日本海三大古墳を巡る
大和朝廷の全国統一 第十話 第十一代 垂仁天皇 ⑤
はじめに
丹後地方の墳墓から出土する遺物でわかることは、当地が弥生時代から中国・朝鮮半島と交易を行っていたことです。そして4世紀から5世紀にかけて巨大な前方後円墳が築かれるようになります。古墳を巡りながら、古代丹後地方と大和朝廷との関わりについて考えてみましょう。
弥生時代



特筆すべき事柄
文字数の加減で、弥生時代については、今回は特筆すべき事柄だけを書きます。
この地を拠点とする海人族は、弥生時代中期には、中国や朝鮮半島、北部九州との交易を行っていたことが遺跡の出土品から明らかです。
この地の弥生遺跡からは、河内や関東・東海地方の外来土器が出土します。
出雲と北陸に挟まれた土地でありながら、墓の形式は「方形貼石墓」という形式のもので、出雲とは異なる文化を持っていたことがわかります。
弥生後期になると貼石墓は影をひそめ、山の斜面を階段状に削り出した「方形台状墓」が造られるようになります。中国製の大刀などに加え、両耳に着ける垂飾りやハチマキ状の頭飾りの装飾品が出土し、女性の被葬者の可能性があります。
弥生終末期には、当時としては最大規模の「赤坂今井墓」が築かれます。吉備の楯築墳丘墓などと共に、大和政権の支配以前にこの地を治める王がいたことがわかります。
(『丹後王国の世界』京丹後市立丹後古代の里資料館 参照)
墳墓の被葬者が女性であったなら、丹後は女王が統治していたということになりますかね?そうすると、あの国なのかもしれません。あの国の南にある狗奴国を大和だと考えることもできますしね。しかし、『魏志倭人伝』に、女王国が一大率を置き、帯方郡の使者が泊まるところと記される伊都国。その伊都国の博物館のパネルを見ると、大和と同様、丹後も伊都国とは人の交流は無かったようですよ。
「遠賀川式土器」というのは有名です。弥生時代前期の土器で、水田稲作の伝播の指標とされており、青森でも出土しています。土器は地方によって特徴があります。ある場所で別の地方の土器が発見されれば、それを外来土器と呼んで、人の移動や交流があったことを示すものと考えられています。
伊都国では畿内の土器は出土していません。つまり外来土器で考えると、大和や丹後は邪馬台国連合には属していなかったということになりますね。

古墳時代
丹後は、大和朝廷の海外交易拠点だった
中国・朝鮮半島との交易と言えば、北部九州のイメージが強いのですが、古墳時代前期には、大和朝廷の支配はまだ九州には及んでいません。[記紀]は、景行天皇から神功皇后の時代に繰り返し九州平定を記します。このことは大和の纏向遺跡から九州の土器がほとんど出土しない(カケラ数点のみ)、つまり人の往来がなかったことでもわかります。

弥生時代の項目でも述べましたが、丹後は早くから中国・朝鮮半島との交易を行う海人族の拠点でした。大和朝廷は、この地の海人を支配下においたとこで、鉄などの金属資源の入手が容易になったと思います。そしてこのことは次の九州平定に繋がっていきます。
[記紀]は、崇神天皇の御代に四道将軍として派遣された丹波道主命がタニワ地方を平定し、土地の豪族河上摩須の娘を娶ったと記します。そして垂仁天皇は、丹波道主の娘、日葉酢媛を娶り皇后としました。
丹波国造家
『先代旧事本紀』「国造本紀」では、成務天皇の御代に、お隣の但馬国造と稲葉(因幡)国造に彦坐王(丹波道主の父)の後裔を国造に定めたと記しますが、丹波国造は、なぜか尾張氏の建稲種命の四世孫大倉岐命を国造に定めたと記します。
4世紀の初め頃から丹後地方では、墳丘長100mを超える巨大な前方後円墳が築かれます。これだけの規模の古墳を連続して海人族の尾張氏の国造が築造することはまず不可能で、あきらかに当地は皇統が支配する地であったと考えるべきです。そう考えると、『先代旧事本紀』が尾張氏を丹波国造と記したことは疑うべきで、私は、丹波道主の後裔が丹波国造家だと考えます。
日本海側三大古墳


このうち、蛭子山古墳・網野銚子山古墳・神明山古墳を「日本海三大古墳」と呼んでいます。今回その3か所を巡ってきましたので、順番に見てみましょう。
蛭子山古墳(蛭子山1号墳)
墳丘長145m 後円部高さ16m。 4世紀中頃の築造と推定。現在は周辺古墳と共に「与謝野町立古墳公園」として整備されています。







