草原の体験――モンゴル旅行記:その3


飛行機で5時間半から6時間のところにあるモンゴル(首都 ウランバートル) ✈️

草原の体験――モンゴル旅行記:その3


さて前回は羊くんの話だったので、今回は馬くんの話をしたい。
そもそも騎馬遊牧民族であるモンゴル人にとって、馬は最も身近であり、また最も神聖な存在でもある。これは日本人にとっての、お米みたいなものであろうか。お米は言わずと知れた日本人の主食である一方で、お酒にして神事に用いられることも有る。
僕が成田から乗った飛行機は「モンゴル航空」のものなのだが、その機体に描かれていたシンボルも馬をモチーフにしたものだった(僕は見えていないが)。だから日本にとっての富士山や鶴の様に、馬はモンゴルのナショナル・アイデンティティなのだと団長の昇(のぼり)さんは仰っていた。


だからモンゴルと関わっていると、日本人であっても自然と馬に対する敬意が生じて来る。案内してくれた風の旅行社の高嶋さんも、馬のことを一貫して「お馬さん」と呼んでいた。最近、日本でもペットの犬を「犬」と呼んではいけないという風潮が有る。犬も家族の一員なので、人間と同様に「コロちゃん」と名前で呼んであげることが先ずデフォルトだ。そして名前が分からない時には「お宅のワンちゃん」と最大限に配慮した表現にしておかないと、飼い主に怒られてしまう。
家畜系である僕は動物の地位向上をライフワークにしているので、こういった昨今の趨勢を非常に好ましく受け止めている。

さて風の旅行社のツアーには、乗馬体験が含まれていた。馬の乗り方については事前に書面で丁寧に説明してくれていたので、実際に乗るときには特に困らなかった。詳細は割愛するが、馬に乗る作法は基本的に自転車のそれと変わらない。詰まり必ず馬の左側から近づいて、鐙に足をかけて鞍に飛び乗る。これ以外にも手綱の持ち方や緊急事態の対処方法など、事前に頭に入れておかなければならないことは山ほど有るが、僕の場合は「引き馬」だったので、殆どは必要ではなかった。
引き馬ということは詰まり、馬に乗っている人以外の誰かが、その馬を前から引いていることだ(だから手綱で馬をコントロールする必要も無い)。日本の乗馬クラブだと、最初に引き馬をするインストラクターさんは恐らく、歩きながらするのだと思う。しかし僕たちの場合は、のっけから数キロ先の小高い丘に行くことになっていたので、引き馬をする方も馬に乗っていた。このインストラクターさんは現地の遊牧民の方で、自分の馬に乗りながら日本人の乗っている二頭の馬を引いていたのだ。
そして、この「数キロ先の小高い丘」というのが、第一回で述べた「ゴビ砂漠の北端」である。よって、僕は見て確認することは出来なかったが、そこからは最早「草原」ではなく、ひたすらに土色の大地が広がる「砂漠」になっていた筈である。

ゴビ砂漠の端っこ


さて話は代わって、乗馬の初心者にとっての最初の難関は「お尻」だ。詰まり絶えず前後に揺れる鞍の上に何時間も座っていると、靴擦れと同じ様に鞍との摩擦でお尻の皮膚が剥けてくるのだ。だから乗馬初心者には、パンツの上から介護用のオムツを履くことが推奨されている。
だが面倒くさがり屋の僕は、そんなものは意地でも履かない。かと言って、お尻の皮がめくれるのも真平ごめんだ。だから僕にとっての乗馬の当面の目標は、風景を楽しむことでもなければ人馬一体になることでもなく、ひたすらお尻の皮を無傷のままで死守することだった。
だから僕は馬に乗ってからは、ひたすら揺れに逆らわなかった。丁度、柳の木の様にどんなに馬に振られても、振られたままにしていた。だから僕は馬の背中に固定されたスプリング(ばね)の様に揺れに合わせてビヨンビヨンと振り回されていたのだ。
僕は最初、この戦略で上手くいったと思っていた。ところがインストラクターの人から「竹下さん、姿勢が悪いですねぇ」と注意された。そこで仕方なく脚に力を入れて、鐙を使って下半身を固定することにした。そこで初めて分かったのだが、鐙で踏ん張って下半身を固定しようとすると、それが原因で鞍とお尻の摩擦が始まるのだ。「これが続くと、お尻の皮は危ないぞ」と思っていた矢先、タイミングよく一回目の乗馬は終わった。

