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辰砂が語る古代史

倭姫命物語 第十四話 辰砂が語る古代史

前回記事で【丹生鉱山】の「水銀朱」のことに触れましたが、さらに深く調べていくうちに、興味深い事実がわかりました。今回は、その内容について詳しく解説していきます。



辰砂しんしゃとは? その特徴と歴史


 「辰砂しんしゃ」は、硫化水銀(HgS)を主成分とする鮮やかな朱色の鉱物です。中国の辰州(現在の湖南省)で多く採れたことから「辰砂」と呼ばれるようになりました。司馬遷の『史記』にも記述があり、古くから珍重されていたことがわかります。日本でも縄文時代から顔料などとして使われており、【森添遺跡】でそのことが確認されています。辰砂の産地である【丹生水銀鉱山】については、前回記事で紹介していますので、ぜひご覧ください。


『魏志倭人伝』における「辰砂」の記述

 『魏志倭人伝』には、「辰砂」に関するの記述が2か所あります。

1.
(倭国では)「真珠や青玉を産出し、山には(辰砂)がある」と記されています。

(原文)出真珠青玉 其山有丹

2.
卑弥呼への返礼品として、絹などと共に、「金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鈆丹各五十斤」が贈られたと記されています。
(原文)金八両 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠鈆丹各五十斤

 ここで注目すべきは、1の「真珠」は一般的な真珠(パール)を指すのに対し、2の「真珠」は「王」へんの無い「真朱まそほ」、つまり「辰砂」を意味すると解釈されている点です。

卑弥呼は「辰砂」と「鉛丹」をそれぞれ約11kg(50斤)贈られたことになります。

注釈

※「辰砂しんしゃ」は、朱砂しゅさ丹砂たんしゃ、朱、水銀朱、水銀、真朱まそほ真赤土まはになど、様々な呼び名を持つ鉱物です。

※「鉛丹えんたん」は鉛と酸素の化合物で、辰砂とは全く異なる赤色顔料です。


弥生時代の墳墓における辰砂

辰砂の用途

 辰砂は、時代と共に用途を広げていきました。初期には赤色顔料として利用されていましたが、弥生時代後期から古墳時代にかけては、埋葬施設において魔除け、防腐効果、権威の象徴など、様々意味合いで使用されるようになります。また、古墳の装飾に用いられた事例もあります。さらに時代が進み、仏教が伝来し仏像がつくられるようになると、辰砂は金メッキの材料としても活用されるようになりました(アマルガム法)。

丹生水銀鉱跡
奈良の大仏のメッキに2トンの水銀が使われ、大半は丹生産であったという


弥生時代の墳墓と辰砂

 弥生時代後期になると、各地で地域を統治する王などを埋葬するための大型墳墓が築かれるようになります。これらの墳墓には辰砂が使用されていました。辰砂の赤色は、生命力、太陽、血などを連想させ、再生を願いや不吉なものを祓う力があると信じられていたと考えられています。

各地の墳墓で使用された辰砂の同位体比を分析し、その辰砂の産地を推定する研究が進められています。

辰砂の産地を特定する化学的な手法

    硫黄同位体比分析は、試料に含まれる硫黄原子の同位体(質量数の異なる硫黄原子)の存在比を測定する分析手法です。この比率を調べることで、物質が生成された環境や起源を推定することができます。

 南武志氏著『遺跡出土朱の起源』によれば、中国(貴州省・陜西省産)と日本(三重県丹生鉱山、徳島県水井鉱山など)の辰砂鉱石に含まれる朱の硫黄同位体比を分析した結果、日中の辰砂には明確な違いがみられたとのことです。

興味深いことに、弥生時代後期から晩期にかけての遺跡(福岡県春日立石遺跡、出雲西谷墳丘墓、鳥取紙子谷門上谷1号墓、丹後大風呂南遺跡など、王墓とみられる遺跡)から出土した朱からは、中国陜西省産辰砂と一致する硫黄同位体比が検出されたそうです。

 さらに、丹後地方においては、大風呂南遺跡からは中国産の朱が検出された一方で、ほぼ同時代の赤坂今井墳墓から出土した朱は、あきらかに三重県の丹生鉱山産の値を示したとのことです。

赤坂今井墳墓
現地案内板
丹後古代の里資料館『丹後王国の世界』より拝借
丹後古代の里資料館『丹後王国の世界』より拝借


 また、出雲地方の10の遺跡出土した朱を比較した結果、中国産の朱が使われていたのは西谷墳丘墓のみで、他の9遺跡のうち8遺跡からは大和水銀鉱山または丹生水銀鉱山産の値が検出されたといいます。

