人間は「文化の産物」ではない! 左翼リベラルの思想・学問はすべてインチキだ! という説
参政党の神谷宗幣代表が「文化的マルクス主義」を批判したことから、左翼リベラルの一部が、
「文化的マルクス主義なんて、世界中のネトウヨが合言葉のように使ってるバカな言葉だ。中身はない。バーカ、バーカ」
みたいな罵倒を始めた。
文化的マルクス主義について、記事を書いたことある私にも、なんかトバッチリみたいなのがあります。迷惑です。
それについては、日本の左翼理論の大物、白井聡氏が、さすがの態度をとっていました。
参政党の神谷氏が「文化的マルクス主義」という用語を使ったことを取り上げて嘲笑っている人たちは、「文化左翼」という言葉を知ってるのかな? 私は知ってるから、このことについて神谷氏を嘲笑う気にはまったくならないな。
なお、私はと言えば、非文化的な、すなわち野蛮な、マルクス=レーニン主義者なので、文化的マルクス主義者ではありません。
(白井聡 2025/8/24 23:53)
参政党の神谷氏が「文化的マルクス主義」という用語を使ったことを取り上げて嘲笑っている人たちは、「文化左翼」という言葉を知ってるのかな? 私は知ってるから、このことについて神谷氏を嘲笑う気にはまったくならないな。…
— 白井 聡/Shirai Satoshi(新刊、『マルクス 生を呑み込む資本主義』出ました) (@shirai_satoshi) August 24, 2025
白井氏は、「本物の左翼」として、自分も「非文化的」であり、「文化左翼」を批判する立場だ、と、立場を鮮明にしているわけですね。
左翼として頼もしい。
「文化左翼」批判については、私も取り上げてきた。
でも、私は左翼ではないから、白井氏ふくめて、現在の「文化」化した左翼リベラル総体を否定する、という暴挙を、ここではあえておこないたい。
「差別」するのは「主義」か
最近の左翼リベラルの思考を象徴するのが、「排外主義」とか「差別主義」とかいう言葉です。
新聞も普通に使っているが、変な言葉ですね。
彼らのいう「差別」「排外」的言動は、「主義」ーーすなわち、「思想」がおこなわせている。
だから、「排外主義者」「差別主義者」「レイシスト」の、その「主義」、その「間違った思想」を、改めさせなければならない。
はっきり言えば、ここには、糾弾集会なり、再教育キャンプなりで、彼らを「洗脳」し直さなければならない、という、極めて危険な発想がにおいます。
こういう左翼リベラルは、人間を、いわばコンピューターのごとき、「人工物」と捉えている。
「思想」というソフトを入れ替えれば、「正しく」作動するようになるだろう、といった発想ですね。
しかし、人間はコンピューターではなく、動物ですからね。
たとえば外国人問題でも、以下のように考えることができる。
動物は、同じ種でも、見かけない奴が自分のテリトリーに入ってきたら警戒する。臭いをかいだり、威嚇したりする。
そういう「差別」「排外」的行動は、動物としてきわめて自然な反応であり、その意味で「正しい」のではないか、と。
だから、もし外国人と社会的に融和させたいなら、暴力的な「洗脳」ではなく、時間をかけた共生の実践が必要だ、と(でも、それでもうまくいかない場合はありうる)。
私は、こんなふうに考えている。
つまり、ここでは、人間を「人工物」のように捉える人間観と、「動物」として捉える人間観が対立しています。
私は、終始一貫、人間を「動物」と考える人です。
でも、今は多くの人々が、とくに左翼リベラルが、人間を「人工物」のように考えている。
なんでも「文化」で説明する
「人工物」という言い方より、「文化の所産」という言い方のほうが、左翼リベラルにはしっくりくるでしょう。
人間は文化の所産である、という人間観は、彼らにはあまりにも当たり前すぎて、疑い得ない前提になっているかもしれない。
でも、そういう発想だから、過去に「文化大革命」なんて悲劇が起こった。文化を変えれば、人間は変わる、と。
問題は、現在、知識人とか学者とかの大勢が、この危険な「人間は文化の所産」という人間観を支持していることです。
これが困る。これが、現代の大迷惑です。
20世紀の初めには、学問の世界でも、こういう考え方は少数派だったと思います。
私は昔、フロイトという心理学者の理論を勉強していました。19世紀末から20世紀前半に活躍した人。
彼は、精神病の治療を目的として、「科学的心理学」を構想しました。
それは、今から見れば、「機械論的」「力学的」「生物学主義」と言われるものですね。
「リビドー」なんてのは、物理学の「エネルギー」からの発想です。
彼は、文化をふくめた人間の精神現象は、神経系メカニズムに還元され、最終的には、物理現象として説明されるだろう、と思っていました。
当時、「科学的」とは、そういう意味でした。
最終的には物理的実在に還元されるべきだ、というその発想は、今でも間違っていないと思いますけどね。
