答えを渡すのではなく、カードを一緒に並べる
先日、新崎流さんの記事を読んで、強く心に残った言葉がありました。
その人が持っているカードを、一緒に机の上に並べたいだけなのだ。
困っている人を見ると、つい解決策を教えたくなる。
でも、答えを渡したいわけではない。
本人が持っている選択肢を、一緒に見える場所へ並べる。
新崎さんは、そのようなことを書かれていました。

この文章を読んだ時、
「私がやりたいことも、これなのかもしれない」
と思いました。

私は現在、うつで療養しています。
今でも、自分一人では考えがまとまらなくなり、AIに話したり、相談機関へ連絡したりすることがあります。
相談したからといって、問題がすぐ解決するわけではありません。
人間関係が急に変わるわけでもない。
仕事に関する問題が、その場で終わるわけでもない。
生活上の不安が消えるわけでもありません。
それでも、誰かに話を聞いてもらうと、少し頭の中が整理されます。
一人で考えている時は、
起きた事実。
自分の感情。
過去の記憶。
相手の気持ちについての推測。
これから起きるかもしれない不安。
それらが全部、ひとかたまりになっています。
たとえば、相手から短い返事が来た。
それ自体は、一つの事実です。
でも、心が弱っている時の私は、そこから一気に、
「嫌われたのかもしれない」
「私は必要とされていない」
「結局、私が悪い」
という結論へ進んでしまうことがあります。
事実と解釈が、くっついてしまうのです。

誰かに話すと、
「実際に起きたことは何だったのか」
「自分はどう感じたのか」
「まだ分からないことは何なのか」
「今すぐしなくてもよいことは何なのか」
と、少しずつ分けて考えられるようになります。
答えをもらわなくても、
「それはつらかったですね」
と受け止めてもらうだけで、安心することもあります。
安心すると、ようやく少し離れた場所から状況を見られるようになります。

私はこれまで、曖昧な状態がとても苦手でした。
分からないことがあると、早く結論を出したくなる。
相手が何も言わない。
動いているように見えない。
何を考えているのか分からない。
すると、
「私が動かなければ」
「私が何とかしなければ」
と思っていました。
職場でも、家庭でも、地域活動でも、似たことを繰り返してきた気がします。
そして、複雑な出来事を整理できない時には、
「全部、自分が悪い」
と考えることもありました。
自分を悪者にすると、話が単純になります。
相手の問題。
組織の問題。
環境の問題。
体調の問題。
偶然が重なった部分。
本当はいくつもの要因があるのに、
「私が悪かった」
と決めれば、一つの答えで終わらせられます。
苦しいけれど、曖昧ではなくなる。

自分を責めれば、
「次はもっと頑張ればいい」
という、自分で操作できる話にもできます。
反対に、
「相手にも問題があったかもしれない」
「仕組みに無理があったかもしれない」
「誰にもすぐ答えを出せない問題だったかもしれない」
と考える方が、実は不安です。
分からないものを、分からないまま置いておかなければならないからです。

最近になって、ようやく少しずつ、
「今はまだ分からない」
と保留できる場面が出てきました。
心配でも、すぐには動かない。
気づいても、すぐには背負わない。
少し離れた場所から、様子を見る。
近づきすぎると、その人や目の前の問題しか見えなくなります。

でも、少し距離を取ると、その周りにあるものが見えてきます。
人間関係。
生活環境。
経済状況。
これまでの経験。
本人が本当に望んでいること。
利用できる制度。
周囲にいる人。
その人自身が持っている力。
社会福祉士の勉強をしている今、
この「少し離れて全体を見る視点」が、とても大切なのだと感じています。

以前の私は、問題に気づいたら、対処することが支援だと思っていました。
危険があるなら止める。
困っているなら解決する。
分からないなら教える。
もちろん、それが必要な場面もあります。
医療や介護では、悪化を防ぐことや、安全を確保することが強く求められます。
でも福祉では、それだけでは足りないのかもしれません。
本人が選ぶこと。
試してみること。
時には失敗すること。
失敗した後に振り返り、自分で気づくこと。
それらをすべて先回りして奪ってしまえば、安全にはなっても、その人の人生ではなくなってしまいます。
かつてある社会福祉士が、よく「見守ることが大切だ」と話していました。
失敗しても、それが本人の気づきになることがある。
当時の私は、言葉としては分かっていたつもりでした。
でも、今になってようやく、その意味を少し実感できるようになりました。
見守ることは、放っておくことではありません。
見ている。
必要な時には支えられる位置にいる。
選択肢や必要な情報は伝える。
危険が大きすぎる時には介入する。
でも、本人に代わって全部を決めない。
失敗した時にも責めず、一緒に振り返る。
それが「見守る」ということなのかもしれません。
新崎さんの記事には、
人は焦ると、「この方法しかない」
と思い込みやすいという話も書かれていました。
私自身、今でもそうなることがあります。
頭では、
「これは一時的な波だ」
「少し休めば元に戻る」
と分かるようになってきました。
それでも、苦しい時にはカードが一枚しか見えなくなります。
自分を責める。
逃げる。
全部を終わらせる。
そのような極端な選択肢だけが、大きく見えてしまう時があります。

だからこそ、誰かと一緒にカードを並べる必要があるのだと思います。
寝る。
シャワーを浴びる。
お風呂に入る。
相談する。
誰かに任せる。
途中で席を外す。
今日中に答えを出さない。
事実と、自分の解釈を分ける。
「自分が悪い」以外の説明を一つ考える。
以前より、私の手札は確実に増えています。

そして最近、大きな手続きの最前線から少し降りることにしました。
自分がすべて説明し、最後までその場にいなければならないと思っていましたが、支援してくれている人たちに任せることにしました。
つらくなったら途中で退席してもよい。
最後まで背負わなくてもよい。
そう決めたことで、少しだけ気持ちが楽になりました。

私は、人のカードを並べることは比較的できるのかもしれません。
誰かの話を聞きながら、
「こういう制度もあります」
「この人へ相談する方法もあります」
「今すぐ決めなくてもよいのではないですか」
と、一緒に整理することが好きです。

でも、自分自身が渦中にいる時には、自分のカードが見えなくなります。
カードを並べる人にも、
一緒にカードを並べてくれる誰かが必要なのだと思います。
私が形にしたいと考えているCoinBridgeも、
答えを教える場所ではなく、
困りごとを一緒に整理し、選択肢が見える状態へ戻すための場所なのかもしれません。
すべてを解決することはできません。
本人に代わって人生を決めることもできません。
でも、話を聞くことはできる。
複雑に絡まった問題を、少しずつ分けることはできる。
本人が気づいていないカードを、一緒に探すことはできる。
そして、
「あなたには、これしかないわけではありません」
と伝えることはできるかもしれません。
相談することは、弱い人が答えをもらいに行くことではない。
自分一人では見えなくなった景色を、別の場所から一緒に見てもらうこと。
一度、机の上にカードを並べ直すこと。
そして最後は、自分で選び直すこと。
私は、そんな支援のあり方を少しずつ考えていきたいと思っています。
今回、このことを考えるきっかけをくださった新崎流さんに、感謝いたします。
【引用・参考記事】
新崎流さん
「焦ると、人はカードを一枚しか持っていないと思い込む」
⸻
#CoinBridge (コインブリッジ)
構造を言語化し、現場と制度をつなぐ
はじめて読んでくださった方へ。私の活動やCoinBridgeについては、こちらにまとめています。
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