倭姫命は引き返した。 瀧原宮と丹生水銀鉱山の謎
倭姫命物語 第十三話 倭姫命は引き返した。瀧原宮と丹生水銀鉱山の謎
はじめに
今回は、外城田川をさかのぼり、三重県度会郡玉城町の伝承地へ向かいました。そこからさらに宮川、そして宮川の支流大内山川から頓登川に沿って進み、瀧原宮に至った『倭姫命世紀』に記される巡幸ルートを辿ります。
また、巡幸ルートである宮川流域には、縄文遺跡や水銀鉱跡が存在するので、あわせて紹介します。

玉城町の伝承地
伊蘓宮を後にした倭姫命一行は、良い宮処を求めて外城田川の上流へと進みます。
狭田国生神社
所在地:三重県度会郡玉城町佐田字牛カウベ322
御祭神:速川比古命、速川比女命、山末御魂
式内社 皇大神宮 摂社
佐田国(現在の度会郡玉城町佐田)に至った際、速河彦が参上して神田を献上したので、その地に【狭田社】が定められたと記されています。



坂手国生神社
所在地:三重県度会郡玉城町上田辺字大山田2-144-1
御祭神:高水上命
式内社 皇大神宮 摂社
佐田の地からさらに進むと、高水の神が現れ、「あなたの国は何といいますか」と倭姫命が尋ねると、「丘高田深坂手国」と答えて田上の御田を献上しました。その地に定められた【坂手社《さかてのやしろ》】が当社の起源とされています。当地は明治初期まで、内宮の神田があったそうです。



御船神社
所在地:三重県多気郡多気町土羽字南出505
御祭神:大神御蔭川神
式内社 皇大神宮 摂社
さらに進むと、川(外城田川)は終わり、その川の水が寒たかったので、倭姫命はその川を「寒川」と名付けました。そこに御船を泊め、その地に【御船の神社《かみのやしろ》】を定めました。



相鹿瀬
船を置いて陸路を進むと、雨が降り出しました。倭姫命が御笠をかぶったことから、その地は「加佐伎」(現在の多気町笠木)と名付けられました。
次に、大川(現在の宮川)を渡ろうとしたところ、上流から鹿の宍(死骸)が流れてきました。倭姫命は「これは悪いことです」と言い、川を渡るのをやめて、その瀬を【相鹿瀬】と名付けたことが記されています。

神の岩
相鹿瀬からさらに川上へと巡幸を続けました。現在は宮川用水粟生頭首工(農業用取水堰)とダム湖になっていますが、そこには、かつて倭姫命が休息したという【神の岩】があります。

多岐原神社
所在地:三重県度会郡大紀町三瀬川94
御祭神:神奈胡神
式内社 皇大神宮 摂社
さらに進むと、川砂も流すほどの急流の瀬があり、一行が渡りあぐねていると、地元の【真奈胡神】が現れ、浅瀬へと導き助けました。倭姫命はその瀬を「真奈胡の御瀬」と名付け、「御瀬の社」を定めたと記されます。



瀧原宮
所在地:三重県度会郡大紀町滝原872
式内社 皇大神宮 別宮
「真奈胡の御瀬」から少し上流にいくと、大内山川が宮川に合流します。倭姫命一行が支流の大内山川の川上へ進むと、美しい土地がありました。真奈胡神に「この国は何と言うのか」尋ねたら、「大川の瀧原国」と言いました。








瀧原宮は皇大神宮(内宮)の別宮です。『伊勢国風土記』「逸文」には、「倭姫命は船に乗って度会河の上流にのぼり、「滝原の神の宮」を定めた」とあり、『延喜式』には「瀧原宮、祭神 天照大神遥宮」と記されています。
『倭姫命世紀』では、宇太の大宇袮奈に瀧原宮を造らせたところ、倭姫命は「この地は、皇太神(天照大神)の欲し給ふ地にはあらず」と言います。
『延期式』にも載りますから、古くからある瀧原宮ですが、『倭姫命世紀』によれば、天照大神はこの地に鎮まることを望まなかったわけです。他の元伊勢では地元の神が神田などを献上したことが記されるのですが、瀧原国ではそうした記述もありません。それにも関わらず、天照大神の御魂が祀られ、「遥宮」として「正宮」に次ぐ格式の「別宮」とされているのは、一体どのような理由があるのでしょうか?
瀧原宮をあとにした倭姫命一行は、先に進むのではなく、山道を通って引き返します。そして、相鹿瀬の少し下流で再び宮川に出ます。普通に考えれば川を下るほうが楽なはずなのに、なぜ一行はわざわざ険しい山道を選んだのでしょう?
【伊勢神宮】は、正式な名称は【神宮】です。内宮は【皇大神宮】、外宮は【豊受大神宮】と言い、この二宮が【正宮】と呼ばれます。そして、内宮・外宮それぞれに【別宮】【摂社】【末社】【所管社】(ランクの高い順)があり、全部数えると125社あります。それら全部をあわせて【神宮】といいます。
度会町の伝承地
川上の清水と乙女岩
地元には、倭姫命が途中に渇いた喉を潤したという「清水」や、休憩したとされる「乙女岩」の伝承があります。



倭姫命の小祠
さらに進むと美しい野原に着きましたが、(なぜか)その地では宮を建てる場所を求めることはできなかったと記されます。姫は侘しくなられて、その土地を「和比(野)」(度会町和井野)と名付けました。



久具都比賣神社
所在地:三重県度会郡度会町上久具211
御祭神:久具都比女命、久具都比古命、御前神
式内社 皇大神宮 摂社
「和比(野)」から進み、再び宮川に出てきました。そこで久求都彦と会い、その場所に「久求社」を定めたと記されます。



