞれ別物だ。
私にできるのは、父に選択肢を提示することだけ。受けるかどうかは父が決める。
だから私は、「仕事、探してる?」と聞いた。
職場に紹介するつもりで、聞いた。
父の返事は、いつもの父の声だった。
「おう。ぼちぼちな」
特別なトーンじゃなかった。テンションが上がっているわけでも、興味なさそうにしているわけでもない。父はそういう人だ。感情を大きく動かさない。
でも、その「ぼちぼち」の中に、少しだけ前向きさが含まれているのを、私は感じた。
私が職場の話をすると、父はそこそこ乗り気だった。職場側でも「一度面接してみよう」という話になり、トントン拍子に話は進んだ。
スムーズに、決まった。
第6章:父の初出勤
父が初出勤した日のことを覚えている。
久しぶりにスーツを着ていた。少し緊張していたように見えた。65歳までずっとスーツを着て働いてきた人が、2年のブランクを経て、また袖を通している。その姿は、息子の私にとっても少し新鮮だった。
私はその日、特に父に何も声をかけなかった。
職場では、私と父は他人だ。声をかけて緊張させても仕方ない。私は自分の仕事をして、父は父の仕事を始めた。
職場の同僚が父をどう迎えたのか、私には正確にはわからない。部署が違うから、その場にいなかった。
ただ、事務所からは丁寧に父に接してくれていたと思う。父がスムーズに仕事を覚えられるように、配慮してくれていた。
父は、覚えるのが特別早いタイプではなかったと思う。でも黙々と、1つひとつの仕事を覚えていった。
最初の数週間、私は父の様子を遠目に見ていた。
仕事中はすれ違っても挨拶を交わすだけ。父も私を「息子」として扱わなかった。私も父を「父」として扱わなかった。職員同士として、淡々と挨拶をする。それだけだった。
不思議な感覚だった。
家では「苦手」と感じていた父が、職場では「同じ施設で働く年上の職員」になる。距離感が、家にいる時とはまったく違った。
職場の父のほうが、私にとっては関わりやすかった。
これも、課題の分離の延長線上にあるのかもしれない。
第7章:父の仕事
父の仕事内容は、こうだ。
デイサービスの送迎。朝、利用者様を自宅まで迎えに行って、施設まで送る。夕方、また自宅まで送り届ける。
施設の車両の洗車。1日に3台から4台。
施設周りの草抜き。
簡単な修理。扉が開きにくいと言われれば、工具を持って調整しに行く。職員から「ここが壊れた」と相談されると、見に行って直す。
修理の腕は、たぶんパナソニック時代だけのものではない。
父はパナソニックに勤める前、板金屋で働いていた。板金というのは、自動車のボディの修理や塗装、金属の加工を専門にする仕事だ。事故で凹んだ車を叩いて元の形に戻したり、塗装し直したり——そういう、手で金属を扱う仕事。
母は当時パナソニックの社員で、板金の関係でパナソニックに出入りしていたらしい。そこで2人は出会った。そしてある時、パナソニックの偉い人から父がヘッドハンティングされて、パナソニックに移った——というのが、家族の中で伝わっている話だ。
つまり父は、若い頃から「手で何かを直す」ことを仕事にしてきた人だった。
その経験が、今、特養で活きている。
扉の調整、簡単な機械の修理、車両のメンテナンス。職人気質、と言っていいと思う。1つの作業に黙々と向き合う。手を抜かない。納得いくまでやる。
夏も冬も、外で車を洗う。
40度近い炎天下でも、霜が降りる真冬の朝でも、父は黙々と作業を続ける。泣き言を言わない。事務所の職員が見かねて「ちょっと休憩したらいいのに」と何度も声をかけるくらい、休まずに動く。
これが、67歳の父の姿だった。
私の知っている、家でマッサージ器に座って眠っていたあの父とは、別人のように見える時がある。
第8章:「お父さんに言っといてね」
3ヶ月くらい経った頃、父は自分らしく動けるようになってきた。
職場で頼られる場面が増えた。年下の職員——というか、父より年下の職員しかいない——から、「ここの修理お願いできますか」と声をかけられる。「車のここが調子悪いんですけど」と相談される。父は1つひとつに対応していった。
私が遠目に見ていても、父は活き活きしていた。
これが「父が戻ってきた」と感じる瞬間だった。
ある日、デイサービスの職員さんが、私にこう言った。
「いつも車ピッカピカで助かってます。お父さんに言っといてね」
息子としての私を経由して、感謝が伝わってくる。
正直、私は思った。
——父に直接言ってあげればいいのに。
そのほうが、父も嬉しいはずだ。
でも、職員さんも気を遣ってくれているんだと思う。父にとって、職員さんは新しく入った職場の年下のスタッフだ。直接「ありがとう」と言うのは少し気恥ずかしいのかもしれない。だから息子の私を経由して、感謝の言葉を届けてくれている。
これも、父の人徳というか、職場での父の立ち位置の表れだと思う。
「いつも丁寧に仕事をしてくれている人」として、職員に認識されている。
——家では「苦手」だった父が、職場では誰かに必要とされている。
その事実が、息子の私にとっては、少し不思議で、少し嬉しかった。
第9章:職場での父と、息子としての私
職場で、私は父に対して特別な接し方をしない。
「父」と呼ぶこともない。「○○さん」と苗字で呼ぶこともほとんどない。仕事の動線が違うから、業務で関わる場面が少ないのだ。
すれ違ったら、きちんと挨拶をする。
「お疲れさまです」「お先に失礼します」
それだけ。
私はどの職員に対しても、同じ立ち位置で接している。父だから特別扱いをするわけでもない。父だから距離を取るわけでもない。年上の職員として、敬意を持って接する。それだけだ。
