日本の「差別」と「偏向」
「偏向」のお国柄
昨日、私は、イギリスBBCの偏向報道問題を取り上げました。
知ってる方も多いと思いますが、現在、アメリカのトランプ政権は、BBCとの対決姿勢を強めています。
ドナルド・トランプ大統領の報道官は、BBCの偏向報道疑惑を受けて行われたインタビューで、BBCを「100%フェイクニュース」であり「プロパガンダ機関」だと痛烈に批判した。
トランプ政権のホワイトハウス高官であるキャロライン・リービット氏は、英国への出張中にBBCのニュース速報を見るのは「一日を台無しにする」と述べ、納税者が「左翼のプロパガンダ機関の費用を負担させられている」と述べた。
(The Guardian 2025/11/8)
そういう意味で、BBCの偏向問題は、すでにイギリスの国内問題ではありません。
BBCの報道は、権威あるものとして、世界的に影響する。
そして、日本のNHKはBBCを手本に作られており、BBCと同じ偏向問題があるのもご存じのとおりです。
少数の左翼活動家集団が社内外で異常に影響力を持ち、それに操られているがごとき実態に関して、BBCとNHKはよく似ています。
その意味で、キャロライン・リービット氏は、日本語ができず、日本のNHKを知らないだけとも言えます。
もし彼女が、日本に出張している時にNHKをチェックしていたら、やはり日本の増税者が「左翼のプロパガンダ機関の費用を負担させられている」ことを問題に思ったかもしれません。
左翼の側から見れば、BBCやNHKを影響下におくことは、非常に効果的です。
マスコミ一般が、左翼の強い味方ですが、NHKの力はその中でも巨大です。
たとえば地方の役人にとっても、公共放送の威力は大きくて、「NHKで否定的に報道される」ことを恐れて、左翼に逆らえなくなるでしょう。
*
ただ、BBCの偏向報道問題を追っていて、日本との違いも感じるんですね。
まあ、素人の雑な文化比較論なんで、適当に聞いてほしいのだけど。
日本の場合、NHKも含めて、BBCみたいに、露骨に「ポリコレ用語」を放送で使うようなことは、あまりないんじゃないでしょうか。
私はテレビを見ないから、自信はないのだけど。
それよりも、「報道しない自由」を駆使することが多いと思う。
都合が悪いことには黙っておく。横並びで。そういうマスコミの文化が強い。
そしてもう一つ、左翼「偏向」の影響は、露骨ではなく、もう少し日常場面に忍び込むように発揮される。
それが「偏向」だと意識されない形で。
「子ども」というポリコレ用語
日本の大成功した「偏向」の例が、「子ども」表記ですね。
「子供」ではなく、「子ども」と表記する。
学校やPTAなどで、「子供」と書くと、「子ども」と書きなさい、と先生や役員から強制されるという。
そして、ここでも、マスコミの「偏向」が彼らの力になる。
「なぜ『子ども』じゃなきゃいけないんですか」
という疑問に対しては、
「だって、新聞でもそうなっている。マスコミがそうだから、それが正しい」
となるわけです。
その思想偏向性については、私は何度も書いてきたけれども。
でも、改まる気配はなく、むしろ、つい最近まで「子供」というまともな表記だった新聞も、今さら「子ども」表記に転向している現状です。
PTAとかで、表現の自由のために闘っても仕方ない。適当にやり過ごすことを勧めます。
でも、強制されて「子ども」を使う場合は、せめて、ポリコレ用語を強制されたBBCキャスターのクロクソールさんみたいに、恥ずかしそうな表情を浮かべてほしい。
「子ども」という表記が現れたのは、私がマスコミに就職した直後でした。
そして、私の現役時代を通じて、「子供」が「子ども」に交代していきました。その意味でも、印象深いです。
日本人は国語に敏感で、やれそれは誤用だとか、読み方がおかしいとか、細かいことにうるさいのに、なぜ「子供」ではなく「子ども」や「こども」になっているのか、今や疑問に思わなくなりつつあります。
私が知る限り、「子ども」は、日本で最も成功した「ポリコレ用語」の一つです。
それに比べて、「障がい」は、まだまだ弱いから、頑張ってほしい。
「パワハラ」という和製英語
もう一つ、思い浮かぶのは、これも何度も書いてきたけど、「パワハラ」という和製英語ですね。
だいたい、少しでも英語がわかっている人なら、「パワー・ハラスメント」なんて言葉、おかしいから使わないはずです。
でも、この言葉は、とくに2000年代以降、日本で大流行して今に至り、誰もおかしいと思わなくなりました。
そもそも「ハラスメント」が「嫌がらせ」ですから。
それが上司であれ、誰であれ、嫌がらせはよくない、とすればいいだけの話です。
でも、「パワー(権力)ハラスメント」という言葉が発明されたせいで、権力者、役職者が権力を振るうこと自体が「嫌がらせ」になる、という認識が定着しました。
もともと、「パワハラ」という和製英語は、学校のイジメ問題が社会の話題になった時、会社でも、上司からイジメられてるよね、という子供みたいな発想から生まれました。
もし、部下が仕事でミスをして、上司が思わず怒ったとしたら、今では責められるのは上司であり、部下ではありません。最悪、上司はクビになります。
それはおかしいと、もう言えない空気になっています。
この「パワハラ」という言葉は、いわゆるフーコー主義を、左翼が日本に定着させるために、絶大な効果を発揮したのでした。
ミシェル・フーコーなんていうバカな学者が出てきて「権力はどこにでもある」なんて言うもんだから、この傾向は現代においてますます拍車がかかってしまった。彼らはもはな現実の抑圧者と戦うのではなく、象徴的な権力像と戦うようになり、そういう自分の純粋さを演出するクセを身につけてしまった。
