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考察『アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ』「呪われた建国史」をSF神話として語り直す試み

新年あけましておめでとうございます。
昨年の10月から始めた私のnoteですが、何でも三日坊主に終わりがちな私が、珍しく三か月以上、映画の感想を書き続けることができています。今年もできる限り、鑑賞した映画の感想を一作ずつ書き留めていくことを目標に、このnoteを続けていきたいと思います。
本年もよろしくお願いいたします。

そこで2026年1月1日、今年最初に映画館で観た作品は『アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ』でした。

上映時間は約3時間15分。正直、収録時間表示を見た時点で気持ちが萎え、昨年中に観に行く踏ん切りがつきませんでした。ただ、正月休みの一本目としてはこれ以上ない“大作”でもあります。せっかくなら、体力と時間のあるこのタイミングで、腰を据えて観てみよう。そう思い、映画館へ向かいました。

事前にこの作品の評判として耳に入ってきたのは、
「世界観描写と映像は圧倒的だが、物語は停滞気味で、二作目と同じことを繰り返しているようにも見える」
つまり、“技術の凄さ”は確約されているが、“物語の新鮮味”は期待しにくい――個人的には、そういう空気を感じていました。

そして実際に観てみると、半分は同感、残り半分は確実に「全五部作構想に向けて物語がセットアップされている」と感じられる内容でもありました。
本作は、単体の映画として完成しているというより、シリーズ全体が目指している地点へ向けた“中間地点”の映画なのだと思います。

そこで本稿では、まず『アバター』シリーズが何を描いてきたのかを簡単に整理しつつ、三作目『ファイヤー・アンド・アッシュ』がシリーズに持ち込んだ「新しい火種」を見定め、その上で、四作目・五作目がどのような方向へ進むのか――私なりの考察を書いてみたいと思います。


■「パンドラ侵略」を描く意味

『アバター』シリーズの基本構造は明快です。舞台は地球外惑星パンドラ。地球人は資源採掘や軍事目的で侵入し、先住民であるナヴィは自然と精神的に結びついた社会を築いている。主人公ジェイク・サリーは“地球側”としてパンドラに入りながら、やがてナヴィ側へと立場を移し、侵略者と対峙する。

この構造は、言うまでもなくアメリカの「植民地主義」や「征服の歴史」を下敷きにしています。ナヴィをネイティブ・アメリカンのメタファーとして読み、地球人(RDA)を近代資本主義と軍事力の象徴として読むのは、自然な解釈でしょう。もちろん、ナヴィ=ネイティブ・アメリカン、地球人=征服者アメリカ人、という一対一の対応関係で単純化しすぎるのは危険です。ただ、それでも『アバター』が「アメリカという国家が背負っている歴史の影」を、宇宙規模の神話へと翻訳しようとしていることは、否定しづらいと思います。

ここでひとつ、私が以前から引っかかっていた点があります。
このような“植民地史メタファー”の物語は、本来であれば、物語のラストで「和平的な協定が結ばれ、共存の道を歩む」という形に収束しがちです。現代の観客が求める“良い終わり方”とは、だいたいそういうものだからです。しかし、『アバター』は、どうもその方向へ収まりたがっていない。むしろ、和平や共存が語られるたびに、そこに別の暴力の気配が立ち上がり、サリー家の家族は流転の旅を続けています。

このシリーズがもし本気で「和解神話」を描くなら、二作目の時点で、ある程度の落としどころが用意されても不思議ではありませんでした。にもかかわらず、三作目で提示されたのは、“外敵との戦争”の継続だけではなく、“ナヴィ内部の対立”でした。ここに、シリーズの倫理が一段深くなったポイントがあるように思います。


■3作目までの流れ――テーマは更新され、形式は反復される

まずは、三部作(1〜3)の軌跡を、できるだけ簡潔に振り返ります。

■ 第1作『アバター』(2009)

1作目は、「外部者が共同体に帰属する」物語でした。元海兵隊員ジェイクは、ナヴィの肉体(アバター)を通してパンドラへ入り、ネイティリと出会い、文化と価値観を学び、やがて侵略者である地球人に反旗を翻します。そして最終的に、ジェイクは“地球人としての自分”を捨て、ナヴィとして生きることを選ぶ。

ここで強く打ち出されたのは、文明(テクノロジー)と自然(エイワ)の対立、そして植民地主義への批判です。一方で、いわゆる「白人酋長」的な構造を孕んでいたことも事実で、批評的にはそこが論争点となりました。
ただ私は、この作品を単純に“正しさの映画”とは見ていません。むしろ、ジェイクの“転向”が美談として成立してしまうこと自体が、アメリカの建国神話が持つ自己正当化の癖を、逆照射しているようにも感じます。

