見出し画像

父が65歳で退社して、67歳で私の職場に来た日。作業療法士の息子が、認知症の入り口で父を引き戻した話

※この記事にはAmazonアソシエイトなどのアフィリエイトリンクを含みます。🎧 動画でも観れます(YouTube) 👇👇👇

プロローグ

夏の昼下がりだった。

特養の駐車場で、父がデイサービスの送迎車を洗っていた。汗だくになりながら、黙々とホースで水をかけ、スポンジで車体をこすっていた。

私はちょうど機能訓練の合間に外を通りかかって、その姿を遠目に見ていた。

声をかけることはしなかった。父は仕事中だ。私は私で仕事の途中だ。ただ、一瞬だけ立ち止まって、その背中を見た。

——この姿を、2年前の私は想像できていなかった。

退社して、家のソファに座って、テレビをつけたまま眠っていたあの父が、今、夏の炎天下で1人黙々と車を洗っている。

私は何も言わずに、自分の持ち場に戻った。

これは、その2年間の話だ。


第1章:私が知らない、父の仕事

正直に言うと、私は父がパナソニックで何の仕事をしていたのか、よく知らない。

何の部署にいたのか、どんな役職だったのか、聞いたこともない。父が家で仕事の話をすることはほとんどなかったし、私も聞こうとしなかった。

これは、私と父の距離感をそのまま表していると思う。

私は父があまり好きではなかった。子どもの頃からずっと、そうだった。

父は短気で、家の中で気分を害するとすごく怒る人だった。0か100しかない人。外食に行こうとして店がなかなか決まらないと、「もういかん」と激怒して、結局その日は何も食べないという日もあった。

母は車の運転ができない人だったので、父がイライラしている間、仕方なく母が近所にお弁当を買いに行ってくれて、私と母で一緒に食べた。父は買ってきてもらっても食べなかった。

今でいう「フキハラ」——不機嫌ハラスメント——が、強い人だったと思う。

家の空気が、父1人の機嫌で決まる。

繊細な性格だった私は、その空気を全部受け取ってしまっていた。父の顔色を読みながら育った、と言ってもいいかもしれない。だから、父のことが大嫌いだった。

ただ、父にも優しい部分はあった。

急な用事があってどこかに連れていってほしいと頼むと、基本的には嫌な顔をせず連れて行ってくれた。そして社会人1年目、私が毎晩23時まで罵倒され続けた職場を辞める最終日、父は事務長に対して必死に話をしてくれた。あれは、今でもありがたかったと思っている。

嫌な部分も、良い部分もある。

でも繊細な私にとっては、ひっくるめると「苦手」という言葉に収まってしまう人。それが私にとっての父だった。

そんな父と、今、同じ職場で働いている。


第2章:65歳、退社の日

父は65歳でパナソニックを定年退社した。

退社が決まった時の父に、不安はなさそうだった。

「これからどうしよう」という顔ではなかった。むしろ、淡々としていた。父は元々じっとゴロゴロするのが苦手な方の人だった。家にいる時も、車をきれいに磨いたり、庭で花を育てたりしていた。ハナミズキが好きで、季節になると父が世話をしている姿をよく見た。

退社してすぐの数ヶ月、父は園芸をしたり、車をいじったり、散歩に出かけたりしていた。「自由になった」という解放感もあったのかもしれない。

でも今振り返ると、思う。

仕事人間だった父にとって、平日の昼間に「やることがない」という時間は、想像以上に長かったんじゃないか。

退屈、という言葉では足りない何かが、たぶんあったんだと思う。

母は今もフルタイムで働いている。家にいるのは父だけ。

最初の頃は、それでも何とかなっていた。日中に散歩に出る。庭の手入れをする。父なりにルーティンを作ろうとしていたように見えた。

問題が見え始めたのは、その先だった。


第3章:何もしない2年間

65歳から67歳まで。

この2年間で、父は少しずつ変わっていった。

最初の頃は散歩に出ていたのに、だんだん家の中にいる時間が長くなった。マッサージ器に座って、テレビで野球を見ながら、いつの間にか眠っている。そんな光景が増えていった。

