元伊勢三所と初代伊勢国造
倭姫命物語 第九話 元伊勢三所と伊勢国造
はじめに
このシリーズは、倭姫命が御杖代として各地を巡り、天照大神が伊勢の五十鈴川の川上に鎮まるまでの間に訪れた、いわゆる「元伊勢」と呼ばれる伝承地を紹介するものです。今回は、「美濃国伊久良河宮」から「伊勢国桑名野代宮」へと至る伝承地の紹介と、そこで登場する度会氏(伊勢の外宮神主家)の祖とされる大若子命について、そして『伊勢国風土記』の「逸文」に記される初代伊勢国造・天日別命について深く掘り下げていきます。
マップで見る倭姫命の足取り
伝承地を紹介する前に、まず下の地図をご覧ください。今回の伝承地を加えた倭姫命の足取りです。こうして見てみると、愛知県や岐阜県は、日本海側と太平洋側を最短距離で行き来できる場所の一つだということがわかります。しかも、高い山を越える必要もありません。
古代においては、海外との交易は太平洋側よりも日本海側が中心でした。地理的な視点で考えると、尾張氏と丹後の海部氏の関係や、彦坐王・丹波道主の支配地域、さらには豊受大神のことなども、見えてくるものがあるのではないでしょうか。

美濃国伊久良河宮
「美濃」は、かつて「三野」と表記され、西側の地域を【三野前国】と呼びました。『先代旧事本紀』「国造本紀」には、第九代・開化天皇の皇子・彦坐王の御子、八爪命を三野前国造に定めたと記されています。
『古事記』は、彦坐王と息長水依比売の子・神大根王(またの名を八瓜入日子王)を三野国之本巣国造の祖と記しています。一方、『日本書紀』も神骨を美濃国造とします。
※文献によって名が異なりますが、地元伝承との整合性から、以降は【神大根王】で記します。
倭姫命から見れば、神大根王は祖父・丹波道主の弟にあたるため、「淑祖父」ということになります。
【伊久良河宮】伝承地である天神神社の東方約3キロの場所には、神大根王の墓とも伝わる【宗慶大塚古墳】があります。また、美濃には彦坐王一族に関する伝承地が各地に点在しています。



天神神社
美濃国【伊久良河宮】と伝わるのは、岐阜県瑞穂市居倉にある【天神神社】です。
天神神社と言っても菅原道真を祀る神社ではありません。戦国時代に、清和源氏の流れを汲む土岐氏が八幡神を祀り、その後、美濃国を領した斎藤氏が天神を勧請したとされています。こうした経緯から、御祭神は高皇産霊神と神産霊神、誉田別命(応神天皇)となっています。
倭姫命に関係する遺物としては、本殿右奥に【御船代石】があります。これは一対の石を置いた神座で、禁足地とされている場所です。この石の周辺からは、神獣鏡や勾玉などの出土品も見つかっており、古代の祭祀を知る貴重な遺跡と考えられています。







尾張国中嶋宮
尾張国としますが、倭姫命の時代には、この地域は美濃国の支配地にあったようです。『倭姫命世紀』には、「美濃国造が様々な貢物と共に、船を献上した」と記されています。正確なところはわかりませんが、中嶋宮も美濃国に属していたのかも知れません。
「船を献上された」倭姫命一行は、次の【伊勢国 桑名野代宮】へは船で向かったと考えられます。実は、中嶋宮のある愛知県一宮市の西側、長良川と揖斐川に挟まれた岐阜県安八町は、その昔、渡り鳥の味鴨が飛来する入江で【味蜂間の海】と呼ばれる伊勢湾の入り海だったそうです。

酒見神社
愛知県一宮市今伊勢町。元々は素佐之男之命を祀る八剣社でしたが、大正6年に近在の六社を合祀してこの地へ遷座したとされます。合祀した東木戸神明社の倭姫命の故事に因んで、昭和39年に社名を【中嶋宮】に改めました。






伊勢国桑名野代宮
倭姫命一行は、ついに伊勢国に入りました。倭姫命が伊勢国造【建日方命】(建夷方)に、「汝が国の名は何ぞ」と尋ねると、「神風の伊勢の国」と答えたと、『皇太神宮儀式帳』や『倭姫命世紀』に記されています。また、『倭姫命世紀』には、ここから【大若子命】(大幡主)がお供として仕えたとの記述もあります。
大若子命は外宮神主度会氏の祖先神とされます。この点については、後ほど詳しく述べます。
野志里神社
三重県桑名市多度町下野代3073
延喜式内社で、桑名野代宮の比定地の一社です。






