映画『Michael/マイケル』は、なぜ“大成功”なのか
『Michael/マイケル』を観ました。
まず率直に言えば、この映画は、非常に今日的な「推し活映画」として大成功している作品だと感じました。
ここで私が言う「推し活映画」とは、作品そのものを批評的に鑑賞すること以上に、その作品を応援し、布教し、考察し、補完し、ファン同士で盛り上がることに価値が見出されている映画のことです。
その意味で、『Michael/マイケル』は非常によくできています。
圧倒的な歌唱シーン、ダンスシーンの再現度。ライブ映像やミュージックビデオを劇場で追体験しているかのような、音と映像の一体感。マイケル・ジャクソンという存在が持っていたパフォーマーとしての強度を、この映画はかなり高い精度で再現しています。
そして何より、この映画はマイケルのパブリックイメージを一切傷つけようとはしません。
本作は、多くのファンが愛してきた理想のマイケル像を守るように作られています。映画を観ても、マイケルの知られざる一面や、スターではなく一人の人間としての葛藤に深く触れることもありません。ここで描かれているのは、あくまで世界中が熱狂した、輝かしいマイケルの姿です。
つまりこの映画は、マイケル・ジャクソンという一人の人間の複雑さを描くものではなく、従来ファンの中にある「King of Pop」の伝説を再生し、次の世代へ受け渡す映画なのです。
その目的において、『Michael/マイケル』は大成功をおさめた。
本稿では、この本作が何を描かず、何を守ろうとしたのか。そして、その伝説の再生が本当にマイケルのためだったのかを考えていきます。
◾️伝記映画としては薄いが…
個人的には、伝記映画のように見せかけながら、最後は「この物語まだ続く!」と宣言して終わる構成には、正直呆れてしまいました。

もちろん、この先に『This Is It』へ至る後半生が描かれるのだ、だから本作は壮大な前編なのだ、という受け止め方もあるでしょう。
しかし、それは映画本編に描かれていないことを、観客が忖度して、制作者側の都合を好意的に解釈しているにすぎないとも感じます。
加えて映画には、明らかに描かれていないものがあります。
それは多くのファンが指摘している、マイケルの内面や葛藤への踏み込みです。あれほど深い関係を築きながら破綻したダイアナ・ロスやポール・マッカートニーとの関係性。妹であるジャネット・ジャクソンの不自然な不在。そして、葛藤や嫉妬があって当然だったはずのジャクソンズの兄弟たちが、まるで物分かりのよいモブキャラのように、ただ背景で踊り続けていること。
マイケルの周辺で起きた複雑な出来事や人間関係は、かなり都合よく単純化され、美化されています。その意味で、この映画は伝記映画としては致命的に薄いと言わざるを得ません。
ただし、その薄さは単なる失敗ではなく、意図された作劇なのだと思います。むしろこの映画は、薄く作られているからこそ「推し活映画」として機能している。
マイケルの複雑な人間性を描けば、ファンが安心して浴びられる伝説にノイズが入る。家族との葛藤や周囲との愛憎関係を深く描けば、「King of Pop」という理想像は揺らいでしまう。
だからこの映画は、マイケルの抱える問題を父親との軋轢に集約し、彼の人間的な複雑さを整理、無害化し、最後にはステージ上の輝きへと回収していく。
伝記映画として見れば、そこには物足りなさが残ります。
しかし、それこそがこの映画の設計です。
ファンが見たいものを見せる。
ファンが傷つきたくないものは見せない。
ファンがすでに抱いている伝説を、より大きく、より美しく、より感動的に再現する。
『Michael/マイケル』は、人間マイケルを掘り下げる映画ではありません。
従来のファンが愛してきたマイケル像を守り抜き、「King of Pop」の伝説をもう一度、マイケルを知らない若い世代の観客に向けて提示する映画として作られているのだと思います。
◾️「鑑賞」と「推す」の違い
この映画に対するファンの態度を観ていて思い出したのが、宇野常寛氏が「推し活」について書いていたnoteです。
宇野氏は、ある作品の熱心なファンが、作品への批判を「興行収入に響く」「作品を傷つける」と受け止め、批評そのものを敵視してしまう現象について、次のように述べています。
作品を見るという行為は、他人の物語を受け止めることだが、その作品を推すことは自分の物語を生きることだ。この自分の物語を生きていることの充実感が、人間を暴走させるのだ。あまりにもその充実感が、快楽が、世界に触れている手触りが強いせいで人間は愚かになるのだ。
この指摘は、『Michael/マイケル』を考えるうえでも非常に示唆的です。