身だしなみには、父は割と気を遣う方だった。だから外見的に「だらしなくなった」というような変化はなかったと思う。妻や娘——父にとっての孫——に対して怒ることもなかった。

でも、表情の変化が少なくなった気がしていた。

それから、耳が遠くなった。これがいつ頃からだったのか、正確には覚えていない。でも気づいた時には、こちらが何度か言わないと聞こえなくなっていた。

車の運転中のイライラが増えた、というのも妻が指摘していた。元々短気な父が、運転中にさらに苛立ちやすくなった。

これらは、1つひとつは些細な変化だった。

「年を取れば誰でもそうなる」と言えば、そう片付けられるレベルの話だった。

だから私は、特に何も感じていなかったと思う。

——変化に最初に気づいたのは、妻だった。


第4章:「お義父さん、認知機能が落ちてるんじゃないかな」

ある日、仕事から帰ったタイミングだったと思う。家で、妻がふとそう言った。

「最近お義父さん、耳も遠くなったし、認知機能も低下してきているんじゃないかな?」

妻は理学療法士で、専業主婦になってからも観察眼は鋭いままだった。私よりも父と関わる機会が多かった。実家に娘を連れて遊びに行く頻度も、私より妻のほうが圧倒的に高かった。

その妻が、はっきりとそう言った。

正直に書くと、私はその時、特に何も感じなかった。

「ふーん、そうか」程度の感覚だった。動揺もしなかったし、否認もしなかった。焦りも湧かなかった。

これは、息子としては薄情なのかもしれない。

でも、たぶん私の中で、父との心理的な距離がそうさせていたんだと思う。子どもの頃からずっと、父との間には見えない壁があった。父が苦手な私にとって、父の状態を自分のことのように受け取るのは、難しかった。

ただ、OTとしての視点は、別のところで動き始めていた。

確かに父には、廃用症候群や社会的孤立のリスクがある。役割を失って、人との関わりが減って、家にいる時間が増えている。これは認知症の典型的なリスク因子だ。

でも、診断が下りたわけじゃない。一過性のものかもしれない。MCI——軽度認知障害——の可能性もあるけれど、その入り口にいるのか、もうそこを通り過ぎたのか、外から見ているだけではわからなかった。

何より、父にそれを伝えるのは難しかった。

プライドが高い人だ。「お前、認知症かもしれないぞ」なんて、息子の口から言われたら、絶対に否定するだろう。むしろ激怒するかもしれない。

だから私は、しばらく様子を見ることにした。

OTとして16年、利用者様の認知症の進行を何例も見てきた。早く介入できれば防げる、もしくは遅らせられるケースがあることも知っている。

それでも、私は父に対して、しばらく動かなかった。

——動くきっかけは、別のところから来た。


第5章:「仕事、探してる?」

それは本当に、ふとした瞬間だった。

実家に立ち寄った時だったと思う。父と何気ない会話をしていた中で、私はこう聞いた。

「仕事、探してる?」

実はこの問いかけ、初めてではなかった。

1年ほど前にも一度、同じことを聞いたことがあった。その時、父は「トヨタのディーラーで洗車の仕事がないか探している」と答えていた。父らしいなと思った。手を動かす仕事。1人で黙々とできる仕事。父にはきっと合っている。

でも、その話はそこから進まなかった。父は「探している」と言うだけで、実際に動いている様子はなかった。

そして1年が経った。

その間に、私の職場で1つの動きが出てきていた。同じような年齢の方が退職する予定があって、その後任を募集することになっていたのだ。

仕事の内容を聞いた時、私は思った。

——これ、父にできるんじゃないか。

デイサービスの送迎、車両の洗車、施設周りの草抜き、簡単な修理。1人で黙々と進められる仕事ばかりだ。父の性格に合う。

正直に言うと、私の中に葛藤はなかった。

「息子の職場で働くこと」を父がどう感じるかは、父の課題だ。「父を職場に紹介すること」が同僚にどう見えるかも、考えてもどうにもならない。私と父は同じ部署ではないし、業務でも直接関わらない。身内ではあるけれど、仕事の場では他人だ。

