ルサンチマン警察してても何も変わらん
月並みな感想ですが、すごく素敵な方だなーって感じました。好きな声です。
動画投稿主が西研氏の「実存からの冒険」を読んだ感想動画です。
•西氏は公的価値(社会の中での価値)を身に纏わなければいけない生きづらさの中でロックと出会い、その価値を纏わなくても生きていけることに希望を持った。また、マルクス主義に没頭し、自身の生きづらさを社会問題、当時であれば資本によるものであると考えるようになった。
•学生運動の時代が終わり、社会変革に対する意識が人々から薄れていった。1980年代ごろから「もっと楽しく生きたい(より自由で、エロス的な性を求めよう)」となっていった。その流れのなかで、個々人が抱える苦しみの共通の原因を見出すことができなくなり、苦しみは自分のせいとなった(想いに形を与える道筋がなくなった)。
それに対して形を与える術を見出していきたい。
この内容について、以前紹介した動画と同じ問題をテーマとしていると思います。
https://note.com/kinuzuka/n/n22ac06672bc3
ちなみに今後詳しくお伝えしようと思っていますが、このように物事から「重み」がなくなって、よりわかりやすいように、簡単なように、楽しいように、それだけが価値で、「重み」が「イタイ」になっていくことを、ニーチェは「悲劇の誕生」の中で「ソクラテス的楽観主義」と表現しました。
簡単にいうと、人間は自我を形作るために安定化機能(アポロン)を働かせて無意識下に大量の諸要素を抑圧するわけだが、「無知の知」は意識下に諸要素が照らされていないことを許さない。照らされていないものは存在してはならないことになる。それは「無意識」に対する否定であり、意識下で全てを対処できるように、全ての事象を重みのない形式的なものにしていく。そこには「悲劇(ディオニソス)」は存在しない、ということです。
•この動画を紹介して共有したい考え方としては、人は苦しみを隠すために神や理念など、絶対的なものに頼ろうとするが、それを弱さだとして責めても何にもならない、ということ。その裏にある苦しみや傷に目を向けて、共感が土台にあった意見を持つことでより良い方向に話しが進むのではないか、ということ。基本的に個人的苦しみがなければ人は社会問題に関心を持つことはない。苦しみを形にして他者と共有可能にすること、自分の想いになにか形を与えることが「生の肯定」なのではないか。
ある意味、社会問題に目を向け始めた人々は「生の肯定」の過程を進み始めた、ということだと思います。それはとても尊いことで、だからこそ「啓蒙」や「道化師」等に注意が必要かと思います。また、必ずしも社会問題のみが「生の肯定」の過程ではないことも覚えておくといいでしょう。
従来「苦しみ」に対して、日本人は鎮魂や祈り、また、「私こそ〜であった」という「悲劇」を用いた文化的対処法を持っていました。そういう部分に目を向けていくことが「抜け道」に繋がっていくのではないかと、今のところ私は考えているのです。
•https://note.com/kinuzuka/n/nf637eb55a3bc
•https://note.com/kinuzuka/n/n9ebe3dc81028
ちなみにドゥルーズとガタリについては非常に重要なので覚えておいてください。