■ 第2作『ウェイ・オブ・ウォーター』(2022)

2作目は、テーマが「個人の覚醒」から「家族と継承」へシフトします。ジェイクはネイティリと家庭を築き、子どもたちを守る父親になっている。人類は今度は「移住計画」としてパンドラに戻り、サリー家は追撃を避けるため、森の民を離れて海の民メトカイナ族のもとへ身を寄せます。異文化への適応を経て、最終的には再び戦闘へ――。

この作品は、父としてのジェイクが「守るために戦う」物語でした。個人的には、2作目は1作目に比べて、神話の反復が強まった印象があります。
ただし同時に、ジェイクが“救世主”として英雄化されるのではなく、“家族を抱える脆さ”を背負った存在として描かれた点に、キャメロンの誠実さも見えました。ここでシリーズは、単純な勝利の物語から、より長い消耗戦の物語へ移行したのだと思います。

■ 第3作『ファイヤー・アンド・アッシュ』(2025)

そして三作目で登場するのが、ヴァラン率いるアッシュ族です。火山地帯・荒廃した環境に適応した彼らは、従来のナヴィ像(調和・自然賛美)とは異なる価値観を持っている。これにより、ナヴィ=善、人類=悪、という単純図式が揺さぶられます。

ここまでを表にすると、ざっくりこう整理できます。

  • 1作目:外部者(ジェイク)の覚醒

  • 2作目:家族と継承、守るための戦い

  • 3作目:分断と倫理、同じ被害者側の内部対立

つまり、テーマは確実に更新されている。ただし、物語形式は反復されている
「異文化との遭遇 → 学習 → 衝突 → 戦闘」という基本動線は、毎作ほぼ同じです。これが“停滞”と評される理由でもあります。しかし私は、これは単純な失敗ではなく、キャメロンが意図的に「神話として反復する形式」を選び続けている結果だと考えています。問題は、反復していること自体ではなく、反復の中に何を差し込んでくるか、です。

そして三作目が差し込んできた楔(くさび)が、アッシュ族という存在でした。


■「外敵との戦争」から「内部の倫理闘争」へ

本作の序盤で大きな火種になるのが、純粋な地球人であるスパイダーです。ある夜、マスクが破損し、パンドラの大気で窒息しかける出来事が起きる。これを機にジェイクはスパイダーを人間側へ戻す決断をし、家族(特に子どもたち)と衝突していきます。一方でクオリッチは依然として復讐心を燃やし、RDAの作戦と絡んで再びサリー家に迫ります。

ジェイクは放浪交易民であるウィンド・トレーダーズを頼り、スパイダーを人間側へ送り届ける道を探りますが、結局、サリー家も同行する流れになり、移動の道中でアッシュ族の襲撃を受けます。ここで「火と灰の勢力」が本格的に姿を現し、サリー家の戦線は「RDA/クオリッチ」だけでなく「ナヴィ同士の対立」にも引き裂かれてゆきます。

さらに本作の重要なポイントとして、キリがスパイダーを救うために儀式的な行為を行い、結果としてスパイダーがパンドラの大気を吸える状態へ変化する、という展開があります。この変化は一見すると奇跡であり、救済のようにも見える。しかし同時に、RDAにとっては「人類がパンドラに適応し得る」という侵略の鍵になります。私はここに、本作が持つ二重底の怖さを感じました。

スパイダーが呼吸できる身体になったことは、希望であると同時に、地球人による植民地化の決定打になり得る。この“希望と破滅が同時に生まれる”感じは、『アバター』が単なる戦争スペクタクルではなく、植民地史の矛盾を抱えた物語であることを意識させます。

そして何より、アッシュ族の存在が示しているのは、被害者は常に道徳的に正しいわけではない。という事実です。被害者側にも、支配、暴力の正当化、他者の犠牲を受け入れる論理は生まれ得る。抵抗運動は、内部に「別の正義」を生む。これは現代の政治や社会運動を見ていても、痛いほど実感する事実です。

1・2作目は、侵略者(テクノロジー)に対して自然(エイワ)が対抗する構図が比較的明快でした。しかし3作目は、そこにアッシュ族という「同じ被害者側」から「支配の倫理」へ転じた存在を置くことで、反植民地主義の物語を単純な善悪から引き剥がしてきた。ここに、シリーズの“次の段階”が始まった感触があります。


■アッシュ族は「破壊された信仰の末裔」か

私はアッシュ族の立ち位置を、単純に「悪いナヴィ」「裏切り者」としては捉えたくありません。むしろ彼らは、何らかの理由でエイワから見放された(あるいはそう感じてしまった)者たちであり、「神話が機能しない世界」を生き延びるために、侵略者の論理に接続してしまった存在として読めます。言い換えれば、宗教対立、あるいは“信仰の破綻”が生んだ分裂です。