1回目の乗馬 ゴビ砂漠


だから結局、二回目の乗馬の時には「鐙を使って下半身をガチガチに固定しつつも、お尻の鞍との摩擦をゼロにする」ということが、僕にとっての最大のテーマとなった。無論、全てはお尻の皮のためだ。程なくして分かったことは、上半身と下半身を完全に分離すれば問題は解決するということだ。
先ず脚に力を入れて鐙で踏ん張って、お尻を鞍にビタッとつける。こうして鞍とお尻の摩擦は無くなる。しかし馬の体は動くたびに前後に動くので、このままだと上半身がものスゴく振られることになる。だから自分の上半身は別の生き物で、天井から吊り下げられているとイメージする。そうすると下半身の揺れは全てウエストが吸収して、その上に上半身が「乗っている」という状況になるのだ。
四本足の馬と、それに乗っている僕の下半身までが、全体として「馬」であるのに対して「人」である僕は横隔膜よりも上だけの存在になる、と考えてみて欲しい。そして、その二つの生き物が全く別の動きをするので、その間にあるウエスト部分が、ゴムの様にキコキコとい揺れを吸収するのだ。何年か前に乗馬を模したエクササイズマシンが有ったが正に、あれに乗っている人の感じだ。
体の下半分はやたらと揺れているはずなのに、上半身は全くブレずに涼しい顔をしている。程なくしてインストラクターさんから「竹下さんは、姿勢が良いですね」と言われる様になった。だから多分、このやり方で合っているのだと思う。
こうして、僕のお尻の皮は守られた。これは僕にとって米価の高騰よりも、また地球温暖化よりも重大なことなのだ。しかし、これで気を抜いてしまったせいか、モンゴル旅行用に新しく買ったサンダルで、靴擦れをしてしまった。お尻の皮は馬の揺れから死守したが、足の皮は豆粒大にめくれてしまったのだ。「思わぬところに伏兵が」とは、こういう時に使う言葉なのだろう。

2回目の乗馬 丘の上


結局、最初から最後まで引き馬だったので、僕が手綱を引いて馬を「コントロールする」ということは無かった。そもそも、目の見えない僕には右に行けとか左に行けとか指示をだすことは出来ないので、やるとしたらせいぜい速く走らせることくらいだろうか。
さて一般に馬の「歩法」は、大きく分けて四種類ある。先ずは常歩(なみあし)、そして次が速歩(はやあし)、そして更に速いのが駈歩(かけあし)である。更に、この上に襲歩(しゅうほ)という最速の走り方があるのだが、競馬の時にしか用いない特殊なものらしい。これらに加えて馬術競技では障害物を飛ばせたり、斜めに走らせたりするが、僕は、ここまで出来る様になりたいとは思わない。
恐らく乗馬の魅力というのは、「どれだけ上手に馬をコントロールできるのか」というメンタルの問題と、激しく運動する馬に「どれだけ上手に乗っていられるか」というフィジカルの問題が複雑に絡み合って混在している点にあると思われる。
例えば馬に障害物を飛ばせるとしたら、それは馬のフィジカルにとっては何の問題もない。しかし指示を出す人間の方に障害物を超えることに対する恐怖心が有るならば、即ちメンタルに揺らぎが有るならば、馬の制御に悪影響が及ぶだろう。また人間の恐怖心は「自分は馬から振り落とされないか」という心配に由来するものなので、このメンタルの問題は自分のフィジカルに対する信頼と連動していることになる。
僕は全ての動物を一瞬で手なづける「ナウシカ・オーラ」を持っているので意のままに馬をコントロールできるかどうかについては、最初から何の不安も無い。なにしろ乗馬用の馬というのは人が操ること前提で調教されているものなのだから。しかし馬の動きが激しくなった時に、そこから振り落とされないためのフィジカルは、それとは別に鍛えなければならない。そして当然、この「フィジカル」には視力も含まれる。何故なら例えば、どのタイミングで馬がジャンプするかは、障害物までの距離を目視できていないと分からないからだ。
確かに乗馬は乗馬で楽しいが、動物と遊ぶ為には、別に背中に乗る必要は無い。餌をやったりブラッシングをしたりするだけでも、家畜好きの僕にとっては充分に楽しい。今回、残念だったのは安全上の理由から、馬の体をナデナデすることは許されていなかったことだ。それで馬の体を触る代わりに、仕方なく鬣(たてがみ)をサワサワして我慢した。

