感想『フランケンシュタイン』デル・トロのやさしさが沁みる一作
Netflixで話題になっているギレルモ・デル・トロ版『フランケンシュタイン』。上映時間が長いので手を出しにくかったのですが、先日、意を決して観始めたところ、途中で止められなくなり一気に最後まで観てしまいました。作りこまれた映像美と、これまでに作られてきた『フランケンシュタイン映画』とは異なる、デル・トロ流の解釈が加わったストーリー展開に強く引き込まれました。
原作小説はメアリー・シェリーが1818年に発表した古典であり、何度も映画化されてきた有名作です。しかしデル・トロ版は、その古典の“核”を引き継ぎつつも、「今の時代にこそ語られるべき物語」にアレンジされていると感じました。以下にその理由について書いてみたいと思います。
『フランケンシュタイン』の原典
メアリー・シェリーが原作小説『フランケンシュタイン』を書いたのは19世紀初頭で、当時わずか18歳でした。
この作品はしばしば“科学と倫理”の物語として語られますが、近年のフェミニズム研究では「父権制批判の古典」として読み直されています。
原作で描かれるヴィクターは、女性が伝統的に担ってきた「誕生」と「養育」の領域に男性的・科学的な暴力で介入し、その結果として“責任を取らない父”の姿を露呈します。怪物は愛されない子どもであり、生まれ落ちた瞬間から拒絶され、世界に存在してよい理由すら奪われた存在です。
ここで描かれる悲劇は、「創造者の傲慢」よりもむしろ、
“母性を排除し、責任を放棄する男性中心社会の構造そのものの欠陥”
です。この視点は文学史の中でも時代性を先取りしており、そのため原作小説はフェミニズム文学の源流に位置づけられています。
ーーーーここからネタバレーーーー
ヴィクターの人物像の変化
デル・トロは原作を忠実に映像化するのではなく、その批判精神を“現代的な問題”として語り直しています。映画のヴィクターは、原作よりもずっと脆く、不安定で、幼い頃に虐待を受けた父の影に縛られた青年として描かれています。
彼の傲慢さや差別的態度は、もともとヴィクターが持っていた「害意」ではなく、愛すべき母を奪われ、父が息子に引き継いでしまう暴力性の再生産として示されています。
弱さを許されない
恐怖は他者への攻撃で隠すもの
支配すること=男としての強さ
こうした価値観がヴィクターを縛り、その痛みが怪物へと向けられていきます。だからこそ映画の後半、ヴィクターが怪物と向き合い、自分の傲慢と恐怖を認める瞬間には、原作には存在しない“男性自身の変化”というテーマが立ち上がります。デル・トロ版は、「怪物を傷つけるヴィクターもまた父権制の犠牲者であった」という視点が加わっているように思えました。
「オジマンディアス」が示す“栄華の崩壊”
怪物が作中で朗読する詩「オジマンディアス」は、原作者メアリー・シェリーの夫であるパーシー・シェリーの作品です。
崩壊した王の像が砂漠に取り残された光景を描きながら、
我が名はオジマンディアス、王の中の王
私の偉業を見よ、そして絶望せよ──
しかし今は砂漠と残骸しか残っていない
という皮肉で締めくくられます。
これは、
ヴィクターの父の権威
ヴィクター自身の傲慢
船長アンダーソンの栄光への執着
そのすべてに重なって見えます。
そしてこの詩を語るのが怪物であるという点こそが重要です。
父権的支配の虚しさを、傷つけられた者自身が語る──
デル・トロがこの詩を引用した意図が深く胸に残ります。
改変されたラストに見る希望
ラストシーンで、私が最も心を動かされたのは、ヴィクターと怪物の和解を傍らで見ていた船長アンダーソンの変化でした。
彼は栄光のためなら部下を犠牲にすることもいとわない傲慢な人物でしたが、怪物の悲しみと、ヴィクターが自分の過ちを認めて怪物の父となる姿に強く心を打たれます。
その結果、彼は北極点への無謀な挑戦を諦め、「故郷へ帰ろう」と船員たちに告げます。それはマッチョな男がもっとも嫌う“敗北”ではありません。
弱者の痛みに共感できたことが、「ヴィクターと怪物の物語(ストーリー)」が彼自身を救ったのだと思います。
最終的に救われたのは、
ヴィクターと怪物だけではなく、
その姿を目撃した“世界”そのものだったのではないでしょうか。
デル・トロは、
「理解しようとする意志こそが、暴力の連鎖を断ち切る」
という小さな希望をラストに置きました。
昇る朝日の光の中に、原作にはない“救い”が息づいていたように感じます。
響き合う人造人間の物語
本作を観ながら思い出したのが、ヨルゴス・ランティモス監督の『哀れなるものたち』です。物語の主人公である”ベラ”は科学者ゴッドウィンの欲望によって作られた“人造の女性”であり、怪物と同じく、人間の都合によって生み出された存在です。
両作品に共通するのは、
「創造された存在が、創造主から主体性を奪い返す物語」
であるという点です。
怪物はヴィクターの傲慢を拒絶し、
ベラは男たちの欲望から自由を獲得します。
ベラの解放はフェミニズムの文脈に、
怪物の解放は父権制からの離脱に重なります。
つまり両作品は、違う角度から、
“人間は誰のものでもなく、自分自身の存在である”
という現代的なテーマを描いているのだと思います。
結び─怪物を怪物として扱わないまなざし
デル・トロ版『フランケンシュタイン』は、メアリー・シェリーの遺した問いを、現代社会に寄り添う形で丁寧に語り直した作品だと感じました。
怪物は怪物ではありません。
理解されなかった者であり、愛されなかった者であり、
世界の片隅に置き去りにされた“弱者”の象徴だと思います。
その悲しみを見つめることで、私たちは自分自身の中に潜む傲慢や偏見に気づくことができるのではないでしょうか。そして、自らの弱さを受け入れ、怪物の頬に手を伸ばしたヴィクターのように、世界はほんの少しだけ優しくなるのかもしれません。
デル・トロがこの映画に込めたのは、
「人が人であるためには、その優しさが必要なのだ」
というメッセージではないかと私は感じました。
『シェイプ・オブ・ウォーター』に続いて、デル・トロ監督のモンスター愛が炸裂した『フランケンシュタイン』!
この調子で『サンダとガイラ』もリメイクして欲しいものです。