これは、私がアドラー心理学を13年読み続けてきた中で、自然に身についた考え方かもしれない。

課題の分離。

父の課題と、私の課題と、職場の課題は、それぞれ別物だ。

私にできるのは、父に選択肢を提示することだけ。受けるかどうかは父が決める。

だから私は、「仕事、探してる?」と聞いた。

職場に紹介するつもりで、聞いた。

父の返事は、いつもの父の声だった。

「おう。ぼちぼちな」

特別なトーンじゃなかった。テンションが上がっているわけでも、興味なさそうにしているわけでもない。父はそういう人だ。感情を大きく動かさない。

でも、その「ぼちぼち」の中に、少しだけ前向きさが含まれているのを、私は感じた。

私が職場の話をすると、父はそこそこ乗り気だった。職場側でも「一度面接してみよう」という話になり、トントン拍子に話は進んだ。

スムーズに、決まった。


第6章:父の初出勤

父が初出勤した日のことを覚えている。

久しぶりにスーツを着ていた。少し緊張していたように見えた。65歳までずっとスーツを着て働いてきた人が、2年のブランクを経て、また袖を通している。その姿は、息子の私にとっても少し新鮮だった。

私はその日、特に父に何も声をかけなかった。

職場では、私と父は他人だ。声をかけて緊張させても仕方ない。私は自分の仕事をして、父は父の仕事を始めた。

職場の同僚が父をどう迎えたのか、私には正確にはわからない。部署が違うから、その場にいなかった。

ただ、事務所からは丁寧に父に接してくれていたと思う。父がスムーズに仕事を覚えられるように、配慮してくれていた。

父は、覚えるのが特別早いタイプではなかったと思う。でも黙々と、1つひとつの仕事を覚えていった。

最初の数週間、私は父の様子を遠目に見ていた。

仕事中はすれ違っても挨拶を交わすだけ。父も私を「息子」として扱わなかった。私も父を「父」として扱わなかった。職員同士として、淡々と挨拶をする。それだけだった。

不思議な感覚だった。

家では「苦手」と感じていた父が、職場では「同じ施設で働く年上の職員」になる。距離感が、家にいる時とはまったく違った。

職場の父のほうが、私にとっては関わりやすかった。

これも、課題の分離の延長線上にあるのかもしれない。


第7章:父の仕事

父の仕事内容は、こうだ。

デイサービスの送迎。朝、利用者様を自宅まで迎えに行って、施設まで送る。夕方、また自宅まで送り届ける。

施設の車両の洗車。1日に3台から4台。

施設周りの草抜き。

簡単な修理。扉が開きにくいと言われれば、工具を持って調整しに行く。職員から「ここが壊れた」と相談されると、見に行って直す。

修理の腕は、たぶんパナソニック時代だけのものではない。

父はパナソニックに勤める前、板金屋で働いていた。板金というのは、自動車のボディの修理や塗装、金属の加工を専門にする仕事だ。事故で凹んだ車を叩いて元の形に戻したり、塗装し直したり——そういう、手で金属を扱う仕事。

母は当時パナソニックの社員で、板金の関係でパナソニックに出入りしていたらしい。そこで2人は出会った。そしてある時、パナソニックの偉い人から父がヘッドハンティングされて、パナソニックに移った——というのが、家族の中で伝わっている話だ。

つまり父は、若い頃から「手で何かを直す」ことを仕事にしてきた人だった。

その経験が、今、特養で活きている。

扉の調整、簡単な機械の修理、車両のメンテナンス。職人気質、と言っていいと思う。1つの作業に黙々と向き合う。手を抜かない。納得いくまでやる。

夏も冬も、外で車を洗う。

40度近い炎天下でも、霜が降りる真冬の朝でも、父は黙々と作業を続ける。泣き言を言わない。事務所の職員が見かねて「ちょっと休憩したらいいのに」と何度も声をかけるくらい、休まずに動く。

