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この時代の日本で生活するということ

ありがとうございます

はじめに


 
理系の研究室にいながら、学生とともに自主的に地歴公民を学んでいる。公務員試験の教養対策という名目だが、今、日本史の戦後史を読み解く中で、この国が辿ってきた数奇な道のりに深く思いを馳せざるを得ない。自分が生きているこの国とは何なのか。その問いが頭の中を巡る。

今日は、そんな話。

戦後、高度経済成長の影で

 わたしは戦後十数年を経て生まれた。すでに高度経済成長の真っ只中だったが、我が家は決して裕福ではなかった。長男でありながら実家を離れ、都会の工場で働く父。私はその街で生まれ、そこで育った。

幼少期の竹藪に囲まれた長屋の記憶を辿ろうと、先日、両親とともに診察待ちの間にスマホのマップで当時の地図とともに確認してみた。しかし、辺り一帯は新興住宅地として平坦に均され、かつてあった大家さんのブドウ園の面影すらない。唯一、当時から続く高圧線鉄塔だけがかつての風景の名残を留めていた。

「昭和」の暮らしと未来への予感

 その後、典型的なアパートの団地に移り住んだ。この棟には我が家と同様の同じ会社の核家族がひしめき合っていた。いわゆる社宅。父が大手の会社員とようやく実感できた暮らしだったが、生活は質素で、わたしがカギの管理を覚えると同時に母も勤めに出た。いわゆる「鍵っ子」の誕生。

今、こうして学生たちと日本史の資料集を振り返ると、当時の「昭和の暮らし」を収めた白黒写真は、そのまま我が家の日常と重なる。今と比べて全般的に質素な暮らしを営む当時の庶民には、「明日には今より良くなる」という確かな予感があったと思う。

世界の波とリストラの足音


 
しかし、小学校高学年で遭遇したオイルショックを機に、社会の歯車は軋み始める。安定成長期という言葉とは裏腹に、父の給与は伸び悩み、母の労働時間は延びた。やがて企業の業績悪化に伴い、凄まじいリストラが始まった。

中学生になった私は、社宅で顔を合わせていた近所の人々、役付きの社員ですら例外なく会社を去っていく姿を目の当たりにした。現実は、容赦なく厳しかった。

父の姿


 
そんな逆境の少し前から、父は資格取得に邁進していた。私が受験勉強をする傍ら、父もまた自らの生き残りをかけて机に向かっていた。私が大学へ進学してからも父は孤軍奮闘し、社宅で一番の古株となっても会社から重宝される人材であり続けた。

おわりに

 「はじめに」に呼応するかたちで、問いかけとしての日本の現代をまとめたい。

 わたしは昭和の後半から平成を丸ごと生きてきた。我が家の歩みは、そのままこの国の変動とともにある。先日、老いた父が「定年まで働けたのは幸運だった」と話した。戦争の記憶を持ち、古いやり方だが手仕事の勘を失わなかった父の世代は、危機に対して驚くほどタフだった。会社でそんな特質を郷里で祖父からみっちり教わり心底から備えた父は頼られたのだろう。

それに対して、今の私にどれほどの危機対応能力があるだろうか。最先端技術や理系知識という言葉に踊らされつつも、この国の30年にわたる停滞を前に、私たちは失ってしまったものがあるのではないか。例えば、現在のアジアをはじめとする国々にはさまざまな事情で結果としてそれが未だに残り、若い方々の一部も含めて従事されている。持続可能性という観点ではいざというときむしろ強い。

我が国の人口は減りつつある。今ある職を同人数で維持することは難しい。それとは別に、泥臭く「生きる術」を備え、いざという時にそれを発揮できるよう各人が会得ないしは維持しておくこと。それが、この不確実な時代を生き残るための本当の備えなのかもしれない。戦後の歴史を改めて振り返りつつ、そんなふうに思った。


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