感想『かぐや姫の物語※ゼロ・グラビティ』月は黄泉であり、地球は常世である
SNSで最近、高畑勲監督のジブリ映画
『かぐや姫の物語』
が話題になっているのを目にしました。
さまざまな感想や再評価の声を眺めているうちに、ふと、ある映画のことを思い出しました。
それが、同じく“宇宙”を舞台に、ひとりの女性を主人公に据えた作品、
サンドラ・ブロック主演の
『ゼロ・グラビティ』です。
■静寂の世界としての「月」と「宇宙」
劇場で『ゼロ・グラビティ』を観た当時は、3D映像がもたらす圧倒的な没入感とスペクタクルに強く心を奪われました。
しかし、改めて思い返してみると、この映画が描いているのは単なる宇宙サバイバルではなく、「生と死の境界」に立たされたひとりの女性の物語だったのではないか、そんな感覚がよみがえってきます。
そしてこの感触は、『かぐや姫の物語』と並べて考えたとき、はっきりとした輪郭を帯びてきました。
二つの作品に共通して描かれるのは、月や宇宙といった、人の営みから切り離された場所です。
そこは音の無い、穏やかで、調和の取れた、欠落のない世界として描れますが、同時に人の営みから切り離された場所、すなわち
「死者の国」としての性格も帯びています。
『ゼロ・グラビティ』の主人公ライアン・ストーンは、幼い娘を失った喪失によって、すでに心のどこかで地上の世界から距離を置いてしまった人物です。
音も空気もなく、身体の重ささえ感じられない宇宙空間は、彼女の内面をそのまま映し出したかのように描かれます。そこには苦しみも衝突もありませんが、その代わり、生きている実感も失われています。
物語の途中、ライアンが生還の望みを断たれ、静かに最期を受け入れようとする場面があります。
それは、彼女が”死の世界”に身を委ねようとする瞬間でもあります。
しかし彼女を引き戻したのは、
宇宙飛行士としてのプロ意識や
ミッションに対する使命感ではありませんでした。
地上から偶然届く、意味を持たない、
“地上の生活音”――ただのノイズです。
その音は情報ではなく、
「今この瞬間にも、どこかで誰かが生きている」という痕跡でした。調和の取れた静けさよりも、雑多で思い通りにならない世界を選び取る。
その選択に、この映画の核心があるように思えます。
■地上を去る者、地上に降りる者
一方、『かぐや姫の物語』は、同じ構造を反転させて描いています。
かぐや姫は、もともと月という完全で調和した世界――黄泉から地上へと降り立った存在です。
彼女が憧れ、愛したのは、不完全で、争いと感情に満ちた人間の世界でした。笑い、泣き、傷つくこと。つまり「生」を生きることそのものでした。
しかし、地上での家父長制的な押し付けの「生」に
「もう耐えられない」
と感じた瞬間、彼女は迎えに来た月の使者によって連れ戻されてしまいます。
そこに用意されているのは安らぎですが、それは同時に、感情や記憶を手放すことでもあります。
月へ帰る船の中でかぐや姫が見せる悔恨の表情は、完全な世界が人間にとっては「死」でしかないことを、痛切に物語っているように見えます。
この二つの物語を重ねてみると、
生きづらさに満ちた地上から
身を引く「娘」の物語と、
子どもとの記憶をきっかけに、
そこから戻り、新しい生を選び直す「母」の物語として読むことができます。
どちらも女性を主人公としながら、その立場は対照的です。
かぐや姫は娘として地球を去り、
ライアンは母として地球へ帰還する。
そこには二人の、地上=常世で生きることの息苦しさや、傷つきやすさがにじんでいます。
■「母は強し」という言葉の向こう側へ
こうした読みを進めていくと、ヴィクトル・ユーゴーの
「女は弱し、されど母は強し」
という言葉が、自然と頭をよぎります。
ただ同時に、この言葉が長く社会に残してきた重さにも、目を向けたくなります。
「母親は強くあるべきだ」という期待は、今もなお、無意識のうちに女性に過度な負担を課してはいないでしょうか。
『ゼロ・グラビティ』が描く再生は、確かに「母であること」がひとつの支えとして描かれています。
けれどそれを、「母でなければ生を選べない」という物語として受け取る必要は、ないはずです。
「子ども」を理由にせずとも、
家父長的な価値観に同調しなくても、
女性が、女性として生きることを選び取り、
それでも生きづらさを感じずにいられる常世=地球であってほしい。
『ゼロ・グラビティ』と『かぐや姫の物語』、
この二本の作品を重ねて見つめると、
そんな願いが、
ごく自然に浮かび上がってきます。
不完全で、騒がしく、
衝突の絶えない場所であっても、
それでもなお、
生きるに値する場所として。
この地上で、
愛し合いながら生きていきたい、と。