私は必ずしも専門ではないけど、マルクス主義も、当初はそういう「科学」を目指したはずです。
文化という上部構造は、経済という下部構造によって説明される。この下部構造は、基本的には物理現象です。
フロイトとマルクスは、こういうふうに、同じような思考法を持っていた。文化や社会という「観念」の世界を、実在的な「もの」に還元しようとする発想。だから、「科学的」に思えて、流行ったわけです。
フロイトの有力な弟子だったライヒなんか、フロイトのいう性的エネルギー(リビドー)が実在するとそのとおりに信じて、そのエネルギーを集める機械を売り、詐欺罪で訴えられたりしています。
でも、結論を言えば、フロイトもマルクスも、その「還元」に失敗したわけです。
どちらも「科学」になれませんでした。
どちらもインチキ学問で終わった。
だから、「フロイトとマルクスを統合した」というフランクフルト学派が、「学」なわけはないですね。
学問の堕落
でも、フロイトもマルクスも、いまだに学問・思想の世界では大物です。
ライヒなんかも、まだ心理学の教科書に載っていたりします。
20世紀の学問の世界で、巨大な隠蔽と詐欺が起こったんではないか、と私は疑ってるんですけどね。
学者たちが、彼らに、あまりにも乗っかりすぎたから、その失敗を直視できなかった。
まあ、陰謀論ですけどね。
彼らの大失敗を隠すようにして、「物理的還元」とは逆方向の、「文化的依存」の学問が「発展」していく。
それは、哲学で「言語論的転回」とか「構造主義」とか、社会学の「カルチュラル・スタディーズ」とか、いろいろゆーておりますが。
要は、人間は、「物理的実在」から切り離された、ある「文化的構造」の中で生きている、と。文化構築主義とも言いますが。
だから、「還元」は必要ないんだ、と。
フロイトやマルクスは失敗したんではない。そもそも必要ないことをしようとしていただけで、その部分は見ないようにしようよ、みたいな。
でも、それは学問の堕落ですよ。フロイト先生もマルクス先生も怒ると思う。
物理的実在に還元しなくていいなら、学問は、真実や真理にかかわるのではなく、ただの「意見」を言ってるにすぎなくなる。
上野千鶴子の言ってることなんか、それはただのあなたの感想ですよね。
でも、それを「科学」のごとく装っている。
いま大学でやってる、「学問」と称するもので、物理的実在と自然法則を根拠にもつもの以外は、全部インチキだ、とここで言い切っておこう。
ここで私が言い切ったところで、何の社会的影響もないからね。
生物学主義
私は、白井氏が「野蛮な、マルクス=レーニン主義者」を自称するのと同様に、「野蛮なフロイト原理主義」というか、生物学主義なんですね。
人間は、動物の一種にすぎない。これは、揺るぎない確信です。
でも、これも、いまだに生物学「主義」です。これ自体も一つの見方で、残念ながら、科学的に証明されていない。
人間には、「意識」とかの、現在、生物学主義では必ずしも説明できない現象がある。「文化」もそうですね。
でも、私は、それらも、いずれ生物学主義で説明されるはずだと期待しています。
左翼リベラル学者の見方は、人間は、動物以上であるか、動物以下であるか、いずれにせよ動物そのものではない、というのが前提になっています。
「狂った猿」とか、かつての心理学者の岸田秀の言い方だと「本能が壊れている」とか。
その場合に、人間特有の現象として、たとえば自殺とか、いわゆる「変態」(パーバージョン)とかが取り上げられてきた。
でも、いろいろ余計なことをしながらも、人間は種を再生産し続けているのだから、動物以外の何者でもあり得ません。
犬猫だって、よく見たら、暇な時にはいろいろ変なことをしています。
世論に媚びる学問
では、生物学主義の私にとって、動物学者は味方なのか、と言えば、そうでもないんですね。
最近、作家の小谷野敦氏が、Xでこんなポストをしていた。
山極寿一は最近やたらとゴリラは平和な動物だとか言ってるがなんか政治活動に使ってるような気がする
(小谷野敦 2025/8/20 11:14)
山極寿一は最近やたらとゴリラは平和な動物だとか言ってるがなんか政治活動に使ってるような気がする
— 小谷野敦🦖アンチTRAただし売春についてはTRA寄りらしい (@tonton1965) August 20, 2025
人類学者や動物学者も、私の記憶では、ほんの40年くらいまでは、動物たちの世界を「平和」ではなく「闘争」で描いていた。
たとえば、左翼社会学者のエーリッヒ・フロムの『破壊』なんて本が異常に持ち上げられていた。人類史を暴力と破壊の歴史として説明した本です。
それは多分、当時のマルクス主義的な階級闘争史観に、合致していたのではないでしょうか。
しかし、冷戦が終わった頃から、人類学者や動物学者は、動物を「平和的」に描くようになった。
そんな印象を私は持っています。
だから山極寿一だけの問題ではない。山極は、京大総長も務めた、まあ出世主義者だから、世論の風向きに敏感だということはあるかもしれませんが。ある程度、世界的な現象だと思う。