これが、67歳の父の姿だった。

私の知っている、家でマッサージ器に座って眠っていたあの父とは、別人のように見える時がある。


第8章:「お父さんに言っといてね」

3ヶ月くらい経った頃、父は自分らしく動けるようになってきた。

職場で頼られる場面が増えた。年下の職員——というか、父より年下の職員しかいない——から、「ここの修理お願いできますか」と声をかけられる。「車のここが調子悪いんですけど」と相談される。父は1つひとつに対応していった。

私が遠目に見ていても、父は活き活きしていた。

これが「父が戻ってきた」と感じる瞬間だった。

ある日、デイサービスの職員さんが、私にこう言った。

「いつも車ピッカピカで助かってます。お父さんに言っといてね」

息子としての私を経由して、感謝が伝わってくる。

正直、私は思った。

——父に直接言ってあげればいいのに。

そのほうが、父も嬉しいはずだ。

でも、職員さんも気を遣ってくれているんだと思う。父にとって、職員さんは新しく入った職場の年下のスタッフだ。直接「ありがとう」と言うのは少し気恥ずかしいのかもしれない。だから息子の私を経由して、感謝の言葉を届けてくれている。

これも、父の人徳というか、職場での父の立ち位置の表れだと思う。

「いつも丁寧に仕事をしてくれている人」として、職員に認識されている。

——家では「苦手」だった父が、職場では誰かに必要とされている。

その事実が、息子の私にとっては、少し不思議で、少し嬉しかった。


第9章:職場での父と、息子としての私

職場で、私は父に対して特別な接し方をしない。

「父」と呼ぶこともない。「○○さん」と苗字で呼ぶこともほとんどない。仕事の動線が違うから、業務で関わる場面が少ないのだ。

すれ違ったら、きちんと挨拶をする。

「お疲れさまです」「お先に失礼します」

それだけ。

私はどの職員に対しても、同じ立ち位置で接している。父だから特別扱いをするわけでもない。父だから距離を取るわけでもない。年上の職員として、敬意を持って接する。それだけだ。

たぶん父の側も、私を「息子」として扱おうとしていない。職場ではちゃんと「職員の1人」として振る舞ってくれている。

これは、お互いにとって心地よい距離感だと思う。

家での「父と息子」と、職場での「職員同士」は、まったく別のものだ。

家では今でも、父が機嫌が悪い日には空気が重くなる。子どもの頃ほどではないけれど、私は今もその空気に少し敏感に反応してしまう。

でも職場では、そういう空気は持ち込まれない。父は職員として、礼儀正しく、淡々と仕事をしている。私もそれに合わせて、職員として接する。

「父」というラベルを一度外して、1人の人間として父を見られる時間。

それが、職場という空間の不思議なところだと思う。


第10章:1年経った今、見えてきたこと

父が再就職して、1年が経った。

今、父はどんな状態か。

認知機能が低下した様子は、特に見えない。表情は柔らかくなった。妻も最近こう言っている。

「最近、お義父さん、表情が柔らかくなったね。怒らなくなった」

母にも父はあまり文句を言わなくなったらしい。フキハラが減った。母は今もフルタイムで働いていて、家にいる時間は父のほうが長い。それでも、家の空気は以前より落ち着いている。

そして、私の娘——父にとっての孫——も最近、父に対して心を開くようになった。

以前は「じっじ怖いから嫌い」と言っていた。父の不機嫌な空気を、娘も子どもなりに感じ取っていたんだと思う。私も子どもの頃、同じだった。

でも最近は違う。週末、娘は実家に1人で遊びに行く。祖母と一緒にハンドメイドをしたり、お菓子を作ったり。そこには祖父である父もいて、娘と祖父の間にも自然な交流が生まれている。

父の表情が変わったから、娘も心を開いたんだと思う。

——父はあの2年間、何だったのか。

OTとして冷静に振り返ると、認知症ではなかった可能性が高い。

「社会的フレイル(Social Frailty)」のほうが近かったかもしれない。社会的フレイルとは、社会的な役割や人とのつながりが失われることで、心身の機能が低下していく状態のことだ。認知症の手前にある、可逆的な状態。