たぶん父の側も、私を「息子」として扱おうとしていない。職場ではちゃんと「職員の1人」として振る舞ってくれている。
これは、お互いにとって心地よい距離感だと思う。
家での「父と息子」と、職場での「職員同士」は、まったく別のものだ。
家では今でも、父が機嫌が悪い日には空気が重くなる。子どもの頃ほどではないけれど、私は今もその空気に少し敏感に反応してしまう。
でも職場では、そういう空気は持ち込まれない。父は職員として、礼儀正しく、淡々と仕事をしている。私もそれに合わせて、職員として接する。
「父」というラベルを一度外して、1人の人間として父を見られる時間。
それが、職場という空間の不思議なところだと思う。
第10章:1年経った今、見えてきたこと
父が再就職して、1年が経った。
今、父はどんな状態か。
認知機能が低下した様子は、特に見えない。表情は柔らかくなった。妻も最近こう言っている。
「最近、お義父さん、表情が柔らかくなったね。怒らなくなった」
母にも父はあまり文句を言わなくなったらしい。フキハラが減った。母は今もフルタイムで働いていて、家にいる時間は父のほうが長い。それでも、家の空気は以前より落ち着いている。
そして、私の娘——父にとっての孫——も最近、父に対して心を開くようになった。
以前は「じっじ怖いから嫌い」と言っていた。父の不機嫌な空気を、娘も子どもなりに感じ取っていたんだと思う。私も子どもの頃、同じだった。
でも最近は違う。週末、娘は実家に1人で遊びに行く。祖母と一緒にハンドメイドをしたり、お菓子を作ったり。そこには祖父である父もいて、娘と祖父の間にも自然な交流が生まれている。
父の表情が変わったから、娘も心を開いたんだと思う。
——父はあの2年間、何だったのか。
OTとして冷静に振り返ると、認知症ではなかった可能性が高い。
「社会的フレイル(Social Frailty)」のほうが近かったかもしれない。社会的フレイルとは、社会的な役割や人とのつながりが失われることで、心身の機能が低下していく状態のことだ。認知症の手前にある、可逆的な状態。
あるいは、「仮性認知症」と呼ばれる状態。これはうつや環境要因によって、一時的に認知症のような症状が出ることを指す。原因が解消されれば、症状も改善する。
父の場合、認知機能の低下がそこまで目立っていたわけではないので、社会的フレイルのほうがしっくりくる。
役割を失って、人との関わりが減って、家にいる時間が増えた——その結果、表情が乏しくなり、耳が遠くなり、イライラが増えた。
逆に言えば、役割と人との関わりを取り戻せば、戻る状態だった。
それが、今の父だ。
第11章:「もし紹介していなかったら」という問い
「もしあの時、仕事を紹介していなかったら、父は今どうなっていたと思いますか?」
これは、自分でも考えたことがある問いだ。
でも、正直に答えると、私にはわからない。
推測でしかないし、推測しても意味がない。
私は私、父は父。
父が認知症になるかどうかは、父の課題だ。私が決められることじゃない。
私にできたのは、選択肢を提示することだけだった。「仕事、探してる?」と聞いて、自分の職場を紹介する。それだけ。
父はそれを了承して、今も元気で働いている。
それだけだ。
「私が父を救った」とは思っていない。
紹介を受け入れたのは父自身の判断だし、3ヶ月かけて職場に馴染んだのも父自身の努力だ。夏の炎天下で1人黙々と車を洗っているのは父自身の意志だ。年下の職員から頼られているのは、父自身の人徳と仕事ぶりだ。
私はきっかけを作っただけ。
その先を進んだのは、父だ。
これも、課題の分離の話に戻ってくる。
私が父の人生を救うことはできない。父の人生は父のものだ。
でも、選択肢を差し出すことはできた。
それだけで、十分だったと思う。
エピローグ
今日も父は、特養の駐車場で車を洗っている。
私は機能訓練のラウンドで施設内を回りながら、窓の外をちらっと見る。父は背中を丸めて、黙々とスポンジを動かしている。
「お父さん」と呼ぶことはない。
すれ違うことがあれば、「お疲れさまです」と挨拶をする。それだけだ。
家に帰れば、父は今も時々機嫌が悪い日がある。私は今も、その空気に少し敏感に反応してしまう。父との関係が完璧に変わったわけじゃない。子どもの頃から続く距離感は、67歳になった父と38歳になった私の間にも、今もうっすらと残っている。
それでも。
夏の炎天下で、霜が降りる冬の朝に、父が1人黙々と車を洗っている姿を、私は知っている。
「いつも車ピッカピカで助かってます」と職員さんが言ってくれる声を、私は聞いている。
娘が「じっじ」と言いながら、実家に1人で遊びに行くのを、私は見ている。
これで、十分だ。
父が役割を持って、誰かに必要とされて、自分のペースで生きている。
それを、息子の私が間近で見られている。
苦手だった父と、こんな形で関わる日が来るとは思っていなかった。
でも、今は思う。
人は、いくつになっても、新しい役割を持てる。 新しい場所で、新しい関係を作れる。 認知症の入り口に立っていたかもしれない人が、もう一度活き返ることもある。
そのきっかけは、案外、ささやかな一言だったりする。
「仕事、探してる?」
たった、それだけの言葉から。
作業療法士16年目|特別養護老人ホーム・ユニットケア勤務|元認知症ケア指導管理士|HSP・ISFJ
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