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映画『犬王』から見える「天皇制と歴史叙述」の関係性

私は『マインド・ゲーム』の頃からの湯浅政明監督のファンで、激しいアクションや奇抜なビジュアルが単なる“見せ場”にとどまらず、作品テーマそのものを語りうる、稀有なアニメ作家だと感じてきました。とくに『ピンポン THE ANIMATION』『夜は短し歩けよ乙女』『DEVILMAN crybaby』は、その年のベスト級として強く心に残っている作品です。

そんな私ですが、『犬王』は劇場公開時にタイミングが合わず、ようやく最近になってAmazonプライムで観ることができました。事前には「奇想天外なミュージカル時代劇」という触れ込みを聞いていたため、ポップな娯楽作を想像していたのですが、実際に観てみると、その印象は大きく覆されました。

『犬王』はロックミュージカル仕立ての時代劇でありながら、その内実には生々しい物語が息づいています。それを決定づけているのが冒頭、壇ノ浦のシーンです。漁師の息子・友魚(ともな)の父は、京から来た侍に命じられ、源平合戦で海に沈んだ天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を引き上げます。しかし剣を抜いた瞬間、彼は呪いを受けて身体を裂かれ、友魚も盲目となり、家は没落し、孤児として漂うことになります。

この「神器」によって家族、生活、視力のすべてが奪われるという始まり方に、すでに日本社会の深層にある「権力と語りの構造」、そして天皇制と歴史叙述の関係が寓話的に滲んでいるように感じました。本稿では、そうした側面を中心に『犬王』を読み解いていきたいと思います。


「語られる歴史」と「語られない歴史」

友魚(のちの友有)はやがて琵琶法師となり、“語る力”を身につけます。その彼が、天皇の神器の力によって視力を奪われるという展開は、単なる呪いや偶然ではなく、「天皇の権威そのものが、個人の語る力を損なう存在として働く」ことのメタファーとして読めるように思います。

天皇制は長い歴史の中で「国家の歴史をこう語るべし」という枠組みを形作り、その外側に“語られたくない存在”を押し出してきました。敗者、異端、規範から外れた身体を持つ者、女性、非支配階級。こうした声は歴史の地層からしばしば「見えなく」されてきました。

劇中、犬王という芸能者が、史実にほとんど名前を残さないまま、生涯を終えたという展開であったことも、そうした「語りのフィルタリング」の隠喩だと考えられます。『犬王』で描かれているのは、このフィルタリングの境界――「語ってよいもの」と「語ってはいけないもの」を分けてきた線引きそのものを物語化した作品だと言えるのではないでしょうか。


■ 異形の身体が照らす“歴史の死角”

犬王の身体は「呪い」の結果として歪められていますが、それは単に奇抜なキャラクター造形ではありません。天皇制が象徴してきた“正しさ”“清浄さ”“血筋の正当性”といった価値観から漏れ落ちた身体を描いているように見えます。

犬王の顔や手足、骨格の“ズレ”は、制度によって外部へ追いやられた「被差別的存在」であることの視覚化です。湯浅監督はこれまで『DEVILMAN crybaby』で宗教と暴力を、『ピンポン』で身体と規範の問題を描いてきましたが、『犬王』ではその政治性がさらに深まり、天皇制という象徴構造そのものへと踏み込んでいるように感じます。

異形の身体は、語られなかった歴史、敗者の記憶、沈められた民衆の声。「正史」が拒んできたものすべてを一身に背負った存在として立ち現れてくるのです。


視力を奪う神器が示す「見えない暴力構造」

友有が視力を奪われるのは、彼が“語り手”だからです。物語を語る者はいつの時代も権力にとって厄介な存在です。天皇の象徴である神器が、語り手の視界を奪うという描写は、「天皇制と歴史叙述」がいかに結びついているかを鋭く象徴しています。

もちろん、湯浅監督が直接天皇制を批判していると言うべきではないでしょう。しかし、フィクションの中に“見えない暴力”の構造を織り込み、キャラクターの身体に刻むことで、その構造が浮かび上がってくるのは確かです。