動物を「平和的」に描くことによって、
「本来、動物は平和的に共生できる。それができないのは、人間の『間違った思想』のせいだ」
と言いたいんだろう、つまり左翼リベラルの見方をアシストしてんだろう、と邪推しています。
(ここでは、生物学的多様性と、文化的多様性が、意図的に混同されたりする。)
冷戦時代は、いわゆる近代経済学の学者でも、マルクス経済学に媚びるようなことを言っていた。
生物学者や医学者も、ソ連のルイセンコ学説を振り回して学問の自由を蹂躙し、しかも冷戦が終わってもそういう奴が学界のお偉方になっていた、ということは、中井久夫も書いてましたね。
いわゆる自然系の学者でも、世論や政治に媚びるから、学者は信用できません。
最近は、量子論が俗流に普及して、「物理的実在など存在しない」という見方も広まったりしている。
そういうのも、左翼リベラルの世界観を地味にアシストしている。
リベラルの価値
ここにある対立を「生物主義」と「文化主義」とするなら、それは、いたるところにあります。
たとえば、現代の良心的リベラルの代表だと私が思っているスティーブン・ピンカー(ハーバード大の神経学者)は、最近Xで、以下のように「リベラリズム」を簡潔に定義していました。
私はリベラリズムを啓蒙主義の産物とみなしています。啓蒙主義とは、知識を活用して人類の繁栄を高めることができ、それを実行しようとすれば徐々に成功できるという考えであると特徴づけています。
"I identify liberalism as a product of the Enlightenment, which I characterize as the idea that we can use knowledge to enhance human flourishing, and that if we try to do it, we can gradually succeed."
(Steven Pinker 2025/8/21 2:12)
"I identify liberalism as a product of the Enlightenment, which I characterize as the idea that we can use knowledge to enhance human flourishing, and that if we try to do it, we can gradually succeed." pic.twitter.com/GT5kpeLDgx
— Steven Pinker (@sapinker) August 20, 2025
この説明自体は、正しいと思うんですね。啓蒙によって解放された「理性」が、人間に対してよいことをたくさんした。たとえば、人間は長生きになり、経済的にも豊かになった、とか。
でも、それを成し遂げた動力は、
「理性の活用によって、人の役に立ちたいという博愛主義者の利他的な善行」
だったのか、あるいは、
「理性の活用によって、人より儲けようとした資本家の利己的な貪欲さ」
だったのか。
そこにも、「文化主義」と「生物主義」の見方の対立があると思う。
前者は、いわば非営利的なNGOとかグレタさんとかに任せれば、世界はもっとよくなるだろう、という世界観ですね。
でも、私は「生物主義」ですから、それを深く疑っています。
ケインズの「アニマル・スピリッツ」ではないけれど、資本主義の発展には、啓蒙理性だけではない、人間の本能的な欲望、非合理的な判断が大きく関与しているはずです。
それを無視して、「リベラリズム」の達成も語れないと思うんですね。
あるいは、日本は第二次大戦後、なぜ戦争に巻き込まれずに済んだのか。
「憲法9条という、平和主義的プラカードが効力を発した」
のか、
「アメリカの核の傘という、本能的恐怖を催させる装置が効力を発した」
のか。
前者が「文化主義」で、後者が「生物主義」とするなら、私はもちろん後者の見方です。
自然に謙虚であれ
左翼リベラルの「文化主義」は、人類という種に、深刻な被害をもたらす可能性があると思います。
たとえば、「弱者」「少数者」を保護するのはいい。
でも、万事を「弱者」「少数者」を基準にしろ、彼らに合わせろ、というのは、違うだろう、と。
それは、生物としておかしいだろう、とか。
こうした「生物主義」は、弱肉強食の「社会進化論」とか「新自由主義」とかと同一視される、というか、左翼リベラルはすぐそういうふうに批判してくる。
でも、私が言いたいのは、人間は何者なのか、まだよくわかってないのだから、目の前の利害とか「平和」「共感」「寄り添い」だけで、社会全体にかかわる大きな問題を決めちゃいかんだろう、ということです。
生物としての当たり前から外れたら、結果として何が起こるかわからない。
そういう、自然に対する畏怖心というか、謙虚さを、もっと持つべきだと思うわけです。
<参考>