ミシェル・フーコーなんていうバカな学者が出てきて「権力はどこにでもある」なんて言うもんだから、この傾向は現代においてますます拍車がかかってしまった。彼らはもはな現実の抑圧者と戦うのではなく、象徴的な権力像と戦うようになり、そういう自分の純粋さを演出するクセを身につけてしまった。
— 剣kenn (@hskenncutter) October 30, 2025
で、「パワハラ」という言葉が大成功したから、その後はほとんど何でもアリになって、モラハラだの、マタハラだの、カスハラだの、バリエーションは尽きません。
その一つの究極の形を、今は「マイクロアグレッション」と言うそうです。

これマイクロアグレッションという、いわゆる何を言っても差別になるとんでもない考え方。埼玉県は本当に流れを変えないと住めなくなるよ! https://t.co/gUHvdedCQ8
— satoshi.k (@sk31047) November 6, 2025
人間のどんな振る舞いだって、「嫌がらせにつながることがある」と言われれば、そりゃそうだ、としか言えない。
でも、人は、そんなことだけ気にして生きているわけではない。
人に嫌がらせをするのはよくない、という教育をすればいいだけなのに。
それを、こういうふうに、日常の振る舞い、発話、仕草を縛るような形で、具体的に規制する。
そして、日本人は、こういう「仕草」をしつけられるのが、好きなんでしょうね。
そんな気がします。
その背後にどういう思想やイデオロギーがあるのか、とかはあまり考えない。
「なんか、いいことだから、みんなすればいい」と思って、みずから他人を規制する側に回る。
そして、「パワハラ」ふくめて、こういう規制で俎上にのぼり、攻撃され、追放されるのは、保守派というか、左翼以外が多い。マスコミ業界で見ていてもそうです。
詳しいことは知らないけど、最近フジを事実上解任された反町理氏とか。彼は、私から見て、政治的に公正な立場をとることが多く、私は好きだったんですけどね。
左翼や左翼政党が同じことをして、指摘されても、それほど大ごとにならない。
結局、主流の左翼メディアがどれだけ騒ぐかで、結果が決まるところがあります。問題になる言動があっても、左翼ならすぐ復帰できたり。
という印象が私は強いけど、どうでしょう。それが、どっちの側の「武器」になっているか、かなり明確だと私は思う。
差別をなくすのは「規制」か
いや、私だって、差別をなくすのは大賛成ですよ。
たとえば、女性差別に関してだって、私の70年くらいの人生のあいだにも、いちじるしく改善されました。
まあ、たとえば、子供の頃は「夫婦茶碗」みたいな文化があって、結婚式のプレゼントでよく贈ったりしていました。
その頃は、お母さんのお茶碗は、お父さんのお茶碗より小さかったのです。プレゼント品の話ではなく、現実の食卓の茶碗が。
食事の中身も、父親のが一品多かったりして。それが当たり前、という文化があった。少なくとも、私の育った九州では。
まさに男尊女卑、「家父長制」ですよね。
学校でも、必ず男の子が級長で、女の子が副級長ーーまあ、これは、国レベルでも、ごく最近までそうだった。
そういう差別は、九州だけでなく、いま私の住む川崎市の郷土史なんかを読んでも、戦後すぐまでは出てきます。
お風呂に最初に入るのはお父さん、あるいは男で、最後がお母さん、女が入るとか。
川崎では、女性が「嫁入り」すると、実家から歩いてきた靴を屋根の上に投げる習慣があったそうです。二度と実家に帰れない、女はその家から出られない、という象徴的行為です。
そういう時代は、そんな昔のことではありませんでした。
でも、今は、そういう「差別」は、ほぼ消えたのではないでしょうか。
その差別解消のために、フェミニズムとかが効果を発揮したのかもしれない。
その功績は、率直に認めたいです。
でも、ファミニズム登場以前から、男女差別をなくす長い運動の歴史がありました。
中世にも、女性だけの駆け込み寺みたいなのがあったし。
ファミニズムや左翼だけが「でかい顔」できるわけではないと思う。
私の子供の頃、1960年代を振り返ると、「差別解消」には、二つの方向性があったと思います。
たとえば、貧富の差とか、性差別とかをなくすために、「みんな同じ服を着ればいい」という発想があった。
「人民服」みたいに。
私も、子供の頃は、実はそれがいいと思っていたんです。
美醜の格差を際立たせるから、ミスコンなんかやめろ、というのも同じ発想ですね。
実際、60年代や70年代は、ミスコン的なものは次々に廃止に追い込まれました。
それは、「差別語狩り」が、最も盛んな時期でもありました。
でも、もう一つの方向があって、
「みんな自由にやればいいんじゃない?」
という方向ですね。
結局、こっちの方向が、「差別解消」にも役立ったのではないでしょうか。
男も女もみんな同じ服を着るのではなく、女性は、男と同じ格好をしてもいいし、「女性性」を際立たせた「カワイイ」服を着てもいい。
現在はそうなっているし、そういう価値観の多様化によってこそ、差別が解消されていった実感があります。
何でも規制をしたがるのは、左翼だけではありません。右翼も同様です。
「国旗損壊罪」についての懸念も、書きました。
私は、長期的には、そういう規制や全体主義より、自由主義が、差別解消という点でも勝利してきた、と思っています。
たいへん雑な議論ではありますが、私の中では、それなりに人生経験にもとづいているんですけどね。
<参考>
