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感想『終わりの鳥』なぜインコなのか?考え抜かれた表現

「今年の映画は、今年のうちに。」

そんな気分で、年末にかけて今年公開された映画の中から、見損ねていた作品を配信サービスで鑑賞しています。

今回観たのは、2025年4月4日に日本公開された映画『終わりの鳥』です。ポスタービジュアルが印象的で記憶には残っていたものの、劇場ではタイミングを逃していました。

ギレルモ・デル・トロが撮りそうな、子どもを主人公にしたダークファンタジーだろうと思って観始めたのですが、実際には、娘を持つ父親である私の胸に強く突き刺さる、人生における大切なメッセージが込められた作品でした。その感想を、ここに書いてみたいと思います。


ーーーーここからネタバレーーーー












■実は普遍的なテーマの作品

映画『終わりの鳥』は、一見すると奇妙で寓話的なファンタジー映画に見えます。しかし構造を冷静に見つめ直すと、本作が描いているのは、きわめてオーソドックスな「難病もの映画」だと言ってよいと思います。

病によって大切な人を失っていく過程。
そして、その避けられない喪失を、残された者がどのように受け止め、どのように生き延びていくのか。これは長年、映画が繰り返し向き合ってきたテーマです。

近年、このように死や別れを正面から描く映画は、やや作られにくくなった印象があります。命の喪失を描く作品は、ともすれば「安直な感動の押し売り」「涙のカツアゲ」として受け取られてしまうからです。

それでもなお、「大切な人を失うこと」や「それを抱えながら生きていくこと」という問いは、時代が変わっても決して風化しません。
その意味で、本作がこのテーマをあらためて描こうとしたこと自体に、私は意義を感じました。

それでは、このシンプルでありながら扱いの難しい命題のこの作品はどう挑んだのでしょうか?


■「誰を失うのか」という決定的な違い

これまでにも、喪失を描いた映画は数多く存在してきました。
たとえば『最高の人生の見つけ方』『オール・マイ・ライフ』『ザ・ホエール』『ビッグ・フィッシュ』『We Live in Time この時を生きて』『aftersun/アフターサン』などなど…これまでにも、喪失を描いた映画は数多く存在してきました。

しかし、それらの多くは「親を失う」「伴侶を失う」「老いゆく存在を見送る」といった、自分と同世代、あるいは自分より上の世代の死を描くことが多かった。一方で『終わりの鳥』が描くのは、自分の子どもを失うという喪失です。

これは人間にとって、おそらく最も受け入れがたい出来事です。
時間の流れとして本来あるはずの順序が逆転し、親が子を見送らなければならない。倫理的にも感情的にも、極めて過酷な状況だと言えるでしょう。

この一点において本作は、数ある難病もの・喪失を描いた映画の中でも、最も重い領域に踏み込んでいる作品だと感じます。


■「死」と対話するための装置としての鳥

本作を監督したダイナ・O・プスィッチは、「死」という抽象的で扱いづらい概念を、しゃべり、歌い、姿を変える一羽の鳥として可視化しました。

ここで重要なのは、「デス」がコンゴウインコであるという点です。
鳥は本来、人間と会話することのできない存在ですが、インコは例外的に言葉を発することができます。もっとも、それは意味を理解した会話ではなく、相手の声をそのまま反射して返しているに過ぎません。

この性質が、本作では決定的な意味を持っています。
「デス」は死神として語りかけますが、その言葉は外部から与えられる啓示ではありません。それは、母親であるゾラ自身の内面から生まれた声が、別の形で返ってきているだけなのです。

つまりこの鳥は、死という概念を擬人化した存在であると同時に、
人間が自分自身と対話するための視覚的な装置として機能しています。
この発想の鮮やかさこそが、本作を単なる難病ものから一段引き上げているように思います。


