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感想『ひゃくえむ。』は仮面ライダーになりたい

正月休み中に配信で観た作品の感想を書いてゆこうと思います。
 本日はネットフリックスで配信中のアニメ映画『ひゃくえむ。』
 
漫画『チ。-地球の運動について』でブレイクした、魚豊さんの連載デビュー作をアニメ化した映画です。

本作は一見すると、100メートル走を題材にしたスポーツアニメに分類される作品でしょう。しかし観終えたあとに強く残るのは、スポーツの爽快感や達成感ではありません。むしろそこで描かれるのは、「なぜ人は、そこまでして何かを求めてしまうのか」という、人間の業のドラマです。
 
2人のライバルが争い合いながら成長してゆくドラマという意味で、近年のヒット作『ルックバック』『BLUE GIANT』、あるいは『国宝』などの作品を思い出します。「何かを得るために、何かを失っていく」狂気的とも言える熱量。

その熱量が、二人の人間の勝者と敗者、表と裏を入れ替えながら描かれていく構造は、『ひゃくえむ。』とも共振してるようにも思えます。
 
ただし、決定的な違いがあるとすれば、前述の作品群において競い合われるのは「芸術」です。評価は観客や社会に委ねられ、勝敗は「個人の思い」によって左右される、つまり、「試合に勝って勝負に負けた」という展開がありうる世界観です。
 
しかし『ひゃくえむ。』で競われるのは、100メートル走という、あまりにも単純で、あまりにも残酷な競技です。
 
ルールは明快。
先にゴールした者が勝ち、遅れた者が負ける。
そこに解釈の余地はなく、評価のブレも一切存在しません。
 
だからこそ、この作品のドラマは、競技の外側ではなく、競技者の内側――すなわち思想や哲学が立ち上がってくるのだと思います。


■スポーツ映画らしからぬスポーツ映画

一般的なスポーツ作品には、ほぼ必ず二つの軸があります。

ひとつは、戦術やトレーニング、工夫によって勝利に近づくロジックの軸

もうひとつは、チームワークや人間関係を通じた成長の物語の軸です。
 
ところが『ひゃくえむ。』は、これらにほとんど関心を示しません。
 
100メートル走は、戦術が介在しにくい競技です。チームも存在せず、レースは一瞬で終わる。そこに「作戦勝ち」や「連携プレー」が入り込む余地はありません。
 
そして主人公であるトガシや小宮の背景――家族関係や恋愛、所属、コーチとの関係性――は、必要最小限しか描かれません。

つまり本作は、スポーツ映画が本来備えている物語装置を、意図的に削ぎ落とした状態から始まっているのです。
 
その代わりに浮かび上がるのは、「それでも、なぜ走るのか」という哲学的な問いです。


■魚豊という作家の一貫した思想

この自己に対する問いかけは、魚豊という作家の思想性そのものだと言っていいでしょう。
 
代表作『チ。』では、地動説という思想が描かれます。

『チ。』において地動説は、

・当時の社会では「誤り」
・命を奪われる危険思想
・即時的な報酬はゼロ

それでも人々は考えることをやめない。
これは『ひゃくえむ。』における

・勝てる保証のない走り
・誰にも理解されない執着

完全に同型です。

『チ。』では個々の人物は死に、思想だけが残ります。『ひゃくえむ。』でも、競技者個人の栄光より、

・記録
・哲学
・走る理由

が次世代へ引き継がれていく構造が強調されます。

魚豊は一貫して、
人間個人を英雄化しない
思想は残るが、人は消える。
証明されない正しさを信じ続ける、
非ロマン的視点が共通しています。


また、『ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へ』では、社会正義や大義を掲げる集団の危うさが描かれます。

『FACT』は、

  • 社会正義

  • 運動

  • 正しさを掲げる集団

を描きながら、それらが容易に暴力や自己満足に転化する危険を描きます。
ここで魚豊がやっているのは、
「大きな意味を語る人間ほど、個人の内面から目を逸らす」という批評です。

『ひゃくえむ。』でも同様に、

  • 国の名誉

  • チームのため

  • 夢を与える存在

といった外部的価値はほぼ語られません。
徹底して、
「あなたは、なぜそれをやるのか」
だけが問われる。

『FACT』では、

  • 誰の思想がより過激か

  • 誰の言葉が人を動かすか

が物語を駆動します。

これは『ひゃくえむ。』における
語る哲学の強さ=勝負の説得力
という、フィジカルや練習量ではなく、
どの思想を信じきれているかが結果を左右する世界観として通定しています。