奈良県の古墳らか出土した朱についても、中国産を示す値は観察されておらず、大和水銀鉱山産か丹生鉱山産の辰砂が使用されていたと推察されています。

より詳細な情報については、下記URLから『遺跡出土朱の起源』をご確認ください。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography/117/5/117_5_948/_pdf


赤坂今井墳墓

 
 丹後地方の弥生時代終末期最大級の墳墓【赤坂今井墳墓】。この墳墓に使われた朱は、丹生水銀鉱山で産出されたものだと考えられます。さらに特筆すべきは、被葬者が女性である可能性が指摘されている点です。

丹後古代の里資料館『丹後王国の世界』より拝借

 外宮の祭神、豊受大神が丹後から遷座した謎。その真相に迫る上で、【赤坂今井墳墓】は重要な手がかりとなるかもしれません。


伊勢の朱と丹後をむすぶもの


   三重県多気町丹生にある丹生鉱山。この鉱山から産出される朱は、一体誰が、どのようなルートで丹後まで運んだのでしょうか。この謎が解ければ、真相解明へ大きく前進するはずです。

弥生時代終末期の丹後地方


 【赤坂今井墳墓】が築かれた弥生時代終末期、丹後はどのような地域だったのでしょうか。丹後地方の遺跡からは、当時の様子をうかがい知れる事実があります。

■中国・朝鮮半島との交易
出土する遺物から交易が行われていたことがわかります。
■東海・関東地方との交流
東海・関東地方由来の外来土器が出土しており、これらの地域との人的交流があったと考えられます。
■出雲との文化的な違い
山陰と北陸に挟まれた立地でありながら、出雲とは墓の形状が異なります(方形台状墓)。

つまり丹後は、出雲とは異なる文化を持ち、東海・関東との交流があり、中国製の遺物も出土する地域です。王墓に使用された朱についても、中国産のものと丹生鉱山産のもの、両方が確認されています。
 

誰が運んだのか


 丹後の【赤坂今井墳墓】に使われた丹生鉱山の朱は、誰が、どのようにして運んだのでしょうか。

度会町教育委員会『森添遺跡』パンフレットより拝借


 丹生鉱山に近い、【森添遺跡】(縄文時代の遺跡)からは、朱が付着した磨石や土器とともに、各地の外来土器が多数出土していますから、当時、様々な地域の人々が朱を求めてやってきたと考えられます。

一方、丹後からは東海・関東の外来土器が出土しています。この点に注目すると、丹後の人々が丹生へ行ったのではなく、伊勢湾に面する伊勢や尾張を拠点とする海人族が、丹後へ朱を運んだ可能性が考えられます。

倭姫命の巡幸ルート

 丹生鉱山から丹後へのルートについて、想像を膨らませてみましょう。

 最も早く丹後へ辿り着くには、まず伊勢湾を北上し、かつて存在した【味蜂間海あじはちまのうみ】を進み、現在の愛知県一宮市あたりまで船で移動します。その後、鈴鹿山脈と伊吹山の間を抜けて琵琶湖へ。ここまでは、まさに倭姫命が辿ったとされるルートと重なります。そして、琵琶湖を船で北上し、若狭湾を経て丹後へ至る、というルートが考えられます。

過去記事に載せた倭姫命の元伊勢ルート。☓☓☓で記すところはかつて味蜂間と呼ばれる海でした。


伊勢湾を本拠とする海人族あまぞく

 海人族が辰砂を丹後へ運んだと仮定した場合、もう少し具体的に彼らを特定できるでしょうか。『古事記』を紐解くと、神武天皇の皇子、神八井耳命かむやいみみのみことを祖とする船木氏、尾張の丹羽臣、島田臣ら【多氏おおうじ】の一族、または尾張氏が候補として挙げられます。

船木氏
日本海側を中心に諸国に点在。『住吉大社神代記』には「船木等本紀」として記述があります。
丹羽臣
尾張国丹羽郡を本拠とする。『先代旧事本紀』によると、丹羽君大荒田の娘が、尾張連の祖である 建稲種命たけいなたねのみことに嫁いだとされています。建稲種命は日本武尊の東征に随伴し、軍功をあげました。建稲種命の妹の宮簀媛は日本武尊に娶られ、草薙剣を奉納し熱田社を建てます。
島田臣
尾張国海部郡あまぐんを本拠とする。成務天皇の御代に尾張国島田郷の悪神を平定し、島田の姓を賜ったと伝えられています。