■なぜこの映画は「ユーモア」を必要としたのか

『終わりの鳥』を語るうえで、もうひとつ欠かせない要素があります。
それは、本作が随所にユーモアを含んでいるという点です。

本作が扱っているテーマは、正直に言えば、きわめて重く、真正面から描けば簡単に説教臭くなってしまう内容です。余命わずかな子どもと、その死を受け入れられない母親。「人は喪失をどう引き受けて生きるのか」という問いは、真面目に語ろうとすればするほど、観客にとって息苦しいものになりがちです。逆にライトに描いてしまうと「死をエンタテイメントとして消費している」と批判を受けてしまいます。

だからこそ本作は、「死」をそのまま概念として提示するのではなく、
しゃべり、歌い、皮肉を言い、時に間の抜けた存在として擬人化しました。デスは恐ろしい死神であると同時に、どこか可笑しく、愛嬌すら感じさせる存在として描かれます。

このユーモアは、観客を油断させるための装置だと思います。
笑ってしまった瞬間、私たちは「死」という言葉が持つ重さから一歩だけ距離を取ることができます。その距離があるからこそ、本来なら直視できないテーマが、押し付けではなく、自然な形で胸に落ちてくるのです。

また、チューズデーがデスと冗談を交わす姿は、死を軽んじているのではありません。それは、恐怖と絶望の中で、かろうじて人間らしさを保つための小さな抵抗のように見えます。笑いは、死を否定するためではなく、死と共に生きるための手段なのです。

もしこの映画からユーモアを取り除いてしまったら、『終わりの鳥』は、非常に重苦しい教訓映画になっていたでしょう。ダークファンタジーとブラックユーモアを選んだことは、観客に「理解しなさい」と押し付けるのではなく、「感じてほしい」と手を差し伸べるための、誠実で賢い選択だったのだと思います。


■逃げ続ける母と、向き合う決断

物語の中で、母ゾラは最後まで娘チューズデーの死と正面から向き合うことができません。彼女は恐れ、拒み、逃げ続け、時に暴力的な行動(インコを焼き鳥にして食べるなんて!)にすら出てしまいます。

映画はその姿を通して、「死」から目を逸らし続けることで、世界そのものが歪んでいく感覚を描き出します。まるで世界の終わりのようなビジュアルは、死そのものの恐怖ではなく、彼女の向き合えない心の混乱を映しているように感じられます。

やがてゾラは、自分の逃避こそが、余命わずかな娘をさらに苦しめているのだと理解します。そして彼女は、「あなたのいない世界」を恐怖から逃げず、真正面から引き受けて生きる決断をします。


■「神はいない、だが来世はある」

この映画で、私が最も胸を打たれたのは、デスの語る次の言葉でした。

「神はいない、だが来世はある」
「お前の残す響きや軌跡や思い出が、あの子を生かすことになる」

これは宗教的な慰めではありません。
死後の救済を約束する言葉でもありません。
亡くなった者の意味は、残された者の生き方によってしか生まれないという、極めて残酷な真実を突きつけています。

ゾラはこの言葉を、自分自身の声を聞き、娘との約束を果たすために立ち上がる決断をします。


■私が思い出したこと

この場面を観て、私は、2019年の池袋暴走事故で妻の真菜さんと娘の莉子ちゃんを亡くした松永拓也さんの姿を思い出していました。
松永さんのニュースを見るたび、私はその過酷な運命に涙があふれてしまいます。想像するだけで正気を保てなくなりそうな喪失を背負いながら、それでも松永さんは、事故防止や被害者支援のために活動を続けておられます。

フィクションと現実を安易に重ねるべきではないと分かっていても、
松永さんは、デスの言う
「お前の残す響きや軌跡や思い出が、あの子を生かすことになる」
という言葉を、現実の世界で実践されている方なのではないかと、私は感じました。


■結語

『終わりの鳥』は、人が大切な人を失ったとき、その喪失に意味を与えられるかどうかは、残された者の生き方にしか委ねられていないという、悲しい真実を描き出す映画です。

救いは用意されていません。
神もいません。
それでも人は生き続けなければならない。

亡くなった者の生を未来に繋ぐのか、
それとも世界と共に崩れ落ちるのか。

この映画は、その選択を、観客一人ひとりにやさしく、問いかけてくる作品だと思いました。

良い映画です、お薦めします。


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