最後に馬つながりで馬乳酒の話。

馬乳酒を丼一杯いただく
モンゴル相撲のトーナメント


僕は基本的にお酒は飲まないが、旅先で「文化」に触れるためにお酒を口にすることは寧ろ、積極的にやっている。運の良いことに、滞在していたキャンプ場の近くに遊牧民の方が住んでいて偶然、僕たちの滞在中に個人主催のお祭りをしていた。何でも、その一族の内の誰かがモンゴル政府から表彰されたらしく、それを祝福するものだというのだ。草原のド真ん中にスピーカーを置いて爆音で音楽を流したりして、最後の方にはモンゴル相撲のトーナメントもあった。
それを僕たちは横から見させて貰っていたのだが、部外者であるはずの僕たちにもナッツやチョコレートといったお菓子が次から次へと提供された。そんな中で馬乳酒が振舞われたのだが、この味を僕は一生忘れない。
馬乳酒というのは基本的に乳酸菌飲料なので、日本のカルピス・ソーダを水で割ったものを想像して頂けると味のアウトラインを凡そ描いたことになる。但し甘さはゼロで、その代わりに乳酸の酸味がかなりキツい。そして軽い炭酸が縦にあって、アルコールは下に溜まっている感じだ(確かアルコール度数は2から3%と聞いた)
これが「全体像」なのだが、味のメインは主に上層部で感じられる粉っぽいサワーチーズの味だ。
この「粉っぽいチーズ味」
というのは恐らく、日本人には想像できない。幸い僕が、以前に両親がモンゴル旅行をした時に買って帰ったものがあったので、それと同系統の味だとスグに分かった。これを日本に有る食材で例えるなら、矢張りヨーグルトが一番近い。普通のヨーグルトをカラカラに乾燥させて、粉状になったものを圧縮して塊にする。それはチーズなので僅かにコクも有るし、酸味も強くなっている。
おさらいすると馬乳酒は微炭酸で、酸っぱくて薄〜いカルピスの味の上層部で、この「粉っぽいチーズ味」が飲んでいると徐々に堆積するのだ。「堆積する」というのは詰まり、旨味が口の中で蓄積されていく様な感覚だ。それは「しつこい」という程ではないが、ゴクゴク飲もうとは思わない様な感じだ。
馬乳酒は弱いお酒なので、日本のドンブリくらいの大きなお椀に、並々と注がれて供される。よって恐らく、本来の作法はグイっと一気飲みをすることなのだろう。しかし僕はじっくり味わいたかったのでチビチビ飲んでしまって、その結果として喉にひっかかる様な、「粉っぽさが堆積する」という感覚を持ったのかも知れない。そして僕は目が見えないので、お祭りはそっちのけで馬乳酒を飲んでいたら、気が付いたら僕だけ全部、飲み干していた(他の日本人は恐らく、ちょっと飲んで返していたのだと思う)。
これで僕は「飲めるヤツ」と認定されてしまったのか、それからは蒸留酒のウォッカも振舞われた。一応、味見はしてみたが、これに関しては「よくあるキツいお酒」という印象以外に、感想らしいものは何も無い。
どうやらモンゴルには、日本人が知っている「ロシアのウォッカ」と、モンゴル・ウォッカの二種類が有り、僕はその両方を飲んではみたのだが、それら二つの区別すらつかなかった。

旅行に行くということは即ち、現地で「珍しい体験」をしたいということなのだが、自分の中に「引き出し」の無いものに関する体験は、すぐに流れていってしまう。例えば西洋美術に興味の無い人は、ルーブルに行っても何も体験しないかも知れないし、クラシック音楽に興味のない人は、ウィーン・フィルを聴いても少しも感動しないかも知れない。同様に、僕には醸造酒の「引き出し」は有ったけれども、蒸留酒の「引き出し」は無かったみたいだ。
こうして僕はヒキコモリ生活から旅行に出たことで、自分の中に、どのひき出しが「無い」のかを知った。
そう、人生は冒険や!!!


草原の体験--モンゴル旅行記:
その1
その2

モンゴル旅行記:その4🐎
🐃🐏🐪🐐



photo exhibition by kazuo takeshita



モンゴルの草原




モンゴルの草原を行く馬



草原での乗馬体験




うーさんと語るモンゴルの旅 📻

3  - Nomadic Ger 包
… パオが快適すぎて大好きになったノマドてっちゃん。ヤギチーズをおそるおそる食べたうーさん。ダイスケさんのドイツのキッツイ香りでも美味しかった発酵食品の思い出。ミルヒライスってお米の甘いお粥ってどうよ。ヤギミルクの発酵酒飲んだよ〜。うーさんの食物と命への感謝の気持ち。

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