この構図を見たとき、私は「ネイティブ・アメリカンの抵抗も一枚岩ではなかった」という歴史的事実を、思い出してしました。

ここで少し、アメリカ史の中で起きた出来事と、『アバター』三作目の展開を照らし合わせてみたいと思います。


1)アメリカ独立戦争とイロコイ連邦の分裂

18世紀後半のアメリカ独立戦争は、白人入植者と宗主国イギリスの戦争として語られがちですが、先住民社会にとっても「どちらに付くか」を迫られる重大な転換点でした。

ここで起きたのは、「先住民が団結して植民者と戦った」という理想的な構図ではありません。たとえばイロコイ連邦では、同じ連邦の内部で、イギリス側につく先住民族勢力と、植民地側につく勢力が分裂しました。

つまり彼らは、外から見れば「同じ先住民」でありながら、内部では異なる生存戦略を選び取らざるを得なかったのです。

これは、『ファイヤー・アンド・アッシュ』で描かれる「RDAという外敵」だけでなく「アッシュ族という内部対立」によって引き裂かれていくナヴィの構図と、非常によく似ています。

外圧が強まれば共同体は団結する――
そう信じたくなるところですが、
現実には外圧こそが、内部の価値観の差や利害のズレを露呈させる。キャメロンが描いているのは、まさにこの冷酷な現実ではないでしょうか。

2)ゴースト・ダンス運動とウンデッド・ニーの虐殺

19世紀末に広がったゴースト・ダンス運動は、壊れた世界を回復しようとする、ネイティブアメリカンによる、宗教的再起でした。

精霊が戻り、
白人が去り、
死者が蘇る――
それは、崩壊した共同体にとって最後の希望だったと言ってよいでしょう。

しかしその運動が呼んだ結果は、弾圧と虐殺でした。

ここで先住民社会に刻まれたのは、単なる敗北感ではありません。祈った結果、さらに殺されたという、神話そのものへの深い不信です。

『ファイヤー・アンド・アッシュ』で描かれる、アッシュ族のエイワへの不信、信仰の分裂、神の沈黙は、この歴史的トラウマと強く響き合っています。信仰は共同体を救うとは限らない。むしろ信仰そのものが、内部対立と破壊の引き金になることすらある。

「神はなぜ我々を守らないのか」
「精霊は死んだのではないか」

そういう宗教的絶望が、歴史の中で繰り返し生まれてきたことを思えば、アッシュ族のような存在を“あり得ない設定”として笑うことはできません。むしろ彼らは、植民地史が必ず生み出してしまう「別ルート」の象徴なのだと思います。

そして本作が面白いのは、この“別ルート”が、外敵に対する抵抗の物語を複雑化させるだけでなく、ナヴィ側の倫理の純度をも揺さぶってくる点です。
もしエイワが絶対善であり、ナヴィが絶対善であるなら、物語は気持ちよく終われる。しかし、エイワが沈黙し、ナヴィが分裂し、侵略者が“適応”を獲得していくなら、シリーズの展開は混沌としてゆくしかない。

私はここに、キャメロンがこのシリーズを単純な「和解神話」として収束させる気がない理由が見えてくる気がします。


■「呪われた建国史」としての『アバター』

私は、キャメロンが『アバター』シリーズを、アメリカの建国史を“呪い”として描こうとしているのではないか、という予感を持っています。

アメリカの建国史には、自由と民主主義の神話があり、同時に、先住民の土地の収奪と条約破りの歴史があります。

条約は結ばれた。しかし破られた。
共存は語られた。しかし構造的に不可能だった。


ここで重要なのは、「和平」という言葉そのものが、時に暴力の道具になることです。侵略者は和平を掲げながら土地を奪い、制度を押し付け、同化を促し、抵抗を鎮圧する。だからこそ、『アバター』は“美しい和解”では終われない。もし終わってしまえば、都合の悪い歴史を神話で洗い流すことになるからです。

キャメロンが参照しているのは、ネイティブ・アメリカン史の「悲劇」ではなく「構造」なのではないでしょうか。接触、幻想的共存、資源をめぐる不可逆な対立、被害者内部の分断、同化・適応・裏切り・抵抗の複線化、そして侵略者側が先住民的価値を獲得していく――。

3作目のスパイダーの変化は、まさに「侵略者が適応の鍵を得る」局面を象徴していました。この構造が始まってしまった以上、ナヴィと地球人が“対等な共存”に落ち着く未来は、簡単には描けない。描いてしまったら嘘になる。

私は、キャメロンがそこから逃げずに、よりシリアスな混沌を描いてくれるのではないかと、と期待しています。


■第4作・第5作はどこへ向かうのか?