あるいは、「仮性認知症」と呼ばれる状態。これはうつや環境要因によって、一時的に認知症のような症状が出ることを指す。原因が解消されれば、症状も改善する。

父の場合、認知機能の低下がそこまで目立っていたわけではないので、社会的フレイルのほうがしっくりくる。

役割を失って、人との関わりが減って、家にいる時間が増えた——その結果、表情が乏しくなり、耳が遠くなり、イライラが増えた。

逆に言えば、役割と人との関わりを取り戻せば、戻る状態だった。

それが、今の父だ。


第11章:「もし紹介していなかったら」という問い

「もしあの時、仕事を紹介していなかったら、父は今どうなっていたと思いますか?」

これは、自分でも考えたことがある問いだ。

でも、正直に答えると、私にはわからない。

推測でしかないし、推測しても意味がない。

私は私、父は父。

父が認知症になるかどうかは、父の課題だ。私が決められることじゃない。

私にできたのは、選択肢を提示することだけだった。「仕事、探してる?」と聞いて、自分の職場を紹介する。それだけ。

父はそれを了承して、今も元気で働いている。

それだけだ。

「私が父を救った」とは思っていない。

紹介を受け入れたのは父自身の判断だし、3ヶ月かけて職場に馴染んだのも父自身の努力だ。夏の炎天下で1人黙々と車を洗っているのは父自身の意志だ。年下の職員から頼られているのは、父自身の人徳と仕事ぶりだ。

私はきっかけを作っただけ。

その先を進んだのは、父だ。

これも、課題の分離の話に戻ってくる。

私が父の人生を救うことはできない。父の人生は父のものだ。

でも、選択肢を差し出すことはできた。

それだけで、十分だったと思う。


エピローグ

今日も父は、特養の駐車場で車を洗っている。

私は機能訓練のラウンドで施設内を回りながら、窓の外をちらっと見る。父は背中を丸めて、黙々とスポンジを動かしている。

「お父さん」と呼ぶことはない。

すれ違うことがあれば、「お疲れさまです」と挨拶をする。それだけだ。

家に帰れば、父は今も時々機嫌が悪い日がある。私は今も、その空気に少し敏感に反応してしまう。父との関係が完璧に変わったわけじゃない。子どもの頃から続く距離感は、67歳になった父と38歳になった私の間にも、今もうっすらと残っている。

それでも。

夏の炎天下で、霜が降りる冬の朝に、父が1人黙々と車を洗っている姿を、私は知っている。

「いつも車ピッカピカで助かってます」と職員さんが言ってくれる声を、私は聞いている。

娘が「じっじ」と言いながら、実家に1人で遊びに行くのを、私は見ている。

これで、十分だ。

父が役割を持って、誰かに必要とされて、自分のペースで生きている。

それを、息子の私が間近で見られている。

苦手だった父と、こんな形で関わる日が来るとは思っていなかった。

でも、今は思う。

人は、いくつになっても、新しい役割を持てる。 新しい場所で、新しい関係を作れる。 認知症の入り口に立っていたかもしれない人が、もう一度活き返ることもある。

そのきっかけは、案外、ささやかな一言だったりする。

「仕事、探してる?」

たった、それだけの言葉から。


作業療法士16年目|特別養護老人ホーム・ユニットケア勤務|元認知症ケア指導管理士|HSP・ISFJ

note用ハッシュタグ(7個)

#エッセイ #家族 #作業療法士 #認知症予防 #生き方 #父 #社会的フレイル

合わせて読みたい

  • 特養で見た「老後が不安な人」と「不安じゃない人」の違い

  • 95歳の祖父が、関西からフェリーで九州へ旅行に行く

  • 「脳トレをやれば大丈夫」は間違い。本当の認知症予防

▼Kindle著書 やさしすぎるひとの、消耗しない働き方


いいなと思ったら応援しよう!

kirinoha|note を楽しむ土台のつくり方 ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。もし「応援したい」と思っていただけたら、チップで活動を支えていただけると嬉しいです。いただいた応援は、次の記事や取材、本の購入などに大切に使わせていただきます。