尾張氏や津守氏との関連も考えられますが、尾張氏、住吉大社の津守氏、籠神社の海部氏らは、系譜に操作が見られるため、弥生時代の事柄について特定するには至りません。

大和との関わり

 古墳時代に入ると、丹後には巨大な前方後円墳が築かれるようになります。また、大和では、箸墓古墳のすぐあと3世紀後半に築造された黒塚古墳で、丹生の朱が使われていることが確認でき、丹後、伊勢湾、大和の繋がりをより具体的に示すことができます。

しかし、弥生時代の段階でこの三者の関係を捉えようとすると、【唐古・鍵遺跡】から出土する外来土器から推測するに留まります。

崇神天皇陵近くにある黒塚古墳。3世紀中葉から後期に築造されたと考えられています。三角縁神獣鏡33面や多数の刀剣類が未盗掘の状態で発見されました。
黒塚古墳案内板


奈良盆地で最大の弥生遺跡

 【唐古からこかぎ遺跡】では、弥生時代前・中期は、伊勢湾岸地方からの土器が多く、中期後半には瀬戸内、特に吉備の土器が運ばれてきます。そして、弥生時代終末期から古墳時代初頭には、東海系と瀬戸内系いずれの数も急増します。そして、その後、唐古・鍵遺跡のムラは、まるで【纏向まきむく遺跡】へ引っ越すかのように姿を消します。

【余談】

 『日本書紀』崇神天皇12年条に、四道将軍が異族を平定し多くの異族の人が帰順し、来朝したと記されていますが、【纏向遺跡】で出土した外来土器からは、まさにそのような状況がうかがえます。邪馬台国畿内説を唱えたい方々には都合がよくないので、外来土器の比率にふれられることは少ないと思いますが(笑) 

桜井市埋蔵文化財センター展示パネル 纏向遺跡の外来土器の比率
「西は九州から」とありますが、カケラ数点のみで、上記円グラフには表示できません


尾張の海人族と中国・朝鮮半島交易

 東海地方の海人族が丹後に行く理由は何だったのでしょうか。丹後が交易してきた中国・朝鮮半島の品々を、丹後と交易するために出かけたとは考えにくいでしょう。なぜなら、下は伊都国で出土した外来土器の画像です。尾張は伊都国と交易していますので、丹後から中国製品を仕入れる必要がないからです。

伊都国歴史博物館展示パネル


逆に丹後の外来土器はありませんね。大和もありません。

尾張から北部九州へ瀬戸内海を進む場合、吉備に封鎖される可能性があります。丹後は出雲文化圏に挟まれながらも独自の文化を維持しています。また、丹後に尾張氏の痕跡が見られます。これらの点から、丹後は元々、尾張の海人族と同族だったのではないか、という仮説を立てることができます。

点と点をむすぶ

 辰砂鉱山、丹後の墳墓、大和との関わり。これまで述べてきた要素を線で結びつける存在として、伊勢湾を本拠とする海人族の存在が見えてきました。もっとも、この考察は文献等に裏付けされたものではなく、あくまで私の想像に過ぎません。しかし、想像力を働かせなければ、新たな発見に至らないのも事実です。

 もし、今回の記事に関連する情報や、ご意見をお持ちの方がありましたら、ぜひ聞かせてください。

今回の記事を通して、伊勢と丹後という地域が、弥生時代後期、には密接な繋がりを持っていた可能性が見えてきました。今後も引き続き、「丹後から伊勢に遷座したの豊受大神の謎」について、深掘りしていきたいと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


おまけ


高速道路のSAの、もっちり太麺の「伊勢うどん」。美味しかったですけど、ビジュアルはイマイチかなぁ(笑)



【参考文献】

日本書紀Ⅰ 井上光貞監訳 中公クラシックス
全現代語訳 日本書紀 上 宇治谷孟 講談社学術文庫
新版古事記 中村啓信 角川ソフィア文庫
神社のいろは要語集 神社本庁 扶桑社
倭姫命の御巡幸 岡田登監修 アイブレーン
森添遺跡 度会町教育委員会
丹後王国の世界 京丹後市立丹後古代の里資料館
森添遺跡と宮川流域の縄文世界 度会町教育委員会
國學院大学氏族データベース
Google Gemini Pro
ナレッジジャパン検索 『日本国語大辞典』『国史大辞典』ほか。



 

 







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