夏の途中下車の旅 残余録
はじめに
夏の旅について記したばかり。
あとになっていろいろ考えて、記しておきたいと思ったことがある。
きょうはそんな話。
縁(ゆかり)の地か
毎年訪れる静岡県。全国に都道府県は48もあるのに、この地には若い頃に何度か別に関わったり、立ち寄ったりする機会がある。ひとつは大学受験。化学を専門にしようと志し、そう決めたのはそんなに早いタイミングではない。
北九州に住んでいた中学の頃は、近くの工業高校に進んで卒業したら父と同じく工場勤めをするんだと思っていた。ところが、高校入学時で進路は全くの白紙に戻る。なぜならば、自分が進んだ学校が国公立大学に毎年3桁の人数で合格者を出す進学校だと入学式で知ったことが大きい。私にも大学を選ぶ進路がありそうだ気持ちが揺れた。国公立大ならばチャンスがありそう。
入学時には上から2桁の成績が油断して夏休み後でガタガタに。ようやく持ち直したのは2年生も終わる頃。職業適性検査を受けても明確な結果が出ず、担任は苦笑い。進路がようやく定まったのは高校3年の2学期の半ばぐらい。それまで化学の他に生物などのある理学部、あるいは職業で選ぶならば技術(技術家庭科のこと)か美術の先生を目指す教育学部かで迷った。
進路次第で
教育学部よりは理学部かと少しだけ絞れたのは、理学部からでも理科の中学・高校の教員免許状が取れて先生になる道があると知れたから。理学部に絞ったとはいえ、化学ならばこの県のこの大学、生物ならば別のところ。ギリギリまで迷っていた。
というのもジリ貧の成績から、高3夏休みの頃には生物に関しては全国でランキングされ、本人が驚いたほど。社会や国語も仕上がっていた。担任からは「おまえは文系かと思っていた。」とひと言。たしかに文系の大学選択のほうが難易度の高い大学も目指せていた。それぐらいに達していたから薬学部まで視野に入りかけた。
一次試験の結果、最後まで残った選択のひとつが静岡市の草薙にある静岡薬科大学(現在の静岡県立大学薬学部)だった。ここならば製薬業界への就職、あるいは選択によっては薬剤師の資格を得ることも可能。しかも当時は他の国立大学と受験日が異なり、結果として国公立だけで複数校の受験ができる。ただし倍率は高く、13倍ほどだった。こちらを本命にすることはリスクが高く、もう一方の理学部のある大学のほうがもちろん本命。
静岡で
こうして同じ大学をたまたま受験する同級生のO君とふたりで、朝早くの新幹線で静岡の地を試験の前日に訪れた。ふたりともここは本命ではない大学。O君の本命は旧帝大で、地方大志望の私とは立場が違う。ふたりの一次試験の成績の差は30点ほど。この差はけっこう大きい。ここの試験には学科試験とはべつに小論文が課されていた。高校の国語の先生にお願いして、事前にテーマを決めてもらい、作文の添削指導を3度ほど受けていた。
試験開始で配られた小論文の問題を見て驚いた。練習したうちのひとつと全く同じだった。練習して添削のポイントまで先生から説明してもらえていた。ーしめたーと思ったのは束の間、私はうれしさのあまりあろうことか、きれいさっぱり練習し添削を受けた内容を忘れてしまった。しどろもどろの状態でタイムアップ。これは失敗したなとその場で思った。
O君と帰り道の下り坂から見えた雪を被った富士山が印象的だった。どんな話をしながら駅に向かって歩いたか覚えていない。その日の夜に家にたどりつき、寝床の中で今年の受験は両方とも…と思ったものだった。予備校の申し込みの手続きをせず、締め切り日を迎えていたけれど両親には言っていない、どうしようかと思いつつ眠りについた。
おわりに
それから数週間のちの合格発表は予想外の結果。本命のほうに受かっていた。もちろん静岡のほうには縁がなかった。O君は両方とも合格。ところがそれから5年後、つまり修士課程修了まであと10か月後という段階で静岡に研究所をもつ、一部上場の東京の製薬会社の研究職に内定が出た。何とも不思議な縁を感じる土地柄。ついでに記すと、O君の進んだ大学の学部の大学院で私はそれから10年後に論文博士の学位を得た。
静岡の地。一度は向こうから断られ、そして今度はこちらから断りを入れた。縁があるようで果たせておらず、何ともやるせない。そしてここ数年、人との繋がりができて毎年訪れる地となった。何かしら貢献したい気持ちが湧いてくる。今年の旅はそんな記憶とともに18歳で訪れた2か所を訪れた。
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