思えば宮崎駿も『もののけ姫』で、アシタカを「朝廷に滅ぼされた蝦夷の末裔」と設定し、朝廷=天皇の名のもとに行われた暴力を暗示しました。高畑勲の『かぐや姫の物語』では帝が、かぐや姫の意思を完全に踏みにじり、無自覚に彼女を所有物のように扱います。

アニメ作家にとって日本における権力の暴力性を描くことに誠実であろうとすれば、帝=天皇の存在は避けて通れないテーマなのかもしれません。


ロックミュージカルは”正史への反乱”

『犬王』を語るうえで欠かせないのがロックミュージカルという形式です。これは単なるスタイリッシュな演出ではなく、「天皇制的な語り」を揺さぶるための装置として働いているように感じました。

琵琶法師とは、本来“物語を語り広める者”ですが、同時に権力の語りを支える存在にもなりえます。そこにロックが乱入することで、語りは伝統や権威の規範から外れ、観客と一体化する祝祭へと変わっていきます。犬王のステージは、民衆が自分たちの歴史を自分の言葉と音楽で語り直す場として機能しているのです。

ロックとは、制度からこぼれ落ちた声を拾い上げる音楽。友有がロックのスタイルで語り始めるとき、それは“正史の外側”から歴史を書き換える行為でもあります。このミュージカルシーンは、華やかな見せ場であると同時に、「語りのレジスタンス」でもあるのです。


女性不在という“語られなさ”の可視化

本作には重要な女性キャラクターがほとんど登場しません。一見すると欠点のようですが、むしろこの“不在”こそが、歴史の語りの偏りを示す仕掛けになっているように思います。

歴史叙述は長く男性中心で作られてきました。女性は「語る側」ではなく「語られる側」に置かれ、声を奪われてきた存在です。『犬王』の女性不在は、その構造をそのまま映し出す鏡のように機能しています。

だからこそ、この作品に強く反応した女性観客が多かったのは、“BL的な親密さ”だけではなく、歴史の中で声を奪われてきた存在としての共感もあったのではないかと感じます。


歴史修正主義への静かなカウンター

友有と犬王は「語れば語るほど消されていく」存在です。どれほど人々を熱狂させても、後世に残る記録はわずかで、やがて彼らは歴史から消えていきます。

この構図は、現代の歴史修正主義、国家にとって都合の悪い記憶を抹消しようとする空気と、不気味なほど共鳴しています。歴史を語る者が攻撃され、沈黙が安全とされる社会。これは中世だけの話ではありません。

湯浅監督は、それを中世の寓話に託し、アニメ映画という大衆的メディアを通じて可視化しました。「国家の語り」と「個人の記憶」が衝突する構造を、ここまで露骨に描いた作品は決して多くはないでしょう。


「語られなかった者たちの歴史」に思いを馳せる

物語の結末では、友有が一見“ハッピーエンド”を迎えたように描かれます。しかし、彼を不幸へと追いやった天皇の権威や、その支配のもとに形づくられる歴史そのものが変容したわけではありません。犬王と友有が歌い上げた物語は、正史として残ることはなく、時代の流れの中に消えてゆきます。

もしラストが犬王の笑みのアップで暗転していたとしたら、天皇制によって記録されなかった者たちの悲劇が、より鋭い痛みとして観客に突き刺さったかもしれません。しかし実際の結末は、ほのかな救済と、変わらない制度の重さを同時に残すものでした。

この“ほろ苦さ”こそが、『犬王』の描く政治性の核心だと思います。アニメーションは、ときに歴史の空白を埋め、ときに語られなかった痛みを可視化する表現です。本作は、その両義性を抱えたまま、祝祭であり、抵抗であり、語り直しの物語として立ち上がっています。

湯浅政明監督は、ただ奇抜な時代劇を作り上げたのではありません。アニメーションという現代の芸能を通じて、奪われた声を呼び戻し、「語られなかった者たちの歴史」に思いを馳せる視点と気づきを授けてくれた。非常に意義深い作品だったと思います。


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