作品を鑑賞するとは、作品の中に何が描かれ、何が描かれていないのかを受け止めることです。好きな部分もあれば、不備に見える部分もある。感動も違和感も含めて、作品との距離を保ちながら向き合う行為です。
一方で、作品を推すことは少し異なります。
推し活において、作品は単なる鑑賞対象ではありません。自分が応援し、広め、成功させたい対象になります。そこでは作品の評価が、自分自身の行動やアイデンティティと結びついていきます。
だからこそ、作品の欠落を指摘されると、それが単なる批評ではなく、自分の「好き」を傷つける行為のように感じられてしまう。
宇野氏はまた、作品への愛が批評を受け止める力を失わせる危うさについて、こうも書いています。
ものすごく応援したい作品があり、その気持ちからあばたもえくぼに見え始める。そこからこのように思い込みが強くなり、誰かをインチキなやり方で陥れようとすることに疑問を持たなくなるまでの距離は、意外と短いのではないかと思うのだ。
もちろん、私は映画『Michael/マイケル』のファンを批判したいわけではありません。
ただ、この映画をめぐる一部の反応には、作品への愛情が批評との距離を失わせる構造が見えます。
本作は、伝記映画として見れば明らかに薄い。マイケル・ジャクソンという人物の内面、家族との複雑な関係、周囲のアーティストたちとの決裂、スターであり続けることの歪み。そうしたものは、省略、美化、無害化されています。
しかし、この映画を支持する声の中には、そこを欠点として受け止めないものも目立ちます。
「ファンが見たいマイケルを見せてくれた」
「契約の関係で描けないことがあるのは仕方ない」
「複雑な内面を描くより、エンターテイナーとしてのマイケルに特化したのは正解だ」
「後半生は続編で描かれるはずだ」
そうして、映画本編に描かれていない部分まで、制作側の都合を観客が好意的に補完していく。
この「欠落を愛情によって補完してしまう態度」こそ、本作が推し活映画として、うまく機能していることの証左なのだと思います。
推し活映画において重要なのは、対象を批評的に掘り下げることではありません。
ファンがすでに抱いている思い出や理想像を傷つけず、もう一度その対象を好きになれる空間を共有することです。
『Michael/マイケル』は、まさにその意味で目的を達成しています。
宇野氏の言葉を借りれば、それは「作品を見る」ことではなく、「その作品を推すこと」によって「自分の物語を生きる」態度に近い。
『Michael/マイケル』は、マイケルの人生を知る映画ではない。
マイケルを愛してきた自分自身を、もう一度肯定する映画なのだと思います。
◾️ジャファーは、なぜ必要だったのか
では、なぜ『Michael/マイケル』は、ジャファー・ジャクソンによって、マイケルの歌唱シーンやダンスシーンを再演する必要があったのでしょうか。
そう疑問を抱くマイケルファンの気持ちは、よく分かります。
マイケル本人の映像は、膨大に残っています。歌唱やダンスの完成度において、本人を超えることはできません。ジャファーの演技がどれほど優れていても、それは本物ではなく、再現であり、模倣です。
ならば、オリジナルのマイケルの映像を観ればよいのではないか。
そう考えるファンがいるのも当然です。
そんな本作の構造を考えるうえで手がかりになるのが、『機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス)-Beginning-』です。
近年のガンダム作品である『水星の魔女』や『鉄血のオルフェンズ』は、それぞれ、ガンダムを知らない若い世代に対して「新しいガンダム」への入口として機能しました。
しかし、『ジークアクス』には、それらの作品には果たせなかった達成があります。それは、初代『機動戦士ガンダム』から『逆襲のシャア』へと連なる宇宙世紀作品群へ、ガンダムを知らない若い世代の観客を向かわせたことです。
『ジークアクス』公開当時、ファーストガンダムの冒頭を思わせる場面を、わざわざ新たに描く意味があるのか、という批判もありました。
しかし私は、そこにこそ意味があったのだと思います。
あれは、過去のファンを懐古的に喜ばせるだけの演出ではありません。旧作を知らない若いファンを、過去のガンダム作品へ誘導するための仕掛けでもありました。
実際、SNS上では『ジークアクス』本編の描写と旧作の描写との違いを比較する言説が多く見られました。そこから、過去作の描写力や演出の凄みが改めて掘り起こされ、ファンダム内では旧作への関心を呼び起こし、具体的に言うと旧作の視聴を促す効果が発揮されました。
つまり『ジークアクス』は、単に新しいガンダムを提示しただけではありません。
旧作IPの掘り起こしと再接続を果たした作品でもあったのです。