疑問点の整理
【相鹿瀬】では「これは悪いことです」という不吉な出来事に遭遇し、【瀧原国】では、「この地は、天照大神さまがお望みの地ではない」という言葉がありました。その上、帰路は川を下らず険しい山道を選び、途中見つけた美しい野原でも、宮が建てられないから侘しいと言いい、「和比(野)」と名付けました。

私には、どうもこの宮川流域の記述には不自然なことが多くて、何か言いたいことが裏にあるような気がしたんですね。
それで地図や写真を見返していると、興味深いことに気づき、さっそく現地へ行ってきました!
丹生水銀鉱跡と森添遺跡
丹生水銀鉱跡
相鹿瀬と瀧原宮の間に丹生水銀鉱跡があります。ここは全国有数の「辰砂」が採れる【水銀】の産地でした。奈良時代に建立された東大寺の大仏のメッキに約2トンの水銀が使われましたが、その大半は当地のものであったと現地案内板に記されていました。
【備考】
「辰砂」は、硫化水銀(HgS)を主成分とする鮮やかな朱色の鉱物です。





「辰砂」から採れる「硫化水銀」は無機水銀で、毒性の強い有機水銀とは異なります。主に赤色顔料や防腐剤として使われ、「丹」とも呼ばれていました。古代においては魔よけや不老不死の効果も期待される大変貴重なものだったと思います。古墳などにも使われていますね。
「辰砂」や「丹」というと、すぐ【徐福】や【空海】、【秦氏】などと結びつけて語られますが、
「辰砂」は縄文時代から採掘され、利用されています。
森添遺跡
先ほど記した、倭姫命が山道から再び宮川へ出たところ、【久具都比賣神社】の近くに【森添遺跡】という縄文遺跡があります。
ここでは朱の付着した縄文土器や石器が多数発掘されています。また、遺跡からは東日本各地(東北・三河・北陸・信濃)の外来土器が発掘され、それら地方からここへ人々が来ていたことがわかります。
そして当地に持ち込まれたものとして、糸魚川の翡翠の勾玉や奈良二上山のサヌカイト、九州のクロム白雲母の管玉などが出土しています。水銀朱を各地に供給し、その対価として各地の貴重品を得ていたのだろうと考えられます。







まとめ

水銀採掘の仮説
今回記事の宮川流域ですが、上の画像にある通り、多くの縄文時代の遺跡がある一方で、弥生時代以降の遺跡はほとんどありません。次に遺構が確認できるのは、朝廷や幕府の力が弱まり、神宮も衰微する南北朝・戦国時代です。
先に載せた丹生水銀鉱跡の案内板の画像をご覧になっていただくとわかりますが、「室町時代になると、史料が少なくなり衰退していったと考えられる」とあります。水銀採掘の衰退と、この地域に人の営みが戻った時期が重なっているように見受けられます。
宮川流域が、長い間人々が土地に定住することを拒んだ事情があって、それに【神宮】が関っていたという仮説をたてました。つまり、神宮(朝廷)が水銀採掘を管理していたのではないかということです。
瀧原宮の意味
また、【瀧原宮】は辰砂の採れる領域の境として、神域を守る役割を担っていた可能性が考えられます。もしそうであれば、「遥宮」と呼ばれ、別宮という格式が与えられたことも合点がいきます。
舟木直との接点
『古事記』には、神武天皇の皇子であり、古事記を編纂した太安万侶の先祖である【神八井耳命】が【伊勢の船木直】らの祖と記されています。大紀町には船木という地名があり、場所はちょうど瀧原宮と多岐原神社の中間になります。このことから、神八井耳命の子孫が、この地域において神宮祭祀に何らかの役割を担っていた可能性も考えられます。
南北朝時代のこと
時代が進み、南北朝時代になると、外宮の度会氏は南朝側につきます。度会町には、南朝の重鎮である北畠親房が、南朝側の拠点として田丸城を築きました。この事実は、神宮の勢力や祭祀が、この時代に大きな変化を迎えたことを示唆しているのかも知れません。『倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)』は度会氏の述作ですから、なぜ『皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)』には記されない宮川流域のことが『倭姫命世紀』に記されたのか、中世のことまで含めて考える必要があります。
結論
これらの要素を総合的に考えると、宮川流域の歴史は、神宮と密接な関係があり、それは水銀朱と深く関わっていた。また、度会氏が『倭姫命世紀』で宮川流域の倭姫命の巡幸を記すのは、記された時期の内宮外宮の微妙な関係が影響していたと考えられます。もちろん、これはあくまで仮説であり、さらなる検証が必要ですが、神宮の成立過程や古代社会における新たな視点となるのではないでしょうか。
このような視点で、シリーズ最後の豊受大神が伊勢に鎮まった謎についても迫っていきたいと思いますが、もし今回記事内容で事実誤認などがありましたら教えてください。
最後までご覧いただきありがとうございました。
おまけ
つじ萬
三重県多気郡大台町佐原686-1
道の駅(奥伊勢おおだい)で食事しようかなと思っていたのですが、ちょうど道の駅の向かいに良さげなお店があったので、こちらにしました。

【参考文献】
日本書紀Ⅰ 井上光貞監訳 中公クラシックス
全現代語訳 日本書紀 上 宇治谷孟 講談社学術文庫
新版古事記 中村啓信 角川ソフィア文庫
神社のいろは要語集 神社本庁 扶桑社
倭姫命の御巡幸 岡田登監修 アイブレーン
森添遺跡 度会町教育委員会
森添遺跡と宮川流域の縄文世界 度会町教育委員会
ナレッジジャパン検索『日本人名大辞典』 『日本国語大辞典』『国史大辞典』ほか。