ここから先は、当然ながら確定情報ではなく、三作目までの提示を踏まえた私の予測を書いてみます。

■ 第4作:帰る場所を失った者たち(勝利なき敗北の映画)

四作目で起きる最も大きな変化は、おそらく「人類がパンドラに住めるようになる」ことです。スパイダーの変化が鍵として利用されるなら、RDAは人類の適応を本格的に推し進めるでしょう。

ここで恐ろしいのは、人類がもはや“完全な外部者”ではなくなることです。外部者でなくなった侵略者は、単純な追放の対象ではなくなり、ナヴィ側の倫理も揺らぎます。「追い出せば解決する」という物語が崩れる。

また、アッシュ族は単なる敵役ではなく、「未来のナヴィの一形態」として再定義されていく可能性があります。神話が機能しない世界を生きるために、ナヴィが自らの倫理を変質させていく――その現実を、サリー家は否応なく目撃することになるのではないでしょうか。

ジェイクは救世主として勝利するのではなく、「もう勝てないことを知っている存在」へと変わっていく。ネイティリとの価値観の断絶が深まり、家族の結束も揺らぐかもしれません。四作目は、“勝って終わる映画”ではなく、“敗北しながら続く、”帝国の逆襲”的な映画”になるのではないかと。私は予想します。

■ 第5作:神話の終わり(誰もこの土地を自分のものにできない)

五作目でシリーズが到達する地点は、おそらく「エイワとは何なのか」が決定的に再定義される結末が描かれるのではないでしょうか。

エイワは守護神のように見えてきた。しかし本当にそうなのか。もしエイワが惑星規模の自己防衛システムのようなものであり、必要とあればナヴィにも人類にも等しく残酷に振る舞うのだとしたら――シリーズは“救済の神話”ではなく、“惑星の意思”の物語になります。

最終的に起きるのは、完全な勝者がいない結末だと私は思います。ナヴィが消滅するわけではない。しかし世界の中心でもなくなる。人類も支配者になれない。つまり、「誰もこの土地を自分のものにできない」。

ネイティブ・アメリカン史において、失われたものが神話的に回復されることはなかった。その事実を、映画が安易に回復してしまえば、それは慰めにはなっても、歴史の重みを持つ物語にはならない。
だからこそ『アバター』の到達点は、「取り返せなかった」という事実を、未来へ持ち越す物語になるのではないか。私はそう考えています。


■キャメロンが残す“希望”とは

ここまで書くと、暗い予想に見えるかもしれません。
しかし私は、キャメロンが虚無主義者だとは思っていません。彼が残す希望は、おそらく平和でも和解でも勝利でもなく、「記憶され続けること」なのだと思います。

ナヴィがいたこと。
彼らの世界がどう破壊され、どう分裂したのか。
それでも何を守ろうとしたか。
その記憶が、未来の人類にとって呪いになり、倫理の重石になる。

それは「アメリカは正しく建国された」という物語ではなく、
「アメリカは、取り返しのつかない罪の上に存在している」という認識を、物語として刻み直すことになるのではないでしょうか。

もし『アバター』がそこまで踏み込むなら、このシリーズは単なる大作娯楽ではなく、アメリカが語れなかった建国神話をSFとして書き直す試みとして、非常に重要な位置を占めるシリーズになるはずです。


結語:このシリーズを見届けたい

最後に、率直な感想に戻ります。
本作『ファイヤー・アンド・アッシュ』は、序盤が長い。説明が多い。家族が引き裂かれ、捕らえられ、救出され、自然が決定打を出す――その動線は、旧作と似通っています。『スター・ウォーズ』のような長尺シリーズを一通り体感してきた者からすれば、既視感が強いのも事実です。

終盤の怒涛のアクション描写には興奮もして、「腐ってもキャメロンだ」と思わずにはいられない瞬間がありました。映像技術と空間演出に関しては、依然として唯一無二の水準にあると感じます。

それでもなお、本作を「退屈だ」と受け止めた観客が少なくなかったであろうことも、否定できません。私自身はここまで延々と書いてきたように『アバター』シリーズが、アメリカの呪われた建国史――先住民の土地を奪い、分断と同化を繰り返して成立してきた歴史――を、SF神話として書き直そうとする、極めて野心的な試みであるのではないかという希望を感じています。

からこそ私は、三作目で示された「神話の安全圏を捨てる兆し」を信じ、
四作目、五作目がどこへ辿り着くのかを、この「退屈さ」も含めて、最後まで見届けたいと思っています。


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