「発達障害」「困った人」本の炎上で言っておくべきこと
22日に出る「職場の『困った人』をうまく動かす心理術」(神田裕子著、三笠書房)という本の内容が炎上している件。
触れないでおこうかと思ったが、言いたいことを言っておこう。
発達障害など“動物”で表現した新刊「あり得ない」「コンプラアウト」と物議
三笠書房から22日に発売される予定の新刊「職場の『困った人』をうまく動かす心理術」がネットで波紋を広げている。「困った人」という呼び方と、表紙のイラストが主に非難の的となっている。
心理カウンセラーとして働く神田裕子さんが著者。書籍の中では、ASDやADHDなどを「困った人」と呼び、サルやウサギ、ナマケモノなど動物で表現されている。
ネット上では、「ナチュラルに倫理的なコンプラアウトで、ちょっとすごすぎる」「さすがにこんなものが世に出るのはあり得ない」「差別を助長する」などと批判の声が多くあがり、炎上している。
(中日スポーツ 2025/4/16)
この件、2023年の『あの子もトランスジェンダーになった』と同様、出版停止に追い込まれないかと心配していた。
しかし今回は、批判者側、出版社側双方に良識が働いて、出版は止めない、出版されても批判を続ける、という方向で進んでいるようで、よかったと思う。
発達障害は、「LGBT」のような政治課題ではなく、共産党などが動かなかったからかもしれない。
いずれにしても、本が予定どおり出版され、そのうえで健全な批判がなされるならば、問題ないから、発達障害の専門家でもない私が口を挟む理由はないと思っていた。
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ただ、やっぱり、批判者側の「差別だ」という言い方に、引っかかる。
そこについてだけ言っておきたい。
もしこの本が、「差別本」として発売中止に追い込まれたら、さらに差別が増えるだろう、と私は思うからだ。
私がそう考えるのは、二つの経験にもとづく。
一つは、会社の人事でメンタルの「障害」がどのように扱われるか、私に多少の経験があること。
もう一つは、私自身がパニック障害で苦しんだ経験だ。
会社の人事を決める会議の席上で、ある社員はメンタルに不調があり、心療内科にかよった経歴がある、とされた時、その社員を積極的にほしがる部署はあるだろうか。
「そんな『不良品』は要らない」と、ある所属長が言った、という話を聞いたことがある。
私自身がメンタルの障害に苦しんだので、そういう「無理解」とは戦ったつもりだ。
だが、会社は学校ではなく、病院でもない。端的に「働けない者は困る」というのが所属長や人事権者の「本音」であることも理解できるのだ。
大げさに言えば、そういう葛藤は、私の現役時代に解決できないまま終わった。
所属長の人事評定で、「差別をしないこと」が、「数字を伸ばすこと」よりも評価される例は、私の時代はなかったと思う。
社長まで上り詰めれば、「キレイゴト」を言ってもいいかもしれないが。
まあ、そういう社会というもののリアリティがある。
私の知っている「会社」は昔の会社で、今はもっと理解が進んでいるだろう。
コンプライアンスとかいう、最近よく聞く言葉が、その「進歩度」を表しているそうだ。
最近の会社は、「あなたのメンタルに不調はありませんか? ストレスはありませんか?」と、社員におうかがいを立ててくれるところもあるらしい。
しかし、社員としては、「もしメンタルのことを正直に言って、人事で不利にならないだろうか」と考えないだろうか。
会社がそれをいくら否定しても、不安が残るのは、今も同じなのではないだろうか。
コンプライアンスなどという言葉ができたところで、社会や人間が急に変わるとは思えない。
言葉をつくってリアリティを誤魔化している偽善と欺瞞を感じる。
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この三笠書房の本は、そういう会社や組織の透明化されない「リアリティ」を前提にしていると思う。
正直、「いいところを突いている」と思った。
私も編集者だったから、そういう「人があえて言わないこと」を狙う出版社の意図はわかる。
今のことは知らないが、それは少なくとも、私が昔経験した会社での「所属長目線」での本音を語っていると思った。
もし、この本が「差別的」だと糾弾され、発売停止に追い込まれたらどうなるだろう。
企業としては、「面倒くさいから、そういう人は入社試験でハネよう」ということになるに決まっている。
それについて語ることそのものが「差別的」だとされれば、「アンタッチャブル」を増やすだけである。
それは、糾弾者の自己満足にはなるかもしれないが、問題の解決にはならず、むしろ解決を遠ざける。
それは、外国人や移民の問題と同じで、「差別だ」「差別主義者だ」と糾弾して問題がなくなるはずはない。
長い時間をかけた相互理解で解決するしかない。
本書への批判者は、だから「差別的」という言葉を使わずに、発達障害とは何か、その機序について医療的な解説を、粘り強く続けてほしいと思う。
それなら、私も耳を傾ける。私も発達障害についてはよく知らないから。
それが論敵を「差別主義者だ」と決めつける勢力なら、私は背を向ける。
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以下は余談だが。
前にも書いたが、私は昭和の時代に「神経」を病んだので、その頃に、私なりに精神医学や心理療法の本をたくさん読んで勉強した。
しかし、1990年代半ばのDSM(精神疾患の診断・統計マニュアル)改訂で、精神障害の呼び名が大幅に変わった。
不安神経症、不安ノイローゼといった言葉が、不安障害とかパニック障害とかいう言い方になった。
発達障害についての病名のあれこれも、ほとんど今世紀になってから登場したように思う。
私が、ちょっと皮肉だと思うのは、この「障害」という言い方である。
これは英語の「ディスオーダー disorder」の訳語だと思う。
発達障害も、英語で「developmental disorder」だ。
DSM大改訂の趣旨は、古いドイツ的な実体論的・本質主義的な病名から、アメリカ的な機能主義的な病名に変えようということだと思う。
昔は、精神障害は、コンピューターで言うなら「ハード」の故障だと思われた。「心の傷」を「トラウマ(外傷)」というように、物理的・器官的な故障と想定されたのだ(だが、その原因はほとんど不明とされていた)。
しかし、アメリカ的な機能主義は、「原因」よりも症状の現れに着目し、それをいわば「ソフト」の一時的不具合だととらえる。(だから、極端に言えば、原因がわからなくても、改善されればいいという方針になる)
ノイローゼ(神経症)から、なんとかディスオーダーへという名称の変更は、そういう「ハード」から「ソフト」への焦点の移動を反映していると思う。
それなのに、ディスオーダーを「障害」と訳したため、あたかもそれがハードの故障のように思われる余地を残した。
ディスオーダーという言葉は、いわば「不具合」「不調」という「軽い」意味であることに意義があるのに。
実は、日本語には、「ディスオーダー」の訳語にぴったりの言葉があった。
「きちがい」という。
「きちがい」というのは、ちょっと人とは「気」がちがっている、という軽いニュアンスを含んでいた。
だから、昭和の時代には、普通に「パチンコきちがい」とか「虎キチ(阪神タイガーズファン)」とか、新聞でも使っていた。
そういうぴったりの言葉があり、人々は精神病を日常の延長線上でとらえる視点があった。
それなのに、その「きちがい」を差別語として放逐したため、むしろどんどん精神障害を言葉の上で、「重い」「特別な」「日常と一線を画した」「アンタッチャブル」にしてしまった。
だから、うかつに「差別だ」なぞと言うべきでないのだ。
<参考>