『Michael/マイケル』におけるジャファーの再演も、これに近い役割を持っていると思います。
旧来のファンからすれば、オリジナルのマイケル本人の映像を観れば十分です。しかし、マイケルをリアルタイムで知らない世代にとっては、過去映像の再演では興味を引くことはできない。
彼らにマイケルの凄さを体験してもらうためには、最新の映像技術、現在の映画館の音響、そして現代の観客に届く身体性を通して、もう一度マイケルのパフォーマンスを立ち上げる必要があった。
ジャファー・ジャクソンの再演は、マイケル本人の代用品ではありません。
それは、マイケルを知らない世代に向けて、マイケル・ジャクソンという伝説へ入るための入口を作る行為です。
映画に感銘を受けた若い観客は、おそらく原点であるマイケル本人の楽曲やミュージックビデオを辿ることになる。旧来のファンの解釈や証言に触れ、さらにマイケルの偉大さを知っていく。
つまり『Michael/マイケル』は、マイケル・ジャクソンというIPを再起動させる映画でもあったのだと思います。
◾️伝説を再生するため、人間性は削られた
そう考えると、この映画が人間マイケルの複雑さに深く踏み込まない理由も見えてきます。
マイケルというIPを再起動させるためには、理解しづらい人間的な複雑さは邪魔になります。「ファンの知らないマイケルの実像」も、必ずしも必要ではない。
必要なのは、多くの人がすでに共有している「King of Pop」としてのパブリックイメージです。
天才的な才能と先見性を持ちながら、実父の虐待に苦しみ、それでも父を完全には切り捨てられない。傷つけられながらも、純粋さと優しさを失わない悲劇の王子。
この映画が守ろうとしているのは、そうしたマイケル像です。
だからこそ、映画独自の解釈によって、そのイメージを大きく揺さぶる必要はない。むしろ、揺さぶってはいけなかったのかもしれません。
象徴的なのが、ジャクソンズのラストライブ前の場面です。
マイケルは『父親の目を見て自分の意思を伝える』と宣言します。しかし実際には、彼自身が父に決別を告げるのではなく、ボディガードのビルが『うせろ』と追い払うだけにとどまります。
もしここで、マイケル本人が父親の目を見てはっきりと決別を告げていたなら、彼の成長を示す力強いクライマックスシーンになっていたかもしれません。
しかし同時に、それはこの映画が守ろうとしているマイケル像とは乖離してしまう。
父からの呪縛から逃れたい、
しかし、憎み切れない。
傷つきながらも、優しさを捨てられない。
この映画が守ろうとしているのは、そうした「悲劇の王子」としてのマイケル像です。だからこそ、映画は彼自身に父を明確に拒絶させなかったのだと思います。
これは成長ドラマとしては弱い判断です。
しかし、伝説を守る映画としては一貫しています。
『Michael/マイケル』は、マイケルを愛してきた人たちが、自分たちの中にある「King of Pop」の伝説をもう一度確認する映画であり、同時に、マイケルを知らない若い世代が、その伝説に新しく触れるための映画でもあります。
そのためには、マイケルは徹底してイノセントな存在として描かれる必要があった。
複雑な一人の人間としてではなく、傷つけられながらも純粋さを失わない「悲劇の王子」として。
この映画が選択したのは、そういうマイケル像だったのだと思います。
◾️それは愛情なのか、搾取なのか
『Michael/マイケル』は、マイケルを知る映画ではありません。
この映画は、人間マイケルの内面を描く代わりに、ファンが愛してきたマイケル像を描いた。それは、マイケルの伝説を傷つけず、次の世代へ受け渡す「聖書」としての設計だったのだと思います。
けれど、その伝説の再生は、誰のためだったのでしょうか。
ファンの愛のためなのか。
それとも、マイケルの名で新たな利益を生み出そうとするIPホルダーのためなのか。
この問いに向き合うとき、私たちはこの映画の中で批判的に描かれている父親、ジョセフ・ジャクソンの立場に近づいているようにも感じます。
本作はジョセフを、マイケルの才能を信じながらも、その才能を利用し、搾取しようとした「悪しき父親」として描きます。
ならば、マイケルを愛し、その名で作られた映画を消費し続ける行為は、その構図からどれだけ自由なのでしょうか。
それは愛情なのか。
それとも搾取なのか。
それが私が、映画『Michael/マイケル』に感じる、最大の居心地の悪さなのです。
…余談ですが、『Michael/マイケル』鑑賞後に家でマイケルの昔のMVを観ていたら、横で裁縫をしていた嫁ちゃんに「なんでこの人、ポウポウばっかり言ってんの?」と真顔で言われました。
いや、そこは突っ込まないでほしい。
あれは理屈ではなく、パッションの発露なのです😅。