網野銚子山古墳
墳長201m 後円部高さ16m(日本海側最大)、 4世紀後半の築造と考えられています。





特徴は、潟湖(ラグーン)に対して、葺石で覆った墳丘の側面を見せる形になっていることです。この地に初めてやってきた人はさぞ驚いたことでしょうね。


日葉酢媛陵と相似形
さらにこの古墳で注目されるのが、奈良の佐紀盾列古墳群で、宮内庁が丹波道主の娘で垂仁天皇の皇后日葉酢媛命の陵と治定する佐紀陵山古墳と相似形ということです。丹波国造家が丹波道主の後裔だと考える論拠の一つでもあります。仮に佐紀陵山古墳が日葉酢媛命の陵で無かったとしても、佐紀盾列古墳群自体が彦坐王系統の王墓であることは間違いないと考えています。
浦島太郎の伝承地
もう一つ注目されるのが、『丹後風土記』(逸文)に記される浦の嶼子(浦島太郎)の伝説が伝わる地に立地することです。



『丹後風土記』[逸文]にある浦の嶼子の話を要約すると、日下部首の祖である筒川の嶼子という男がいた。雄略天皇の御代の話で、釣った亀が神女となって、一緒に蓬莱山へ行き楽しく暮らして、あっという間に3年が過ぎた。次第に郷土を思う気持ちが強まり、とうとう帰ることを決断した。女は「本当に私を忘れないで、恋い尋ねて下さるのなら、この匣を決して開けて見てはいけません」と言って匣(化粧箱)を渡します。ところが民話にもある通り、嶼子は郷里に帰えると箱を開けてしまうんですよねー😞
雄略天皇の御代が舞台ですから、網野銚子山古墳の築造よりは後の話です。雄略天皇の御代には、豊受大神が丹後から伊勢へ遷座します。この物語の主人公、浦の嶼子は日下部首の祖と記されています。そのあたりが話を読み解くポイントでしょうね。また、別の記事で書いてみようかなと思います。
神明山古墳
4世紀末から5世紀初頭の築造とされます。墳丘長190mで網野銚子山古墳に次ぐ大きさ。こちらも潟湖(竹野湖)に墳丘の側面を見せる形式となっています。この古墳と同時期に築造された黒部銚子山古墳がありますが、その2基を最後に丹後には大型の古墳は造られなくなります。竹野神社から古墳に行きました。








まとめ
古墳を訪れると案内板があります。そこには一様に、「丹後一帯を支配した豪族(有力者)の墓と推定される」という定型文句が使われていました。しかし、よく考えてみてください。丹後の豪族っていったい誰ですか?
古墳を造るには膨大なエネルギーがいる
noteで一番最初の記事に書きましたが、大阪府堺市にある仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の築造を、ゼネコンの大林組が1985年に試算したところ、完成まで約15年8ヶ月。ピーク時には作業員2000人/日、専門技術者や指導者含めると総勢3000人/日。そしてその人達に食事を支給する後備え要員まで考えると、一日にその倍の6000人もの人が関わったといいます。
雑ですが墳丘長だけで単純比較すると、仁徳天皇陵が墳丘長525mですので、網野銚子山古墳や神明山古墳はその約1/3の規模。仮に同じ人員を投入できたとしても完成までに5〜6年かかりますし、半分の人数なら10年以上。もっと少なければ、どれくらいの月日を要したのでしょう。
大和政権と関わりがあるはずだが
「これだけの規模の古墳を、連続して地方の国造家が築造することはまず不可能で、あきらかに当地は皇統が支配する地であったと考えるべき」と先ほど書きました。一基造るにも膨大な人員と費用がかかるものを、100年余りの間に何基も連続して築造するには、よほど強大な権力を持つ者でないと出来ません。
しかも、埋葬形式が前方後円墳ですし、網野銚子山古墳に至っては奈良の佐紀陵山古墳と同じ形をしているので、大和政権との関わりなくしては考えられません。
状況証拠はあっても、決定的な証拠がありません。ですから、「丹後一帯を支配した豪族(有力者)の墓」としか書きようがないのはわかります。 ただ、いつもそうしたことが歯がゆいんですよね。
どんな分野の仕事でも、仮説を立て、実験や試作をして、試行錯誤を重ねながら新しいものを生み出しますよね?しかし、歴史学では、神話と歴史的事実を混同するのは危険だとして、『日本書紀』や『古事記』に記されていることでも、それらを元にして古代を語ることを良しとしません。基本、応神天皇以前は神話として切り捨てます。文字がなかった時代ですから、文字に記されたものが新しく発見されるわけないじゃないですか。
まるで永遠に古代を封じ込めようとしているみたい。
すみません、最後は愚痴になってしまいました。引き続き神話と歴史的事実を混同しながら、大和朝廷の全国統一の話を進めていきたいと思います😁
最後までお読みいただきありがとうございました。
おまけ
古墳を訪れた際は、時間が無くコンビニのおにぎりですませませたのですが、昨年丹後を訪れた時に撮ったランチの写真があるので、それを載せます。
和久傳ノ森にある工房レストランモーリです。