■魚豊作品を貫く一本の線

これら三作を貫く思想を一文で言うなら、こうなります。
世界は理不尽で、意味は用意されていない。
それでも人は、考え、選び、賭けるしかない。

  • 『チ。』=知の探求に命を賭ける

  • 『FACT』=正義を疑う思考に身を置く

  • 『ひゃくえむ。』=意味なき競技に人生を賭ける

形は違えど、全て「引き受ける人間」の苦悩を描いている。きわめて実存主義的な姿勢です。
 
実際の100m走において、勝敗はフィジカルで決まります。

しかし『ひゃくえむ。』の世界では、どのような思想でこの競技に向き合っているか、その信じ切り方の強度が勝負を左右しているように描かれます。
 
速さそのものよりも、「なぜ速くなりたいのか」「この走りに、どんな意味を与えているのか」。その問いに対する答えの切実さが、走りに乗り移っていく。
 
ここでの勝負は、肉体同士の衝突であると同時に、哲学と哲学のぶつかり合いです。言い換えれば、これはスポーツの皮をかぶったメンタルバトルなのです。 


■柴田ヨクサル作品との共振

ここまで読んできて、私はある既視感を拭えずにいました。
それは「スポーツ」や「競技」というジャンルの話ではなく、勝敗が技術や合理性ではなく、“信じ切った思想の強度”によって決まる世界観そのものに対する既視感です。

この感覚は、魚豊という作家に固有のものではありません。むしろ、日本の漫画表現の中で、より露骨に、より剥き出しの形で同じ地点に到達していた作家がいます。

それが、柴田ヨクサルです。 

代表作『エアマスター』において、格闘の勝敗を決めるのは技術や戦術ではありません。登場人物たちは、戦わずにはいられない自分自身を引き受け、その衝動を信じ切った者が勝利する世界観が展開します。

最新作『東島丹三郎は仮面ライダーになりたい』では、その構造がさらに極端になります。東島丹三郎は、選ばれた存在でも、合理的な存在でもありません。それでも「自分は仮面ライダーである」と信じ続ける。その思想の純度が、現実をねじ伏せていきます。

柴田ヨクサル作品においても、世界は論理や正しさでは動きません。信じ切った思想の圧力によってのみ、作品内の現実が説得されていくのです。
 
この構造は、『ひゃくえむ。』と極めて近いノリで描かれていると感じます。


■なぜ今、私たちは「破滅的な情熱」を求めてしまうのか

ここまで見てきたように、『ひゃくえむ。』が描いているものは、スポーツの勝敗ではありません。魚豊作品に一貫して流れるのは、「意味が保証されない世界で、それでも何かを引き受けてしまう人間」の姿です。

この構造は、柴田ヨクサル作品とも深く共鳴しており、さらに視野を広げれば、『ルックバック』『BLUE GIANT』、『国宝』といった近年のヒット作にも、同じ磁場が働いているように思えます。

これらの作品に共通しているのは、人並の幸福や安定した生活を、ほとんど顧みない人物たちが描かれている点です。

彼らは、

  • 成功する保証もなく

  • 社会的に報われるとも限らず

  • むしろ何かを失う可能性の方が高い

それでもなお、何かに打ち込んでしまう。

ではなぜ、私たちは今、こうした物語に惹きつけられてしまうのでしょうか。私はそれが、令和という時代が抱える閉塞感と無関係ではないと思います。

努力すれば報われる、夢を追えば未来が開ける――そうした物語を、私たちはもう素直に信じることができません。

合理性やコストパフォーマンスが求められ、「失敗しない人生」が最適解のように語られる時代です。

だからこそ逆説的に、
「それでも、やってしまう人間」の姿が、
強い実在感を持って立ち上がる。

魚豊や柴田ヨクサルが描くのは、
成功者ではなく、
賢者でもなく、
社会に適応した模範的な人間でもありません。

彼らが描くのは、
「これは意味がないかもしれない」
「報われないかもしれない」
それを知ったうえで、
なお選び取ってしまう人間の姿です。

『ひゃくえむ。』の走者たちは、
世界を変えません。
社会を良くもしません。
誰かを救うわけでもありません。

それでも彼らは走る。
自分自身を説得するために。

その姿は、
「正しい選択」を積み重ねることに疲れた私たちに、
ひとつの危険な魅力を突きつけてきます。

――それでも、あなたは何かを選び取れるか。
――失うと分かっていて、賭けられるものはあるか。

『ひゃくえむ。』は、その問いを100メートルという最短距離で投げつけてくる作品なのです。

走っているのは脚ではなく、思想です。
そしてこの映画が描いているのは、
勝利の栄光ではなく、
引き受けてしまった人生を選び取ってしまう、黒い欲望なのだと思います。


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