神館神社
三重県桑名市大字江場1441
神宮の御領であった桑名神戸の明神社であったとされます。






初代伊勢国造・天日別命を深掘りする
『伊勢国風土記』の「逸文」を見る
伊勢の外宮神主家であった【度会氏】は、その系譜の中で、祖先神を【大若子命】(大幡主)とし、大若子命は初代伊勢国造【天日別命】の子孫と記しています。どちらも「記紀」には登場しない神名です。
今回は『伊勢国風土記』の「逸文」から、大若子命や度会氏のことを読み解いていきたいと思います。まずは、『伊勢国風土記』「逸文」の冒頭部分をご覧ください。
伊勢の国の風土記にいう。そもそも伊勢の国は、天御中主尊の十二世の孫の天日別命が平定した所である。
と記されています。天日別命は神武天皇の東征に従い、菟田(宇陀市)に至ったとき、天皇は日臣命(大伴氏の祖)に生駒の長髄彦を、また、天日別命には伊勢を平定するように命じたといいます。そして、土地を支配していた伊勢津彦は東の国(信濃)へ去り、天日別命が伊勢の統治を任されたことが記されています。
天台宗の僧 仙覚
「風土記」というのは、奈良時代のはじめ、和銅3年(713)に出された元明天皇の「風土記撰進詔」を受けて編纂されたものを【古風土記】と分類します。残念ながら、『伊勢国風土記』は現存していません。上記で引用したものは「逸文」と呼ばれ、他の書物に断片的に記されていて、現在に伝わる内容です。
『伊勢国風土記』の「逸文」のこの部分は、『万葉集註釈』に記されているものです。『万葉集註釈』は、鎌倉時代の天台宗の僧【仙覚】によって文永6年(1269)に著されました。
時代背景
平安時代中期には、仏法、王法、神道は一体の関係にあるとする山王神道(比叡山天台宗の仏家神道)が唱えられました。これに続き、真言宗系の両部神道が興ります。真言密教の根本思想である【金剛界】と【胎蔵界】は、金剛界を【外宮】、胎蔵界を【内宮】と表し、金・胎両界の大日如来を伊勢の内外両宮と一体とみなす「二宮一光の説」が生まれました。
鎌倉時代に入ると、神道側でもこの両部神道の考えを取り入れるようになります。その中で、伊勢神道の神典とされる「神道五部書」が編纂されました。その一書である『倭姫命世紀』では、外宮の祭神である豊受大神の神位・神徳を天照大神に並べようとする意図がみられ、天照大神と同じく、天下を統治する神として描かれています。
さらに、豊受大神は天御中主神になぞらえるようになっていきます。天地創造の最初に現れた神ですので、天照大神よりも上位に位置付けられるようになります。
天御中主尊でわかる
『伊勢国風土記』の「逸文」の冒頭には、「天御中主尊の十二世の孫の天日別命」と記されていました(上記引用文参照)。一方、『古事記』に記される天之御中主神は【独神】とされ、子孫となる氏族は存在しないはずです(『日本書紀』には天之御中主神自体が登場しません)。このことから、奈良時代初期、『古事記』や『日本書紀』と同時代に編纂された【古風土記】に、平安時代以降に成立した山王神道や両部神道、伊勢神道の思想が反映されるはずはありません。
つまり、冒頭部分の記述は、『万葉集註釈』が著された鎌倉時代の思想が反映されていることになります。
度会氏の系譜は仮冒ではないか!?
『万葉集註釈』に引用され、現在伝わる『伊勢国風土記』の記述は、前述のとおり仙覚の創作が含まれていると考えられます。もしも【古風土記】の内容全体が改変されていたとすれば、初代伊勢国造【天日別命】の存在も疑わしくなります。何しろ、『伊勢国風土記』の「逸文」にのみ登場する神ですから。そして、天日別命の子孫とされる大若子命も、度会氏の著した『倭姫命世紀』にしか記されていません。こうして考えると、度会氏の系譜自体の信憑性にも疑義が生じてきます。
自分で一応上限としている4000文字を超えてしまったので、今回はここまでにしておきます。この続きは、シリーズの最後に予定している「豊受大神」の回で詳しく書くつもりですが、皆さんのご意見や考えがありましたら、ぜひお聞きかせください。
ただし、コメントをいただいても、ネタバレになるため、私の考えを返信することは控えさせていただきます(笑)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
おまけ



【参考文献】
日本書紀Ⅰ 井上光貞監訳 中公クラシックス
全現代語訳 日本書紀 上 宇治谷孟 講談社学術文庫
新版古事記 中村啓信 角川ソフィア文庫
風土記 吉野裕訳 平凡社
先代旧事本紀 現代語訳 安本美典・志村裕子 批評社
神社のいろは要語集 神社本庁 扶桑社
特選神名牒 八幡書店
倭姫命の御巡幸 岡田登監修 アイブレーン
ナレッジジャパン検索『日本人名大辞典』 『日本国語大辞典』『国史大辞典』ほか。
